見出し画像

『神隠しの庭で、珈琲を』 最終話:未来への小さな扉を開く #創作大賞2024

最終話:未来への小さな扉を開く

瀬名せなさーん! 瀬名朝来あさきさーん! わかりますかー? 瀬名さーん!」
 ピッ、ピッ、ピッという音が聞こえる。瞼は重く閉じている。力を入れるとぴくりと瞼が震え、目が少しだけ開いた。目の前が、ゆっくりと明るくなっていく。朝来の顔を覗き込んでいる誰かのぼんやりとした輪郭が、少しずつ明瞭さを取り戻す。
 朝来が目覚めたのは、天窓がある屋根裏部屋ではなく、病院のベッドの上だった。消毒薬の匂いが漂っている。寒々とした蛍光灯の明かりが目に染みて、今が夜なのだと気づく。
 まだ二十代中頃と思われる、若い女性看護師が、布団の上から朝来の胸に手を置き、心配そうな顔をして、朝来を見下ろしている。化粧気があまりなく、栗色の長い髪は、頭の後ろで一つにまとめられていて、褐色の瞳は、朝来の両目を交互に追っている。
「瀬名さん! わかりますかー?」
 朝来が微かに頷くと、看護師は、「先生」と目で合図した。今度は、白衣を纏った四十代くらいの、顎に髭を生やした男性医師が、朝来の顔を覗き込み、瞼を温かな指で捲った。
「わかるかな? 瀬名朝来さんね。ここは安全ですよ」
 医師は、何度も言い慣れたであろう口調でそう告げると、淡々と朝来の身体機能を確認した。
 自分は一体何を仕出かしたのだろう。起き上がろうとしても、体に力が入らない。手足が痺れていて、感覚が鈍い。
「あ、朝来……!」
 左手が温かいことに気付く。ゆっくりと首を回すと、朝来の母親が、朝来の左手を両手で握って、泣き崩れていた。母親の顔は青ざめていて、乱れたショートヘアには白髪が目立ち、ベージュの丸襟のセーターに包まれた体は、一回り小さくなったように見えた。
「お母さん。娘さんね、低体温症だったんだ。軽い凍傷は残っていますけどね、今、意識戻ったから。大丈夫、もう大丈夫だからね」
 医師は、母親を安心させるように、落ち着いた声で言うと、点滴の残量を確認し、看護師に何かの薬品名と投与量を告げた。
「先生、申し訳ありませんでした。本当に、本当にありがとうございます」
 母親の小さな両肩が、震えていた。
「朝来。なんであんた、雪嵐の中、無理矢理森になんか入ったの? 皆で探したんだよ。森の奥で倒れていたところを、ご近所の猟師さんが見つけてくださったんだ」
 母親が、朝来の手を強く握った。
幸成ゆきなりさんは……?」
 母親の表情が、一瞬で凍る。
「今は、自分のことだけ考えなさい。あんたはね……」
 母親がそこまで言うと、医師が母親を目で制した。
「ちょっとね。瀬名さん。お話しましょうか」
 母親が病室から退出した。スリッパでぱたぱたと歩く音が、病棟の廊下に反響している。足音が遠ざかると、朝来は不安になって、医師を見上げた。  
 医師は、右手で顎鬚をひと撫ですると、朝来を覗き込んだ。
「うん。瀬名朝来さんね。もう結論先に言っちゃうよ。今ね、あなたのお腹に赤ちゃんがいますからね。大事にしなきゃだめだよ」
「え?」
「びっくりしたでしょう」
 朝来は、思わず腹部に手を当てた。幸成の子供を、宿していた。
「瀬名さんね、ご主人のことで色々大変な思いされてますよね。でも今はもう一人の体じゃないから。大事にしてください。困ったことがあったら、僕達必ずサポートしますから。いつでも教えてね」
 それだけ言うと、医師はひらりと手を振って、病室の外へ出た。看護師は、「おめでとうございます」と柔らかに微笑むと、朝来の体に繋がれた様々な計測機器の数値を確認した。
 医師と看護師が病室を出て暫くすると、母親が戻って来た。スチールの椅子に母親が腰かけると、椅子が軋む音が、無機質な病室に響いた。
「先生から聞いたでしょう。お腹の子のためにも、今はとにかく休みなさい」
 母親が、朝来の額を優しく撫でる。指の温かさが伝わる。
「お母さん。私ね」
 朝来は、真っ白な病院の天井を見上げたまま、息を吸った。
「うん?」
「私、長い夢を見ていた。雪嵐の中、白い狐に連れられて、春の野原に出て。野原の真ん中には、古い洋館があってね。灰色の目をしたおばあさんが住んでいて……」
 その夢は、とても長くて、現実のように鮮やかだった。夢の中で、様々な苦しみを背負った人に出会った。皆、灰色の目をしたおばあさんに秘密を打ち明け、すっきりと癒されて、元の世界へ帰っていった。けれど、そのおばあさんの名前が、思い出せない。やはり、夢だったのか。
 はっとして現実に戻ると、母親の目が潤んでいた。
「あんた、やっぱりあの世に行きかけてたんだよ。幸成さんが、連れ戻してくれたんだねえ。ほら、あんたがコンクールの日に車道に飛び出した時も、幸成さんが、手を引いて連れ戻してくれただろう?」
 母親は、目尻を親指で拭った。
「幸成さんは? キャンプ地が空爆で壊滅したって」
「幸成さんはね」
 母親が、握った手を揺さぶった。
「さっき、あんたが先生と話していた時、連絡があった。幸成さん、生きてる。森の中で見つかったって。無事だって。日本に帰って来るって」
 朝来の瞳孔が大きく開き、涙が溢れた。
「夢の中に、幸成さんが出てきたの。それから、黄泉の国の使者が……。だからもう助からないかと思って……」
「朝来。大丈夫。もう大丈夫だよ」
 母親の温かな涙が、朝来の手の甲に落ちた。
 大声で泣く朝来の声が、病棟に響いた。
 
