ホテルの朝食バイキングで、人間の本性はだいたい分かる
ホテルの朝食会場には、その人がこれまで積み上げてきた品性が、わりと無防備な状態で置かれている。
普段は「ありがとうございます」とか「お先にどうぞ」などと言っている人間も、焼きたてのクロワッサンが残り2個になった途端、目つきが戦国時代になる。
もちろん、朝食だけで人間の本性が分かるわけではない。
そんな能力が私にあれば、今ごろホテルで納豆をかき混ぜてはいない。
午前7時、人類はソーセージの前で試される
ある朝、地方のホテルで朝食会場に入った。
まだ午前7時を少し回ったところだった。
私は旅行先では、なぜか朝食だけは立派に食べる。
家ではコーヒーだけで済ませる日もあるくせに、ホテルに泊まると、焼き魚、卵焼き、味噌汁、納豆、ヨーグルト、サラダ、パン、ウインナー、果物まで食べようとする。
人格が変わるのである。
いや、人格というより、貧乏性が目を覚ますと言ったほうが正しい。
宿泊代に朝食が含まれている。
この「含まれている」という言葉には魔力がある。
無料ではない。
ちゃんと払っている。
むしろ前払いである。
ところが人間の脳は、会計時に追加料金が発生しないものを見ると、急に「取り戻さねば」という謎の使命感を抱くらしい。
少なくとも私の脳はそうである。
誰に奪われたわけでもないのに、取り戻そうとしている。
ずいぶん忙しい脳だと思う。
トレーを持って列に並ぶ。
最初にサラダがあった。
私は少し迷って、レタスを取った。
朝から野菜を食べる自分でありたい。
そういう虚栄である。
その隣にポテトサラダがあったので、それも取った。
野菜を食べるという志は、開始12秒でマヨネーズに屈した。
そして問題のソーセージである。
ホテルの朝食バイキングにおけるソーセージは不思議な食べ物だ。
普段、スーパーで袋に入っていても、それほど胸は高鳴らない。
それが銀色の蓋を開けた容器の中で10数本並んでいるだけで、急に魅力的に見える。
そこには1人の男性がいた。
50代くらいだろうか。
男性はトングを持ち、ソーセージを取った。
1本。
2本。
3本。
ここまではいい。
4本。
私は少し気になった。
5本。
もはや応援したくなってきた。
6本。
彼はいったいどこへ向かっているのだ。
7本目でようやくトングを置いた。
皿の上には、見事なソーセージ前線が形成されていた。
私はその背中を眺めながら、
「欲深い人だな」
と思った。
その直後、自分の皿を見るとクロワッサンが2個乗っていた。
人を裁くには、私は少々パンを取りすぎている。
世の中とは、だいたいこういうものである。
「1個ずつ取る人」と「城を築く人」
しばらく見ていると、朝食バイキングにはいくつかの流派があることに気づく。
まず、偵察型。
皿を持たずに会場を1周する人である。
何があるのか全部確認してから作戦を決める。
仕事のできる人なのかもしれない。
あるいは過去に、手前の焼きそばを取った直後、奥に海鮮丼を発見して深い傷を負った人なのかもしれない。
次に、一点突破型。
米。
味噌汁。
焼き魚。
漬物。
終わり。
迷いがない。
こういう人を見ると、私は尊敬と嫉妬を同時に覚える。
私には決められないからだ。
和食を取りながらパンも欲しい。
パンを取ったらスクランブルエッグが欲しい。
スクランブルエッグを見たらベーコンも欲しい。
その結果、私の皿の上では鮭とクロワッサンと納豆が国境問題を起こす。
そして最後が、築城型である。
皿という有限の土地に、できるだけ多くの料理を積み上げる。
料理同士が触れることなど気にしない。
スクランブルエッグの上にベーコンを置き、その横に焼き魚を差し込み、隙間をポテトで埋める。
皿ではない。
都市計画である。
私はこういう人を密かに笑っていたのだが、途中で気づいた。
自分の皿も、かなり再開発が進んでいる。
そもそも、なぜ日本では「バイキング」というのか
ここで私は、朝食とはまったく関係のない疑問を抱いた。
なぜ日本では「ビュッフェ」を「バイキング」と呼ぶのだろう。
北欧の海賊たちが、朝からスクランブルエッグを奪い合っていたとは考えにくい。
気になったので調べてみた。
こういう寄り道を始めるから、私は仕事が遅い。
話は1950年代の帝国ホテルに遡る。
帝国ホテルによると、当時の社長・犬丸徹三氏が北欧の伝統的な食事形式「スモーガスボード」に着目し、料理人の村上信夫氏らが研究。1958年8月1日、日本初のブフェレストラン「インペリアルバイキング」が開業したという。
