ギフト—胚培養士はいのちをつなぐ— 第七話〖絶望とライラック・二〇二五年 五月二十日〗#創作大賞2025
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萌絵の胚凍結から、三週間が経った。今もまだ、萌絵の子宮内膜は、胚を受け入れられる状態ではない。
昼休み、医学部図書館で調べ物をした。生殖補助医療は日進月歩だ。今はまだ研究段階にあっても、近い将来に臨床応用ができる技術はきっとある。文献をあたり、知識を深めることは楽しい。
帰りに、医学部の庭を散歩した。外出する際は、汚染を避けるため、必ず白衣を着る。すくすくと育っていく新緑が眩しい。白樺の葉は、夏至に向かう時期特有の、青みがかった緑色をしている。どんどん日没が遅くなり、木が、草が、花が、鳥が、生きるものたちすべてが喜び躍るような季節だ。
北都大学病院の建物に入る。正面玄関の傍には、大きな海水の水槽があり、鮮やかな色彩をした熱帯魚たちが、鰭を優雅に動かして、人工の岩やサンゴの間を涼しげに泳いでいく。
エスカレーターに乗り、三階で降りる。臨床検査センターの前を通り過ぎ、呼吸器内科、循環器内科の奥に、産婦人科がある。リプロセンターは、産婦人科の横に併設されている。
待合室の椅子に目を遣る。妊婦たちが、幸せそうな顔をして大きなお腹をさすっていた。妊婦検診に来ているのだろう。
海音は窓の外を眺めようとした。視界の端、妊婦たちの一団から離れた場所で、窓際の床にうずくまる女性の姿が目に入った。年齢は、四十代前半といったところか。真っ黒なロングワンピースを纏っている。束ねられていない長い髪が、床に乱れて散っている。顔面は蒼白で、過呼吸を起こしているようだった。
海音は、参考文献が入ったトートバッグを肩にかけ、慌てて女性に駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
女性が顔を上げた。苦しそうに息をしている。
「あなた、もしかして胚培養士なの?」
「はい……。そうですが」
女性は、海音をきつく睨みつけた。殺気立った視線だ。
「私の赤ちゃんを台無しにしたのは、あなたなのっ?」
「すみません、何のことだか……」
突然、女性の目からぶわっと涙が溢れた。女性は、過呼吸になりながら泣き始めた。
「私の赤ちゃん……。返してよおっ……」
女性は、嗚咽し、その場に泣き崩れた。低い声で呻いている。海音は一瞬で動揺した。この女性に、何があったというのか。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫なわけないでしょっ!」
女性が目をぎゅっと閉じて大きな声を出す。涙で濡れた髪が、顔に貼り付いている。周囲を歩く人が立ち止まって、戸惑いながら海音と女性を交互に見つめる。
「わかってる……。こんなことして恥ずかしいって、ちゃんとわかってる……。だけどどうしてなの? どうして私の赤ちゃんばかりが死んでしまうの?」
女性は、しゃくりあげながら海音を見上げた。
「あなたに答えられる? どうして私の赤ちゃんが——」
女性はぜえぜえと息をしてよろめきながらも立ち上がり、海音の白衣の襟元を掴んだ。刹那、海音は揺さぶられながら、女性と目を合わせた。女性の瞳には、何も映っていなかった。後方からバタバタと足音が聞こえる。必死の思いで振り返ると、助産師の安藤が走って来た。
「赤沢さん。落ち着いて、ね」
安藤が、赤沢と呼んだ女性の肩に触れる。赤沢は、再び床に崩れ落ちた。気づけば、大勢の人が集まっていた。ひそひそと囁く声が聞こえる。周囲を見回すと、妊婦たちが怯えた表情をして、お腹を庇っていた。
「私は生物の教師だから、分かるんだよ。胚培養士が異常な精子を選んで受精させたから……」
赤沢は、差し出された安藤の腕に縋ると、大声を張りあげて泣いた。結局赤沢は、若い看護師たちに支えられ、休養室で落ち着くまで休んで帰ることとなった。
