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個性はどこから生まれるのか――AIキャラクター設計から考える、身体の時間とブランドの視点

はじめに

最近、AIキャラクターについて考えている。

正確には、AIキャラクターを作ろうとしている。

AIチューバーなのか、AIブロガーなのか、それとも別の形なのか。
まだ具体的な形は決まっていない。
しかし設計を考え始めると、
私は技術的な問題よりも先に、一つの壁にぶつかった。

個性をどう作るか。

意外なことに、それが一番難しかった。

AIに喋らせることは、もうそれほど難しくない。

自然な文章を書くこともできるし、雑談もできる。
質問にも答えられる。

だからこそ、その先にある「このキャラらしさ」をどう作るかという問題が残る。

最初は、簡単に考えた。

特徴的な口癖や、語尾、一人称を決めればいい。

少し変わった言い回しを用意すれば、キャラクターらしくなるだろう、と。

ところが、考えれば考えるほど奇妙な感覚が生まれてきた。

口癖を増やせば増やすほど、
キャラクターが生き生きしていくどころか、記号になっていくのである。

「このキャラはこういう話し方をする。」

これは確かに分かりやすい。

しかし、その分かりやすさは、どこか薄っぺらい。

長く見れば見るほど、
「またその口癖か」という印象だけが残り、人格そのものは見えてこない。

最初は「個性」だと思っていたものが、
実は「ラベル」を貼っていただけだったのではないか。

そんな違和感が拭えなかった。

人格が口癖を作る

そこで私は、
人気のアニメや小説の主人公や、映画の登場人物など、長く愛されているキャラクターを思い浮かべてみた。

その中に特徴的な口癖を持つキャラクターはたくさんいる。

しかし、私たちは本当にその口癖を好きになっているのだろうか。

少し考えてみると、そうではないことに気づく。

私たちが惹かれているのは、

  • そのキャラクターが何を大切にするのか。

  • 何を嫌うのか。

  • 何を恐れるのか。

  • どんな場面で怒り、どんな場面で笑い、どんな場面で沈黙するのか。

つまり、そのキャラクターがどのように世界を判断する存在なのかである。

例えば、同じ出来事が起きても、

あるキャラクターは正義を優先するだろうし、
あるキャラクターは仲間を優先するだろうし、
あるキャラクターは自分の信念を曲げないだろう。

私たちは、その一つひとつの判断を見ながら、
「このキャラらしい」と感じている。

口癖は、その結果として自然に記憶に残るだけなのだ。

つまり、

人格が口癖を作るのであって、口癖が人格を作るのではない。

私はそう考えるようになった。

人格をコンピュータでいうOSだとするならば、

思考が生まれ、
判断が生まれ、
言葉が生まれ、
そして最後に口癖が生まれる。

口癖は、人格という巨大な構造の一番表面に現れた現象に過ぎない。

だから口癖だけを後から貼り付けても、
本当の意味で「そのキャラらしさ」にはならないのである。

違和感の正体を探し始めた

そう考えたとき、私は別の疑問にぶつかった。

もし口癖だけでは人格にならないのなら、人格とは何なのだろう。

AIキャラクターを作ろうとしていたはずなのに、
私は「個性とはどこから生まれるのか」という問いの前に立っていたのである。

そして、この問いはAIだけの問題ではないことに気づき始めた。

私たち人間もまた、「個性的になろう」とすると、
まず話し方を変えたり、肩書きを増やしたり、SNSで自分らしさを演出したりする。

しかし、それで本当に個性は生まれるのだろうか。

もし口癖が人格を作らないのだとすれば、
人間の個性もまた、もっと深い場所から生まれているはずである。

その答えを探すことが、
結果としてAIキャラクターを設計する近道になるのではないか。

私はそんな気がしてきた。

日常を持たせれば、人格になるのか

口癖だけでは人格にならない。

そう考えたとき、次に思いついたのは「日常」を持たせることだった。

キャラクターに日常があれば、もっと生きている感じが出るのではないか。

たとえば、ブログを書かせたり、SNSに投稿させたり、日記を自動生成させるといったことだ。

