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ギフト—胚培養士はいのちをつなぐ— 第十二話〖家族の温度・二〇二五年 七月十七日 前編〗#創作大賞2025

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有給を取り、三日が過ぎた。朝と夕方に散歩に出る以外は、特に何かをやる気力も湧かずに、部屋で沈黙している。睡眠も可能な限り取ってはいるけれど、夜中に何度も目が覚める。

息を吐いて、ニュースアプリを起動した。地域のニュース欄をゆっくりとスクロールする。汐里がしたことはニュースになっているのか。どうして七海を殺そうとまで思ったのか。

指が止まった。

四十三歳女性
不妊治療で授かった生後半年の娘を殺害しようとした疑い
七月十一日夜

汐里のことだ。

出産でキャリアが中断され焦っており
ワンオペ育児
重度の産後うつ病の可能性

「産後うつ」と呟いて、海音は窓の外を見つめた。良く晴れた、真夏の空を。光輝く太陽を見ると、やはり受精卵を思い出す。受精卵だった頃の七海の姿が、瞼の裏に蘇った。

重度の産後うつ病患者が、心中を考えることがあるという事実を、海音は知らなかった。無知を恥じ、海音は唇を噛みしめた。血の味がするまで、きつく噛みしめた。

スマートフォンが震えた。小林からの着信だ。

「はい。母袋です」

もう三日も誰とも話していない。声がかすれた。

「母袋さん、カレー好きですか?」
「へっ?」

待ち合わせたのは、夕刻。北都大学病院から歩いて十分ほどのスーパーマーケットだった。仕事終わりの小林が、屋根の下で手を振っている。海音も小林に手を振る。三日も休んでいるせいか、少し緊張する。

小林は、電話で海音をカレーパーティーに誘った。会場は、河瀬家だ。河瀬、芽衣、照が暮らす家で、一緒にカレーを作って食べようというのだ。

「じゃ、行きますよ!」

小林は爽やかに笑って、買い物かごを取った。二人、野菜売り場を歩く。真夏のスーパーマーケットは寒い。半袖から伸びた腕に鳥肌が立つ。河瀬家を訪問するなんて、正直、複雑な気持ちだった。間宮汐里のことで、三日前、河瀬に強い言葉を放ってしまった。後味は悪く、気まずい。それでも、家に引きこもっていたせいか、人とのつながりに飢えていた。

「今日は、りんごカレーです」
「りんご? カレーに入れるの?」
「はい。角切りにしたりんごを具にして、さらにすりおろしたのをルウと一緒に加えます。芽衣さん曰く、照ちゃんの大好物なんですよ。りんごを入れると味がまろやかになって、角が取れるので、子供でも食べやすいですし」

りんごとカレーが結びつかない。小林は、真剣な表情でりんごを選んでいる。この子、ちゃんと自炊しているんだなあと、何故か母親の目線でほっとする。

りんご。人参。大ぶりの玉ねぎ。お買い得品のシールが付いた鶏もも肉。そして最後に、甘口のルウ。カレーの材料たちが、買い物かごの中で嬉しそうにひしめき合っている。

河瀬家は、スーパーマーケットから十分ほど歩いた住宅地にあった。クリーム色をした三角屋根の二階建ての家で、小さな庭があった。庭では、トマトの苗が三つほど、鉢に植えられ、つるを伸ばしている。屋根を見ると、煙突があった。薪ストーブがあるのだ。

小林がインターホンを押す。「はーい」という声に次いで、バタバタと足音が近づいてくる。扉を開けたのは、芽衣と照だった。

「ゆーすけくんだあ! あ、かーねちゃんもいるうー!」

照はよほど嬉しいのか、青いタイルが敷き詰められた玄関で、小さな靴を履いた足でステップを踏んで、踊り始めた。小林が「今日はりんごカレーだよ!」と、買い物袋を掲げて見せる。照は、「やったー!」と叫んで、両足で跳びはねた。

「入って」

芽衣の漆黒の瞳に見つめられ、海音はこの家に来たことが、自分にとって正解だったのだと腑に落ちた。プライベートでの芽衣は、優しいお母さんだった。家の中は、白を基調としている。ハーブの香りがして、気持ちが落ち着く。玄関を入って右の扉を開けると、白いキッチンがあった。キッチンのカウンターの向こうには木の一枚板のダイニングテーブルがあり、河瀬と松居が座っていた。