白を基調としたスタッフルームに、重い沈黙が立ち込める。ブラインドから射しこむ光が、テーブルを挟んで向かいに座った安藤の白いスクラブに、光の縞模様を落す。安藤は、ポーチからキャラメルを取り出し、海音に差し出した。海音が伸ばした手が、安藤の手に触れた。温かい。
「ごめん。まさか、ここまでの事態になるとは考えてなかった」
深々と頭を下げる安藤を見て、海音は焦った。
「安藤さん、頭を上げてください」
安藤は、息を吐くと、両手をテーブルの上で組んで話し始めた。
「あの方、赤沢尚子さんね。今日、稽留流産後の手術だったの」
「そうだったんですか……。それは……。だから他の妊婦さん達から離れたところにいらっしゃったんですね」
「そう。うちのメリットとして、不妊治療とその後の産科でのケアを一貫して受けられることがあるでしょう。でもね。妊娠が成立していない状態で、お腹の大きな妊婦さんを見るのが辛くて耐えられないっていう方も、当然いらっしゃるんだよ」
「はい……。私には想像することしかできないんですが、非常にお辛いだろうなと……」
海音は言葉を切って、赤沢が遭遇した想像を絶する苦難を思った。正気を保つこと自体が、難しいのだ。
「あの、赤沢さんは、胚培養士に恨みがあるようでしたけど」
「さっきご自身で仰っていた通り、赤沢さんは、高校の生物の先生をされていて、専門知識があるんだよ。妊娠を継続できずに流産になってしまったのは、精子の染色体異常が原因だったんじゃないかって考えたんだね。稽留流産の原因として、赤ちゃんの染色体異常が占める割合は大きいから」
「顕微授精だったんですね」
安藤は、静かに頷いた。
「しかも、二回目のね」
安藤が天井を見つめた。遠い目をしていた。
「もしかして、一回目の時も、流産だったんですか?」
「そうなんだよ。手術もされているの」
海音は、膝の上で握った両手を見つめた。海音は赤沢の顕微授精を担当していない。もし、自分の手技で始めた命が、続けて二度、産まれる前に死んでしまったら、それでもすぐに前を向いて、仕事を続けられるだろうか。
「今回のこと、一応、松居室長に報告します」
「うん。私からもスタッフの皆に周知しとくわ」
「安藤さん」
「うん?」
「私、初めての顕微授精がうまくいって、それだけで浮かれていました。でも、前に自分で言った通り、受精の先には、本当にたくさんの、たくさんの関門があるんですよね」
「そうだね。命が辿る道のりって、本当に長くて果てしないよ。だけど母袋さん、あんまり考えすぎないで。あなた、仕事はきっちりできているんだから。ここだけの話、医師の先生方からの評判もいいよ。だからこれからも、変わらずいい仕事をしてちょうだい。それだけだよ」
安藤は、キャラメルをもう一つ海音に握らせると、海音の肩を叩いて微笑み、立ち上がった。安藤の逞しい背中を目で追うと、不思議と勇気が湧いてくる。三十年もの間、出産に立ち会い続けて来た経験の重みを感じるのだ。
不妊治療の現場は、時に悲劇の舞台となる。ハッピーエンドは誰にも約束されていない。不妊治療を続ける人は皆、自然妊娠した人や、不妊治療が成功した人と自分を比較し、高額な医療費に押しつぶされそうになりながら、終わりが見えないトンネルの中を進むのだ。
望まれていながら、誕生することが出来なかった命を思い、海音は奥歯を噛みしめた。胚培養士の仕事は、患者の一生を左右する。胚培養士はいつも、夢と希望だけでは支えきれない現実の重圧と責任を背負い続けるのだ。けれど今、その重圧と責任に負けるわけにはいかない。海音は白い天井を見上げ、頬を叩いて気合を入れると、立ち上がり扉を開いた。昼休みが終わる。
廊下を歩いていると、事務室から電話の着信音が聞こえた。海音は事務室に走った。誰もいない部屋で電話が鳴っている。番号を見ると、非通知だった。海音は受話器を取り、応答した。
「はい、北都大学病院産婦人科リプロセンターです」
電話の向こうで、小さく息を吸う音が聞こえた。電話の主は応答せずに、通話を終了した。
「また無言電話か……」
窓から庭が見えた。ライラックの薄紫の花が、風にそよいでいる。傍に寄ればきっと、甘い香りがするだろう。
海音が始めた命と共に咲いていたハクモクレンの花が散ったのは、もうずいぶん前のことだった。