店名の「バイキング」は北欧を題材にした映画などから着想を得た名称で、その後、日本では食べ放題形式そのものを表す言葉として広まった。
つまり我々は半世紀以上にわたり、
ホテルが付けたレストラン名を、食事形式の一般名詞のように使っている。
言葉というものは面白い。
そしてその歴史を知ったところで、私の皿の上の納豆とクロワッサンの外交問題は何も解決しない。
人は「食べ放題」と言われると、少しだけ馬鹿になる
朝食会場に話を戻す。
私の斜め前に座った人の皿には、料理がかなり残っていた。
パンが半分。
スクランブルエッグ。
小さな焼き魚。
ソーセージ1本。
ヨーグルトも手つかずだった。
もちろん事情は分からない。
体調が悪くなったのかもしれない。
料理が口に合わなかったのかもしれない。
だから他人の食べ残しを見て説教をする気はない。
そもそも人様を説教できるほど、こちらの人生も片づいていない。
ただ、「食べ放題」という仕組みが人間の判断を少しおかしくすること自体は、私だけの妄想でもないようだ。
ホテルレストランで行われた2013年のフィールド実験では、皿を小さくすることや、「1度にたくさん取らず、何度でも取りに来てよい」と促すような社会的な働きかけによって、食品廃棄量がおよそ20%減ったと報告されている。
要するに人間は、
「好きなだけ取っていい」
と言われるより、
「また取りに来ればいいですよ」
と言われたほうが少しまともになるらしい。
何とも頼りない生き物である。
だが、よく分かる。
私も1皿目を取るときには、2度目が存在しないかのように盛ってしまう。
誰も閉店すると言っていない。
料理人も逃げない。
ソーセージも、おそらく補充される。
それでも取る。
これはもう食欲というより、不安である。
人間は文明社会を築き、宇宙へ探査機を送り、人工知能まで作ったというのに、ホテルのベーコンが残り4枚になると急に縄文人に戻る。
進化とは何だったのか。
コーヒーマシンの前では、社会性が戻ってくる
ところが面白いことに、食べ物を取り終えると、人々は再び文明人になる。
コーヒーマシンの前では、
「お先にどうぞ」
などと言う。
ボタンの位置が分からない人がいると、横から教える人まで現れる。
さっきソーセージを7本取った男性も、後ろの人のためにミルクを取って渡していた。
いい人ではないか。
私は少し反省した。
たかがソーセージの本数で、他人の人格を勝手に査定していたのである。
査定する側の人格のほうが、よほど怪しい。
もっと言えば、7本取ったところで全部きれいに食べるなら、別に何の問題もない。
むしろ2本取って1本残す私より立派である。
……そう。
私は1本残した。
ここまで偉そうなことを書いておいて、である。
2個目のクロワッサンにも手をつけられなかった。
己の胃袋を過大評価した結果だ。
朝食会場の人々を分類して喜んでいた男は、最終的に「自分の食べられる量も分からない人」という、1番情けない分類に収まった。
研究というものは、ときに残酷である。
朝食会場には、小さな人間社会がある
ホテルの朝食バイキングは面白い。
金持ちでも会社員でも学生でも、おそらく偉い先生でも、まず皿を持たされる。
そして同じ列に並ぶ。
そこでは肩書きより先に、
何を取るか。
どれだけ取るか。
人を待つか。
横入りするか。
落としたトングをどうするか。
最後の1個を取るか。
そういう小さな選択が続く。
人間の本性が本当にそこに現れるかどうかは知らない。
たぶん現れない。
そんな簡単に人間が分かるなら、世の中はもう少し楽である。
ただ、人間の癖くらいは出る。
欲張る人。
迷う人。
譲る人。
周りを気にしない人。
家族の分までせっせと運ぶ人。
何度もおかわりに行く人。
そして、それを勝手に観察して文章にしようとする、性格のあまりよろしくない人。
最後の1人については、よく知っている。
私である。
会場を出る前、私はもう1杯だけコーヒーを飲んだ。
例の男性が席を立つのが見えた。
皿はきれいだった。
ソーセージは1本も残っていない。
私の皿には、クロワッサンが半分残っていた。
勝負は完全についていた。
人を見る目を養う前に、
まず自分の食べられる量を知ったほうがいい。
ホテルの朝食は、今日も有益である。
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