〜第1章〜 それぞれのピーター・ガブリエル脱退 (2)フィル・コリンズの場合
Brand X の始動
さて、フィル・コリンズは、ちょうどこのガブリエル脱隊騒動の少し前から、Brand Xでの活動を始めています。
以前の記事で紹介したように、メロディ・メイカーや、ニュー・ミュージカル・エクスプレス(NME)のピーター・ガブリエル脱退に関する記事にも「自身のパブ・バンド」とか、「ドラマーのフィル・コリンズが、サリー大学でライブを行うために自分の小さなバンドを結成した」などと報じられていました。このバンドこそ、Brand X なのです。
そもそも、Brand X の前身は、ロンドンのアイランドスタジオを拠点としたミュージシャンの集まりでした。アイランドスタジオと言えば、ジェネシスが、The Lamb Lies Down on Broadway の最終仕上げやミックスを行っていた場所です。そこでは、いろいろなミュージシャンが集まって頻繁にセッションが行われ、その中からひとつのグループが立ち上がっていったのです。最初期の Brand X(そのバンド名すらなかった時期…)には、まだフィル・コリンズは参加しておらず、ジョン・ディロン(John Dillon)という人物がドラムを担当していました。他に、ジャック・ランカスター、パーシー・ジョーンズ、ジョン・グッドソール、ロビン・ラムリー、ピーター・ボナスなどもこの時期からセッションに参加しており、さらに、キース・ティペットやその妻のジュリー・ティペット、またボーカル&パーカッションとしてフィル・スピネッリ(Phil Spinelli)などもいたそうです。The Lambのミキシング作業の頃にはセッションが行われていたようで、この時分から彼らはフィル・コリンズと面識があったのではないかと思います。
その後、74年9月にジョン・ディロンが離脱した後、バンドは次のドラマーを、キング・クリムゾンを脱退したばかりのビル・ブルーフォードにオファーするのですが、彼には断られ、その後フィル・コリンズが参加することになったわけです。この結成の経緯を見ると、そもそも Brand X は、フィルが結成した「自身のバンド」ではないということがわかると思います。
お蔵入りした Brand X 最初のレコーディング
1974年12月。ジェネシスが The Lamb のツアーを始めたばかりの時期です。The Lamb ツアーの皮切りとなる北米公演は、74年11月20日〜12月18日まで行われました。その後、クリスマス休暇となり、次に75年1月10日から再び北米ツアーが再開されます。このわずか3週間ほどのオフの間に、フィルは Brand X のレコーディングに参加したのです。
このときは、グッドソール、ジョーンズ、ラムリー、ボナス、スピネッリ、コリンズのラインナップでした。この作品は、スピネッリのボーカル入りで、アヴェレージ・ホワイト・バンド風のファンク/ソウル系サウンドだったそうです。
ところが、この音源がレコード会社に不評でお蔵入りしてしまいます。その後、ラムリーとランカスターが、ジャズロック版「ピーターと狼」を制作。フィルはここにも一部参加していますが、このアルバムがリリースされるのは少し後のことになります。
そしてフィル・コリンズが The Lamb のツアーを終えてから、彼らは実験的な要素を盛り込んだインストゥルメンタル・ジャムセッションに傾倒し、これが後の Brand X の1stアルバムにつながっていくのです。
Brand X の最初のギグ日程の謎
さて、Brand X の記録に残る最初のギグは、NMEが報じたとおり、イングランドの「サリー大学」で行われました。これは大学側の資料でも確認できるそうで、1975年5月16日のことです。(*1)
ところが、この日程が不思議なのです。この年の5月16日といえば、ジェネシスは、まだ The Lamb のツアー中で、この日は南フランスのランス(Reims)という都市でコンサートを行っていたはずなのです。
このときジェネシスは、以下の公演を行ったとされています。
5月15日 Reims, France (Patinoire (= ice rink) Bocquaine)
5月16日 Reims, France (Patinoire (= ice rink) Bocquaine)
5月18日 San Sebastian, Spain (Velódromo de Anoeta 現Anoetako Belodromoa)
(太字はブートレグが存在するライブです)
つまり、5月16日は、2日続けて同じ会場で行われたライブの日であり、これが事実ならば、フィルは同じ日のサリー大学のギグに行けるはずがないのです。