 病室の入り口に、金色の目をした白い狐が座っていた。狐は、朝来と母親を見上げ、三本の尾をふわりと持ち上げて、くるりと回ると、消えた。

 灰色の目をした老婦人は、狐の化身の少年の手を取って、記憶を共有した。頭の中に流れ込んでくる、朝来のその後の姿に、思わず老婦人の目尻が下がった。朝来は幸成と再会し、翌年、可愛らしい女の子が生まれた。女の子が七歳になると、朝来は娘にチェロを教えた。
 そこまでの朝来の人生は、幸せだった。
 老婦人は、記憶を共有し終えると、少年の目を覗き込んだ。
「朝来ちゃんのもっと先の未来は、あなたにもわからないのかしら?」
 少年は、金色の目を伏せると、首を左右に振った。
「そうね。未来は変わるもの。現世うつしよに帰れば、自分の力で未来を変えられるのだから」
 桜の老木の枝が、春風にしなる。
「あなたが見て来た世界には、戦争が広がっているのね? まるで、病気が体のあちこちを、次々と蝕んでいくみたいに」
 老婦人が少年に問うと、少年は、金色の目で老婦人を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「朝来ちゃんは、扉を開けるでしょうね。とても小さな、平和と安らぎへの扉を」
 老婦人は、ふっと息を吐くと、微笑んで、眼前に広がる古い森に、視線を移した。
「今日は、新しいアシスタントの子が来るわ。その子を迎えに行ってあげてちょうだい」
 老婦人は、少年に微笑んだ。少年は、嬉しそうに頷くと、白狐の姿に変わり、森へと向かった。
「さあ、美味しい珈琲を淹れなくちゃ」
 老婦人が呟くと、神隠しの庭の桜の老木が、応えるように枝を風にしならせ、花びらを散らした。

<完>

第一話に戻る:


いいなと思ったら応援しよう!