ニート、延長
「春の風が心地よい季節となりました。道中お気をつけていってらっしゃいませ。この度は日本航空をご利用くださりありがとうございました。」
慣れ親しんだ高松空港に到着した。晴れているんだか、曇っているんだかわからない空をしている。太陽の光には溢れているのに、太陽の姿は見当たらない。山と空の境目は、ぼんやりとしていてなんだかとても春らしかった。
医者を辞めフリーターになり、1年が経とうとしている。
春の霞がかった空を見ると、2ヶ月とちょっと海のレストランで働いていたときのことを思い出す。私は毎日9時にレストランに行き、店内の掃除をしてからテラスの掃除をするのが日課だった。
テラスの掃除は格別な楽しさがある。頭の中を今日のオペレーションでいっぱいにしながら、身体は掃いても掃いてもきれいにならないテラスと格闘する。脳と腕が別々の方向に忙しい。でも、普段はお客様でがやがやしているテラスを独り占めできるのはなんだか背徳感があるし、ふとした瞬間に目に入る景色は同じはずなのに毎日まったく違うものになるから飽きることがなかった。
高松港に向かうバスに乗る。
高松空港を出ると、ゆるやかな下り坂のカーブが続いていて、ここに来ると高松だなぁと思う。
この1年間のことを思い出した。
時給1000円から数倍以上もらえる医者のバイトまで、いろいろな時給で働いた。お金に関わらず、働くことが好きだということを知った。
はじめて個人で仕事をもらった。うまくいかなくて、悔しくて大泣きした。
ははと6年ぶりに2人だけで海外に行った。
ネイティブだらけのご飯会で浮かないくらいの英語力が身につき、スペイン語はほんのちょっぴり話せるようになった。
家に引きこもって、私という質量がこの世に5kgほど増加した。
文章を書くようになった。
意味のあることも、ないことも、というかないことの方が多かったような気がする。意味のあることしかしてはいけない時間が長かった。そんな私にとって、意味がないと言えたことが嬉しい毎日だった。
あれこれ考えていると、あっという間に高松港に着いてしまった。相変わらず、夕暮れ時の薄鈍色の空に鉄骨のキリンがにゅっと立っている。
私は、世界の全てを知りたいと思っている。
無理だとわかっているけれど、1年かけて世界を端からちょっとずつ触っていった。
とげとげしていたり、とぅるんとしていたり、ざらざらしていたり。触れそうとは知って行ったら蜃気楼でがっかりしたり、ぜったいに地面があると思って飛び降りたら思いの外高く怪我をしたりした。
でも、すごく楽しかった。
触り始めたら、触りたいものがたくさんでてきてしまった。私はもうちょっとこの作業に没頭していたい。
ぴゅうっと風がほほにあたった。高松港の海風は、ちょっぴり冷たくて強い。そんな風が心地よいなと思いながら、桟橋4番乗り場で豊島行きの船を待つ。
