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「靖国神社」 なぜ、昭和天皇は親拝しなくなったのか?

こんにちは。

昭和天皇が靖国親拝(参拝)をしなくなったのは、1979(昭和54)年から。その理由は、(松岡洋祐と白鳥敏夫の名をあげ)A級戦犯を祀ったから…と言われています。
でも、東条英機が処刑された日には目を赤くしていた、という…。

誰しも、その時その時の感情の揺れがあります。公私の立場で違いもあると思う。でも、なんとなく、矛盾を感じます。

そこで、私なりに考えてみました。
なぜ、昭和天皇は靖国親拝をやめたのか?

靖国神社は、天皇側にあった人たちを祀っている神社です。

名前があがった松岡洋祐(外務大臣)や白鳥敏夫(駐伊大使)は、昭和天皇(日独伊三国同盟に反対)の意に沿わず、なんなら逆らっていた(強引に推し進めた)人たちでした。
天皇のための神社なのに、あたかも忠臣のごとく祀られている?

いやいや、昭和天皇は、ある意味、自分に忠実であろうとした人をむげに嫌うことはなかったのではないか…?

A級戦犯とされた人たちは、合祀された時、国内法では既に「戦犯ではありません」でした。
1953(昭和28)年に「法務死」とされたからです。
靖国神社の宮司・松平永芳は、国家に殉じた人を差別しない(全て平等)という考えで、独断に近い形で合祀を強行しました。
結果として、周辺諸国との軋轢をうみ、今なお続く外交問題になっています。

ここで昭和天皇の言葉が浮かびます。
『筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが、松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている』(宮内長官・富田メモ)

筑波(藤麿)は、松平永芳(合祀した宮司)の前宮司で、BC級戦犯は合祀しましたが、A級については「宮司預かり」にしていました。
父の松平慶民(宮内大臣)は「平和や皇室の立場」を考えていたけど、子の永芳がそれを壊した…。

A級戦犯はもう戦犯ではなかったのに、合祀したことで、かえって「戦犯」という言葉が全面に出ることになってしまった。
戦争が終わり、ようやく平和を築こうとしている中で、あえて平和を壊すようなことをしている。合祀は、諸外国との関係(平和)を乱してまでもするべきことだったか? それが「国益」になるか?

昭和天皇が親拝をやめたのは、A級が合祀されたことで(A級が悪いのではなく)、そこに平和を見いだせなくなったからでは?
だから、象徴となった自分が政治利用されることを避けたのではないでしょうか?
「君子危うきに近寄らず」
でも、祭祀の継続のため、勅使を差し向けた。

たとえ、靖国神社に祀らなくても、昭和天皇はA級戦犯とされた人たちのことを大切に思っていたはず。自分の代わりに逝った忠臣たちを静かに眠らせてあげたかったのかも…。

それでは、またの日に。


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