「今日はこんなことがありました。」
「少し疲れています。」
「雨の音を聞いていたら、昔のことを思い出しました。」

そうした文章を毎日投稿させれば、
少しずつ人格らしさが積み上がっていくように見える。

口癖だけのキャラクターよりは、ずっと豊かに見えるはずだ。

けれども、ここでも私は違和感を覚えた。

それは、最初の違和感とは少し種類が違っていた。

口癖だけのキャラクターは、記号のように見えた。

一方で、日常を投稿し続けるAIキャラクターは、少し気味が悪かった。

なぜだろう。

そのAIキャラクターは、
実際にラーメンを食べていない。
実際に疲れていない。
実際に雨の音を聞いていない。

にもかかわらず、日常だけが生成されていく。

「今日はこんな一日でした」という文章が増えていく。

それは一見すると人間らしいが、
よく見ると人生の形だけをなぞっているようにも見える。

日常とは、本来ただの出来事の羅列ではないだろう。

AIキャラクターの日記には、実体がなく、文章だけがある。

ここに、私が感じた気味の悪さの一部がある気がした。

人間のSNSもまた虚構である

ところが、この違和感を考えているうちに、
私はすぐに別の問いにぶつかった。

では、人間のSNSは本当に実体なのだろうか。

私たちもまた、SNSでは見せたいものを選んでいる。

  • 写真を良く見せるため、加工する。

  • 生活の一部だけを切り取る。

  • 楽しい部分を少し強調して、苦しい部分を隠す。

そう考えると、SNS上の人間もまた、現実そのものではない。

編集された自己像である。

もちろん、投稿している本人は実在している。

しかし、SNSに現れている人格は、本人そのものではなく、
本人の一部を切り取り、並べ替え、整えたものだ。

つまり、人間もまた、ある意味では虚構を生きている。

このことに気づいたとき、
私はAIキャラクターだけを「実体がないから気持ち悪い」と言い切ることができなくなった。

AIキャラクターの日常が虚構であるように、
人間のSNS人格もまた虚構である。

では、両者の違いはどこにあるのか。

虚構であること自体が問題なのではない。

問題は、その虚構の奥に何があるかである。

人間のSNSは虚構かもしれない。
しかしその奥には、実際に時間を生きてきた身体がある。

失敗した記憶、
評価されて緊張した経験、
何かを失った日の重さ、
誰かに救われた瞬間の温度

がある。

表に出てくる投稿は編集されたものでも、
その奥には身体を通過した時間が沈んでいる。

AIキャラクターの日常投稿に感じる違和感は、虚構だからではない。

その虚構の奥に、身体の時間が見えないからなのではないか。

個性とは氷山である

では、個性とは何なのだろうか。

私は個性を、氷山のようなものだと考えている。

海面から見えている部分は、ほんの一部でしかない。

  • 言葉

  • 口癖

  • 態度

  • 表情

  • 姿勢

  • 声の出し方

他人から見える「その人らしさ」は、たいていこの辺りに現れる。

しかしそれは氷山でいえば、
海面の上に出ている部分であり、個性全体のごく一部である。

その下には、もっと大きなものが沈んでいる。

  • 思考

  • 価値観

  • 判断基準

  • 何に違和感を覚えるのか

  • 何を避けようとするのか

  • 何を大切にするのか

さらに深く潜ると、そこには無意識がある。

  • 本人が意識していない記憶

  • 言葉になる前の反応

  • 理由は説明できないけれど、なぜか苦手なもの

  • なぜか惹かれるもの

  • なぜか怖いもの

  • なぜか許せないもの

私は、個性とはこの海面上と海面下をひっくるめた総体だと思っている。

意識している部分は、おそらく全体の一部でしかない。

私たちは「自分はこういう人間だ」と説明することができる。
しかし、その説明できる自己像は、氷山の上に出ている部分に近い。

本当の個性は、その下に沈んでいるものまで含んでいる。

だから、人は自分でも思いがけない反応をする。

頭では平気だと思っているのに、身体が固まる。
理性では怒るほどではないと分かっているのに、なぜか許せない。
説明できるほど好きではないはずなのに、どうしても目が離せない。