「お疲れ様です」

河瀬が海音と小林を見て、いつものように微笑む。海音が言ったことなど、まるで気にしていないように。

「思ったより元気そうでよかったよ、母袋さん」

松居が安心した顔をする。

「本日はお招き頂き、ありがとうございます」

海音が頭を下げると、「仕事はこれからだよ」と、隣で芽衣の声がした。

「小林くんは照担当。母袋さんはカレー作りのアシストをお願い」

芽衣がわざと無表情で淡々とした声で言ったことがおかしくて、海音は声を上げて笑った。ずいぶん久しぶりに笑った。

「了解しました」と小林がおどけて敬礼する。小林は、「だっこだっこ」と両足にまとわりつく照を、軽々と抱き上げた。お姫様だっこをされた照は、まんざらでもない顔をしている。

「さてと。まずは玉ねぎ二個をくし形切りに、リンゴ一個を一センチ角に刻んでもらおうか」

芽衣が腕まくりをする。今日も、芽衣の指示は簡潔で分かりやすい。お腹の底から、温かい気持ちが沸き上がってくる。玉ねぎのせいにして、海音は少しだけ泣いた。

炊き立ての白米と出来立てのカレーから、幸せな湯気が立ち上る。その場にいる皆で、「いただきます!」と手を合わせた。照は小さなスプーンを握りしめて、カレーをふうふうと吹いて冷ましている。カレーを口に含むと、照は目を見開いた。

「おいしーい! りんごカレー、おかわりする!」
「ゆっくり食べなさい、照。カレーはまだたくさんあるんだから」

芽衣が、照の口についたカレーをふき取りながら笑う。

「かーねちゃん、みてー! てる、にんじんたべれる!」

照が、スプーンで人参をすくって、頬張る。芽衣が笑う。芽衣を見て、河瀬が笑う。

——家族って、いいなあ。

温かい涙が溢れそうになって、海音は上を向いて瞬きをした。胸の奥がじんわりと熱い。これを幸せというのだ。互いを想う人同士がつながって、幸せな運命共同体ができるのだ。

スプーンの中のカレーを見つめる。さっき角切りにしたりんごの角がとれていた。口に含むと、ほのかに甘い。

「母袋さん、カレーとりんご、繋がったでしょ」
「うん。美味しい」

小林が破顔する。

——家族って、何だろう。

海音の家族は、父だけだ。母の命と引き換えに生まれてきた海音の存在を、母の家族は許さなかった。父と父の両親とは、海音が生まれるずっと前から疎遠な関係だった。大学に入り、家を出た後、海音と父との距離は、今も広がる一方だ。

松居が、大皿に盛られたサラダを取り分けようとしていたので、海音は慌てた。

「松居室長。私、やります」
「いえいえ。今日はそういうの、もう全部いいですから。母袋さん、嫌いな野菜は?」
「えーと……。トマトが、ちょっと」

松居がトマトを避けようとすると、照の目が光った。

「あー! かーねちゃん、すききらいしてるー」

照は、半分に切ったミニトマトをぱくりと食べると、「おいしーい!」と叫んだ。

「おにわでね、てるがおせわした、とまとさんなんだよ」

そこまで言われると、食べないわけにはいかない。松居が、穏やかに微笑んでミニトマトを乗せ、サラダの器を海音に差し出す。意を決して、海音はトマトを口に入れた。

「何これ。美味しい。魔法みたい」

海音が驚いて照を見ると、照は白い小さな歯を見せて、にいっと笑った。綺麗に並んだ、よく磨かれた宝石のような歯だった。

自分の人生には、家族の幸せはやってこないと、海音は決めつけていた。しかし今、河瀬の家族を目の当たりにし、海音の心に希望の種が蒔かれた。自分にだって、人を求め、幸せな家族を作ることが出来るかもしれないと、やっと思うことが出来たのだった。

そこまで考えて、ようやく繋がった。間宮汐里は、ただ幸せな家族を作りたかったのだ。互いを労り、笑いあえる、家族という、ささやかで強固な運命共同体を。

河瀬が、皆のコップに冷えた麦茶を注ぐ。相変わらずの優しい瞳で。指の長い綺麗な手で。芽衣が「ありがとう」と囁いて、河瀬のカレー皿に目を遣る。

「肇、おかわりいる?」
「じゃあ、お願いします。ありがとう」

「肇」と名前で呼ばれた河瀬が、芽衣にうやうやしく大皿を差し出す。皿を受け取った芽衣が、ふわりと笑う。

こじらせた思いが、解けていく。海音が好きなのは、「父親として、夫として、一人の人間として」揺るぎなく善良な河瀬なのだ。家庭を捨ててまで他の誰かに振り向く河瀬なんか、見たくもなかったのだ。

河瀬と芽衣と照が織りなす家族という集団を、これからも傍でずっと見ていたい。そして願いが叶うなら、いつか、自分も家族というものを持ってみたい。

——もう、大丈夫だ。

美味しそうにカレーを頬張る河瀬と芽衣の左手に、銀の指輪が光っていた。

>>第十三話〖家族の温度・二〇二五年 七月十七日 後編〗


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