【ピリカ文庫】おまじないの口紅
秋の夜長に、窓辺で月を眺めていた。
グラスの中の水面に月が映り、揺れる。
ついに、憧れのミュージカルの、最終オーディションにまで残ることができた。オーディションは、二日後。気が早いけれど、今夜は、ここまで来られたお祝いだ。
深夜、ソファの上で目が覚めた。
「あの……、お布団でお休みにならないと、お体に障りますよ」
月明かりの中、美しい白拍子が、心配そうに私を見下ろしていた。
ああ、これは夢だ。久しぶりにお酒を飲んだから、変な夢を見たんだ。
ふらふらと立ち上がり、布団にもぐり込んだ。
***
「今日は、もう来ないんじゃない?」
カオリさんは、悪戯っぽく笑うと、珈琲を淹れてくれた。
「そう……ですかね」
日中は、カオリさんのカフェでアルバイトをし、夕方から、歌やダンス、芝居のレッスンを受けている。
「静、心ここにあらず、って感じよ」
我に返り、慌てて珈琲をすすった時、ドアが開いた。
「ああ、眞野さん! いらっしゃい」
すこしウエーブした髪に、銀色の細いフレームの眼鏡。
眞野さんは、カフェのすぐ近くにある大学で、宇宙物理学の研究をしている。私の心拍数が上がったのは、この人のせいだ。
「眞野さん、聞いて! 静がね、ミュージカルの最終オーディションに残ったんだって!」
「へえ! 静さん、すごいじゃないですか!」
つい、うっとりと、そのまっすぐな笑顔に見惚れていると、カオリさんに背中をつつかれた。慌てて注文を聞く。眞野さんは、いつも同じブレンドを注文してくれる。
珈琲を運ぶと、眞野さんは、宇宙物理学の世界に入り込んでいた。英語で書かれた、数式だらけの、面白そうにはとても見えない論文の束を、眞野さんは大切そうに指でなぞりながら、ぶつぶつと何かを呟いていた。
こういうところ、好きだなあ。
論文に夢中な眞野さんの背後で、思わず顔がにやけてしまった。
***
その夜、白拍子は、月明かりが差し込む部屋で、私を待っていた。
つややかな黒髪に、雪のように白い肌。烏帽子に水干姿。佳人である。
——夢ではなかったのか。
「あの……、あなたは?」
「見ての通り、白拍子でございます。ずっと昔、この場所に暮らしておりました」
「ゆ、幽霊ってことですか?」
「そう呼びたいのであれば、そのように」
「でも、どうして……?」
「姿を隠して、あなたのことを見ていたのです。大事な舞台を控えていらっしゃるとか。私とて、唄い、舞うことを生業とした身。お力になれるかと思いましてね」
不思議なことに、美しいその漆黒の瞳に吸い込まれるようにして、私は、白拍子に打ち明け話を始めた。
「私、舞台の上で、どうしても、心から笑えないんです。場の空気に、飲まれてしまうというか。技術的には問題がないって、先生には言われてるんです。でも、練習ではできていたことが、本番ではなかなか出せなくて」
白拍子は、首を傾げて、袖で口元を覆った。
ふわりと、沈香のかおりが漂う。
「今、恋をしていらっしゃるのでしょう?」
「え? どうして、わかるんですか?」
「女の勘ですわ。私にも、想いを寄せる方がいたのですもの」
白拍子は、物思いにふけるような表情で、月を見上げた。
「私が唄い、舞うとき、いつも私の心の中には、その方がいらっしゃいました。その方のためになら、いつまでも舞台に立つことができました。だから」
白拍子は、ゆっくりと一歩、私に近づいた。
「愛しいお方のために、唄い、舞うのです。頭で考えることではありませんよ」
私は、ふと、眞野さんを想った。
「そう。そのお顔でございます」
囁くようにそう言うと、白拍子はうなずいた。
「ひとつ、いいことをお教えいたしましょう」
白拍子は、懐から、小さく、円い器を取り出すと、目を閉じて、大切そうに、その器を両手で包んだ。ゆっくりと目をひらき、蓋を開ける。
「これは、愛しいお方が私に下さったもの。ほら、こうして」
白拍子は、薬指で、唇をなぞった。
その唇が、椿の色に染まる。
それは、口紅だった。
「心から笑うことができる、おまじないですよ」
白拍子は、大輪の花が咲くように、幸せそうに微笑んだ。
***
オーディション当日の朝、カフェに向かった。カオリさんの珈琲を飲んで、落ち着きたかった。
扉の前に、誰かが立っている。
眞野さんだ。
「あ、静さん! よかった! 今日は来ないかと思って」
驚いた私の両手を取り、眞野さんが手のひらに何かを乗せた。
「これ、よかったら。 静さんなら、きっと合格できます!」
そう言うと、眞野さんは、ばたばたと慌てて行ってしまった。
両手の中にあったのは、小さな包みだった。
開けてみると、それは、金色の草花の彫刻で飾られた、宝石のような口紅だった。
はっとして、眞野さんが去っていった方向を見つめる。
眞野さんから、『おまじない』をもらったのだ。
嬉しくて、嬉しくて、涙があふれた。
その口紅を引き、私は、オーディションの舞台で、心から笑って、歌い、踊り、演じきった。
***
「白拍子さん! 合格!」
そう言って駆け込んだ部屋に、もう、白拍子はいなかった。
わかっていながら、部屋中を探し回った。
真っ先に、お礼がしたかったのに。
『しづや、しづ……』
ふと、彼女の唄が聴こえた気がして、振り返る。
気のせいか。
ふと目をやると、窓辺のテーブルの上に、見覚えのない盃があった。
かすかに揺れた水面は、十六夜の月を映していた。
お祝い、なのだろうか。
「しづや、しづ……」
思わず、口ずさんだ。
——そうか。あなたの名は。
<終>
ピリカ様、この度は、憧れのピリカ文庫にお誘いいただき、誠にありがとうございました。
「口紅」というテーマから「自信」や、「笑顔になれるおまじない」といった言葉を連想し、本作に至りました。
現代の口紅も素敵なのですが、昔の人が紅差し指(薬指)で紅をさす、その美しい所作をなんとか組み込みたくて、白拍子に登場していただきました。イメージしたのは、ご存知、源義経の恋人、静御前です。「しづや、しづ(静よ、静)」とは、静が頼朝の前で詠んだ句の冒頭。このように、愛をこめて呼ばれていたのですね……!
このような創作の機会を頂き、深く感謝申し上げます。
もしよろしければ、ご感想などいただけましたら、飛んで喜びます。