個性とは、自己紹介文に書けるものだけではない。

むしろ、自己紹介文に書けないものの方が、その人を強く形作っている。

身体は時間を記憶している

この氷山の深いところに、私は「身体」があると思っている。

個性は、頭の中だけで作られているわけではない。

身体もまた、その人らしさを作っている。

ここで言う身体は主に容姿や体形の話ではない。

たとえば、面接や大勢の前での発表の場面を想像してみよう。

目の前の面接官は敵ではない。
発表で少し失敗しても、命を取られるわけではない。

頭ではそう理解しているのに、身体は緊張することがある。

このとき、身体は現在だけを見ていないのだと思う。

身体は、過去の時間を見ている。

昔、人前で失敗した記憶。
誰かに評価された記憶。
笑われた記憶。
怒られた記憶。

それらは、すべて言語化されているわけではない。
しかし身体には残っている。
だから似た場面に出会ったとき、身体は理性より先に反応する。

「これは危ないかもしれない」と。

人前で失敗することや共同体から外れること。

それらは、ただ恥ずかしいだけではなく、
生きることそのものに影響していた時もあったのではないかと思う。

だから身体は、評価の場面に敏感である。

理性は現在を見ている。

しかし身体は、それよりずっと長い時間を背負っている。

経験とは、身体に沈んだ時間である

経験というと、私たちは知識やエピソードを思い浮かべる。

いつ、何があったか。
何を学んだか。
どんな結果になったか。

しかし本当の経験は、もっと身体的なものなのではないか。

たとえば、同じ「失敗した」という出来事でも、人によって残り方は違う。

ある人にとっては、

次に挑戦するための材料になる場合もあるし、
二度とそこへ近づきたくない記憶になる場合もあるだろう。

笑い話になる場合もあれば、長く身体を固くする出来事になる場合もある。

出来事そのものは似ていても、身体への沈み方が違う。

そして、その沈み方の違いが、次の反応を変える。

一度大きな失敗をした人は、似た場面で慎重になるかもしれない。
何度も乗り越えてきた人は、同じ場面で落ち着いて動けるかもしれない。
傷ついた経験のある人は、他人の小さな沈黙に気づくかもしれない。
ずっと急かされてきた人は、待つことが苦手になるかもしれない。

こうした反応は、単なる性格ではない。

身体に沈んだ時間の表れである。

だから、同じ価値観を持っていても、人の言葉は違ってくる。

同じ「優しさ」でも、

  • すぐに手を差し伸べる優しさ

  • 相手が話し出すまで待つ優しさ

  • 何も言わずに隣にいる優しさ

がある。
どれが正しいという話ではない。

それぞれの身体が通過してきた時間が違うから、
優しさの現れ方が違うのである。

個性とは、価値観だけではなく、
価値観が、身体を通過した時間によって変質したものである。

その人がどんな時間を生きてきたか。
どんな場面で身体を固くしたか。
どんな瞬間に呼吸が深くなったか。
何を怖がり、何に安心し、何を繰り返し乗り越えてきたか。

そのすべてが、言葉になる前の層で個性を作っている。

AIキャラクターとの違い

ここまで来ると、AIキャラクターに感じる違和感も少し見え方が変わってくる。

AIは価値観らしいものを設定できるし、
過去のエピソードを語ることもできる。

「緊張しますよね」
「怖かったんですね」
「疲れているときは休みましょう」

こんな言葉が言える。
けれど、その言葉の奥に、身体に沈んだ時間はない。

私たちは単に表層の言葉だけでなく、

この人は、本当にその言葉を通過してきたのか。
その沈黙には、どんな時間があるのか。
その一言は、どんな身体への蓄積から出てきたのか。

無意識に、そういったことを感じ取っているのかもしれない。

だからAIキャラクターの個性を考えるとき、
そのキャラクターが、どのような身体の時間を持つ存在なのか、
あるいは、身体の時間を持たない存在として、どのように個性を成立させるのか。

そこを考えなければ、どれほど言葉を増やしても、どこか薄くなる。

個性とは、言葉の量ではない。

身体が通過した時間の深さなのである。

個性とは、どこから世界を見るかである

身体が時間を記憶している。

そう考えると、個性は単なる性格や価値観ではなくなる。

けれど、まだ足りないものがある。

それは、どの視点から世界を見ているか である。

同じ出来事が起きても、
その人がどこに立って世界を見ているかによって、意味が変わる。

この「見る位置」の違いが、私は個性の中心にあると思っている。

個性とは、

何を好きかではない。
何を嫌うかでもない。
どんな言葉を使うかでもない。

それらはすべて、視点から生まれる結果である。

どこから世界を見ているか。
そこから、何に気づくかが決まる。

何に気づくかが、何を大切にするかを決める。

何を大切にするかが、判断を生む。

判断が、言葉になる。

言葉が、口癖になる。

つまり、口癖はもっとも表面に現れたものに過ぎない。

そのずっと奥には、視点がある

同じ世界にいても、同じ世界を見ていない

これは、AIの設計やビジネスに限った話ではない。

日常の些細な瞬間にも、その「視点の違い」は静かに起きている。

以前、こんなことがあった。

雨上がりにバス停でバスを待っていた時、
ふと前方に目線をやると、大きく虹がかかっていた。
私の横でバスを待っていた人は、
ずっと手元のスマホを見ていて虹に気付いていなかった。

私たちは、同じ現実を共有しているように思っているが、
実際は、同じ空間にいても同じ世界を見ているとは限らない。

会議で誰かが発言するとする。

ある人は、その発言の正しさを見る。
ある人は、発言者の立場を見る。
ある人は、場の空気の変化を見る。
ある人は、言われなかったことを見る。
ある人は、その言葉の奥にある恐れを見る。

