短編小説:澄んだ湖のほとりにて
<※センシティブな内容を含みますことを、先にお断りいたします※>
夜が更けたはずなのに、私の目には光が降る。
ふわふわと漂う、湯気のような煙のような。
樺太で真冬に見た、ダイヤモンドダストのような、細やかな光が。
ああ、やはりそうか。
ついに私にも、旅に出る時がやって来たのだ。
右手が温かい。
やっとの思いで視線を移すと、二十五になる孫娘の澄湖が、泣き出しそうな顔をして、手を握っていた。
「ばあちゃん、私、ここにいる。ここにいるから」
私がまだ娘だったとき、樺太で見た湖が、朝、あんまりきれいに澄んでいたものだから、孫娘に澄湖と名を付けたのだっけ。
澄湖。ばあちゃん、辛くない。痛くもない。
だからさ。お願いだからそんなに泣かないでちょうだい。
八十四年。長いようであっという間だった。
ほんのさっきまで、私は十の娘だったような気がしている。
するとどうだろう。
皺だらけで節くれだったこの両手が、みるみるうちにつるりつるりと若返っていく。体が軽い。私は、私の魂は、こんなにふわふわとして、今、一体どこにいる?
私は、空を飛び、海を渡った。
懐かしい風景が、眼下に広がる。
あれは、あの夏の日の景色は。
そうだ。私が十の時、日本は戦争に負けたのだった。
引き揚げ船に乗るため、戦場と化したいつもの街を走り抜けた。
道端には、むごたらしい殺され方をした死体が、あちらにも、こちらにも。
街の馴染の写真館の玄関先に、同じ学校に通っていた、仲良しのみっちゃんを見つけた。おかっぱ頭のみっちゃんは、二度と笑えない姿になっていた。
私、泣きながら「みっちゃん!」と叫んだ。母さんは、鬼のような形相をして、泣き叫ぶ私の腕を掴み、引きずるようにして逃げた。
父さんは、船に間に合わなかった。
母さんと、まだ五つの弟の真司と三人で、狭い船の中でガタガタ震えながら身を寄せ合った。
みんな、生きたかったのに。
なのに、私だけ、ごめんね。
ごめんね、みんな。
私は樺太が好きだった。
厳しい冬の針葉樹の森も、澄んだ湖も、短い夏に咲く美しい花たちも、動物たちも、ぜんぶ。
もう、家には帰れないんだなあ。
みっちゃんにも、華子先生にも、お向かいさんの犬のシロにも、もう会えないんだなあ。
ぼろぼろと泣く私に、母さんは「泣くな。体の中の水が無駄になる」と怒った。
命だけを持って日本に引き揚げてきて、それから、私たちは北海道に住み着いた。私、裁縫だけが得意だったから、洋裁も、和裁も寝ずにやって、それで、なんとか三人で食べて来た。
こんな人生に幸せなんてやってくるものか、って、すっかりいじけていたけれど、十八の時に、新聞社で記者をしている政吉さんと出会って、私、結婚した。
それから、娘の誠子と息子の清助が生まれた。
政吉さんは、必死に裁縫をする私のことを「職業婦人」と呼んで、生涯にっこり笑って大事にしてくれた。
これが、幸せなんだなあと、お天道様を見上げて、泣いたっけ。
世の中はどんどん便利になっていって、ミシンも足踏みじゃなくて電動になって、何もかもが、速く速くなっていった。石炭じゃなくて灯油になったストーブに火を入れて、冬はずいぶん楽に暮らせるようになった。
誠子は英語が好きだったから、猛勉強をして通訳になった。清助は小さい頃から算数がよくできたから、会計士になった。私と政吉さんの二人の子供は、立派に独り立ちした。
よかったあ。
よかったの?
私だけ、こんなに幸せで、ほんとうにいいの?
私の髪にずいぶん白髪が混じって来たころ、誠子が女の子を産んだ。澄湖だ。澄湖が七つになった頃。気づいた。
澄湖は、みっちゃんによく似ていた。
みっちゃん。
ねえ、みっちゃん、私に会いに来てくれたの?
みっちゃん、ごめんね。
ごめん。
私だけ逃げて、ごめん。
「みっちゃんって、誰のこと? お母さん、知ってる?」
「さあ……。母さん、分からない。聞いたことない」
はっとした。夜だった。
澄湖が、私の右手を握っている。
私は、病院のいつものベッドに横になっている。
どうやら、ふわふわと飛んでいた時に、「みっちゃん」と口にしていたらしい。
「ばあちゃん、苦しくない?」
澄湖の目が、真っ黒に濡れている。生きていた頃の、みっちゃんみたいに。
こくり、と頷く。
政吉さんは、私に樺太のことを何も聞かなかった。
だから、私も、樺太のことを誰にも話さなかった。
話せるはずがなかった。
ねえ、平和はほんとに来たの?
それとも、まばたきをしている間に、またどこかに行ってしまうの?
私、いやよ。
みっちゃんみたいにむごい目に遭っている子供が、いまテレビのむこうのどっかにいるもの。
もういやよ。
ねえ、澄湖。
お願い。澄湖。
「ばあちゃん、ありがとう」
澄湖。
みっちゃん。
『雪子さん。迎えに来ましたよ』
金色の光が降る。
光のむこうから差し伸べられた、政吉さんの手を取る。
「ばあちゃん、安心して。あとは任せて」
ああ、あんたはほんとにいい子だねえ。
あとは任せたよ、若者たち。
<了>
2000字(ルビ込み)
全く勝手に、大真面目に重いお話を書いてしまいました。
#今2000字で書けって言われたらどこからの発想で書き始めますか
私の場合、音楽がトリガーでした。
このタグを目にした五分後、ヘッドフォンをつけ、「島唄」をエンドレスリピートすると、自然に指が動き始めました。
ほんとうに、誰かに操られているように。
受け入れがたい記事になっていたらごめんなさい。
記事を下書きに戻すことも考えました。後で下書きに戻すかもしれません。
八月には、祖母の命日があります。
何も語らずに旅立ってしまった祖母ですが、忙しい人生を終え、今は祖父と共にゆっくりと休んでいますようにと心から祈っています。