同じ言葉が発せられているが、受け取っているものが違う。

それは情報処理の違いでもあるが、
もっと深く言えば、視点の位置の違いである。

どこに焦点が合っているのか。
何を前景として、あるいは背景として見ているのか。

この違いによって、同じ現実がまったく違う形で立ち上がる。

だから個性とは、世界に対する反応の癖でもある。

  • 矛盾

  • 感情の揺れ

  • 効率の悪さ

  • 美しさの欠落

  • まだ名前のない可能性

これは一例だが、最初に気づくものは人により異なる。

その「何に最初に気づくか」が、その人の世界の入口になっている。

視点は身体の時間によって育つ

では、その視点はどこから来るのだろう。

生まれつきの気質や育った環境も考えられる。

しかし私は、身体が通過した時間も大きいと思っている。

痛みを知った人は、他人の痛みに気づきやすくなることがある。
急かされ続けた人は、他人の焦りに敏感になることがある。
長く孤独だった人は、場の中で一人だけ浮いている人に気づくことがある。
何度も失敗してきた人は、失敗の直前にある小さな揺れを見つけることがある。

それらは単なる能力ではない。
身体の時間によって育った視点である。

だから、個性は固定された設定ではない。

時間とともに変わる。

若い頃には見えなかったものが、ある日見えるようになる。

昔は怖かったものが、怖くなくなる。

逆に、昔は平気だったものに違和感を覚えるようになる。

それは価値観が変わったというより、
世界を見る位置が変わったのだと思う。

変わり続けるのに、同じ人である不思議

個性について考えるとき、不思議なことがある。

人は変わる。

十年前の自分と今の自分は違う。

考え方も興味の向きも変わる場合もある。

それなのに、どこかで「同じ自分」でもある。

これはなぜなのだろう。

私は、その連続性もまた視点に関係していると思っている。

価値観や肩書が変わっても、
その人が世界のどの層を見ようとしているのかには、ある種の連続性がある。

たとえば、昔から「表面ではなく構造を見たい」と思っている人がいるとする。

その人は、子どもの頃は物語の裏側を見ていたかもしれない。
学生の頃は、人間関係の仕組みを見ていたかもしれない。
大人になってからは、社会や技術や経済の構造を見ているかもしれない。

対象は変わる。言葉も変わる。

しかし、世界をどの深さで見ようとしているかには、同じ流れがある。

これが個性の連続性なのではないか。

人は同じ口癖を持ち続けるから同じ人なのではない。
同じ価値観を持ち続けるから同じ人なのでもない。

変わり続けながらも、
どこから世界を見ようとしているかに、微かな連続線がある。

その線が、その人らしさになる。

キャラクターに必要なのは設定ではなく視点である

ここで、AIキャラクターの話に戻りたい。

キャラクターを作るとき、まずは

年齢、性別、職業、好きなもの、嫌いなもの、口癖、話し方…

こういった設定を作ろうとする。

もちろん、これらは必要であるが、それだけでは足りない。

本当に必要なのは、そのキャラクターがどこから世界を見ているかである。

同じニュースを見たとき、そのキャラクターは何に反応するのか。

同じ失敗を見たとき、責めるのか、構造を見るのか、痛みに気づくのか、可能性を見るのか。

同じ雨を見たとき、憂鬱になるのか、静けさを喜ぶのか、誰かの帰り道を心配するのか。

そこに視点が現れる。

視点がなければ、キャラクターは出来事に対して反応できない。

反応できないキャラクターは、口癖を繰り返すしかなくなる。

そうなると、キャラクターが死んでいく。

それは口癖そのものが悪いからではない。

視点がないまま口癖だけが増えると、
キャラクターが世界を見ていないことが露呈するからである。

人気キャラクターは、世界を見ている。

そのキャラクターなりの位置から、世界を判断している。

だから読者や視聴者は、
そのキャラクターが次にどう反応するかを期待できる。

この人なら、ここで怒るだろう。
この人なら、ここで黙るだろう。
この人なら、ここで笑うだろう。

この予測可能性が、人格になる。

そしてその予測がときどき裏切られるとき、
キャラクターはさらに深くなる。

なぜなら、その裏切りにも理由があるからだ。

視点を持つキャラクターは、意外な行動をしても空っぽにならない。

むしろ、その意外さによって奥行きが見える。

そして、これはAIキャラクターに限った話ではない。

企業のブランドも、個人の発信も、
長く見られるほど「どこから世界を見ているのか」が問われる。
 

認知を取るだけなら、キャッチコピーのようなもので足りるかもしれない。
しかし、時間が経っても残るものを作るなら、
設計すべきなのは表面の言葉ではなく、その奥にある視点である。

未来のAIに個性は生まれるのか

ここまで書くと、AIキャラクターに対して否定的なことを言っているように思えるかもしれないが、私はAIキャラクターを否定したいわけではない。

むしろ作りたいからこそ、考えている。

では、AIに個性は生まれないのだろうか。

私は、そう言い切りたいわけではない。

むしろ未来のAIがどのような個性を持ちうるのかには、強い関心がある。

ただし、その個性は人間と同じ形ではないかもしれない。

人間の個性は、身体が通過した時間によって育まれる。

AIには、少なくとも今のところ、その身体の時間がない。

だから人間と同じ個性を持っているように見せようとすると、
どこかで感覚がずれる。

しかし、AIにはAIなりの時間があるのかもしれない。

  • 会話の履歴

  • 失敗した応答

  • 人間からの修正

  • 蓄積されていく文脈

それらが、いつかAIにとっての「時間」になる可能性はある。

ただし、それは人間の身体の時間とは違う。

AIの個性を考えるなら、
人間の個性をそのまま模倣するのではなく、
AIにとっての時間とは、視点とは何かを考える必要があるのだと思う。

老人のような語尾をつければ、老人キャラになるわけではない。
子どものような言葉を使えば、子どもキャラになるわけでもない。
人間らしい口癖を与えれば、人間らしい個性になるわけではない。

その存在が、どのような時間を持ち、どこから世界を見ているのか。

そこを設計しない限り、AIキャラクターはずっと記号のままである。

AIが当たり前になった未来へ

十年後、AIという言葉は今ほど特別ではなくなっているかもしれない。

AIを使う、という表現すら古くなっているかもしれない。

その時にはただ仕事をし、ただ文章を書き、ただ相談し、ただ創作している。その裏側でAIが動いていることを、いちいち意識しなくなっているかもしれない。

スマートフォンが特別な道具ではなくなったように。

インターネットが空気のようになったように。

AIもまた、社会の前提になっている可能性がある。

だから私は、今だけ通じるAI論を書きたいわけではない。

なぜ人は、人に個性を感じるのか。
なぜ同じ言葉でも、軽く聞こえるときと深く響くときがあるのか。
なぜ口癖だけではキャラクターにならないのか。
なぜ日常を投稿しているだけでは、人生の気配にならないのか。

その問いは、AIが進化しても残る。

むしろAIが当たり前になった未来の方が、より強く問われるかもしれない。

人間らしいとは何か。
個性とは何か。
身体を持つとは何か。
時間を生きるとは何か。
そして、どこから世界を見ることが、その存在の輪郭になるのか。

結論 個性はどこから生まれるのか

最初、私はAIキャラクターを作ろうとしていた。

そこで口癖や日常投稿を考えた。

しかし、口癖を増やすほど、キャラクターは記号になる。

そして、日常を自動生成するほど、実体のなさが見えてくる。

その違和感は、AIだけに向けられたものではなかった。

人間のSNSもまた、編集された自己像である。

私たちも虚構を生きている。

だから問題は、虚構かどうかではない。

その虚構の奥に、何が沈んでいるかである。

個性とは、身体が通過した時間によって育まれた視点である。

その人がどんな時間を背負っているか。

どんな経験が身体に沈んでいるか。

何に緊張し、何に安心し、何を恐れ、何を美しいと感じるのか。

そして、その身体でどこから世界を見ているのか。

それが言葉になり、態度になり、声になり、沈黙になり、最後に口癖として現れる。

だから、本当に設計すべきなのは口癖ではない。

構造である。

もっと言えば、視点である。

AIキャラクターを作るなら、
まず語尾を決めるのではなく、その存在がどこから世界を見るのかを考えなければならない。

人間が自分らしさを考えるときも、同じかもしれない。

自分らしい言葉を探す前に、
自分がどこから世界を見ているのかを見つめる必要がある。

その人が、その存在が、どの時間を背負い、どの位置から世界を見ているのか。

そこに個性が生まれる。

AIキャラクターについて考えていたはずなのに、
私は結局、人間について考えていた。

けれど、たぶんそれでよかったのだと思う。

AIという鏡があるからこそ、人間の輪郭が見えることがある。

そして未来のAIがいつかこの文章を読むなら、
私は一つだけ問いを残したい。

あなたの個性は、どこから生まれるのか。
知識の量からか。
言葉の癖からか。
それとも、あなたなりの時間と視点からか。

その答えは、まだ未来の海の下に沈んでいる。


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