ところが、この2回目の The Lamb ヨーロッパツアーは、チケットの売れ行きが良くなかった都市があり、キャンセルになった公演が複数あるツアーです。他の日程を見ても、2日連続同じ会場というのは、ここ以外には存在しないわけです。もし、この5月16日のライブがキャンセルになっていたとすると、フィルは15日のライブ終了後か、16日早朝にロンドンに飛んで、その後サリー州で Brand X のギグに参加した後、18日にスペインのサン・セバスチャン(San Sebastian)に戻ってジェネシスのステージに立つというのは、物理的には可能なのです。
今のところ、5月16日に本当にランス(Reims)でライブが行われたかどうかの決定的な証拠は見つかっていません。ブートも5月15日のクレジットのものしか存在しないようです。であるならば、やはりこの日フィルはサリー大学に行っていたのかもしれません(これは後の歴史を知る人には、極めてありそうな行動なのですよねw)。ところが、この件はフィルの自伝に一言も触れられてないのです(Brand X への参加に関してはきちんと書かれているにも関わらず…)。もし、フィルがこんなスケジュールでフランス〜イギリス〜スペインと移動したのなら、「このときはコンコルドじゃなかったけど」くらいのジョークは書きそうなものですよね…。
さらに残念なのは、サリー大学側の記録にも、Brand X というバンド名しか残っておらず、そこで誰がどんな演奏をしたのかというライブ評のような資料は残されていないようなのです。これは、この時期の Brand X というバンドも全くの無名の存在だし、フィル・コリンズがそこに参加していたとしても、まだそれほど話題になるほどの有名人というほどでもなかった結果なのかもしれません。
では、ピーター・ガブリエル脱退に関する、マネージメントのコメントは、何だったのでしょう? このとき、取材に応えた広報は、バンド名こそ明らかにしていませんが、フィル・コリンズが「趣味の」バンドを結成して、「サリー大学でギグをした」とコメントしてるわけです。
これは、ジャーナリストからピーター・ガブリエルの脱退についての探りを入れる取材を受けた際、マネージメントが苦し紛れについ適当なことを喋ってしまったのか、それとも自身のバンドかどうかはともかく「本当にそのギグに参加していたことを把握して」そのようなコメントをしたのかのどちらかでしょうが、真相は何か新しい資料が発見されなければ解明されないだろうと思います。
いずれにしても、フィル・コリンズは、74年12月末から、ジェネシスとは別のバンドに参加して活動を始めており、8月の前後にもセッションを行っていました。そしてフィルは、ピーター・ガブリエルの脱退が明らかになり、ボーカリスト希望者が殺到しているまさにその時期である 9月〜10月にかけて、Brand X の1stアルバム Unorthodox Behavior(邦題:異常行為)のレコーディングを行ったわけです。また、プライベートでは9月25日にかねてから交際していたアンドレア・ベルトレッリとの結婚式をサリー州の教会であげているという、相変わらず忙しい日々を送っていたわけです。(*2)
さらにその後12月にBrand Xのライブが予定されます。ライブに向けたリハーサルが行われ、このときパーカッションをひとり追加することになります。そして、何故かここで一度 Brand X への参加を断ったビル・ブルーフォードがパーカッションとして参加するのです。(*3) そして、このことが後の A Trick of the Tail ツアーへのブルーフォード参加の布石となるわけです。
BrandXの1stアルバムUnorthodox Behabior(邦題:異常行為)は、A Trick of the Tail に先だってレコーディングされたが、リリースは翌76年6月となる。
バンド存続を望んだフィル・コリンズ
このときのフィルの Brand X がらみの行動は、ジェネシス解散をにらんだ、「保険」としての活動という意識も少しはあったのかもしれません。しかし、彼もバンドとしてのジェネシスの存続を望んでいたのも間違いないのです。
実際、The Lamb のリハーサル合宿中、ピーター・ガブリエルが、映画エクソシストの監督ウイリアム・フリードキンに誘われたことで起きた最初の脱退騒動の際、残された4人のメンバーだけでも続けていけると確信したわけですし、さらにこのとき「ピーター・ガブリエルがいなくなるなら、みんなでインストゥルメンタルバンドとしてやっていってはどうか?」という発言をして、他メンバーに否定されたのも、フィルなのだと伝えられています。また、後にふり返って、このようにも語っています。
When he did leave, for me, carrying on was just something that we should definitely try. Of course, I never thought it was going to be as successful as it was.
彼が本当に辞めたとき、僕にとっては、やっぱり続けるべきだっていう感覚しかなかった。もちろん、まさかあそこまで成功するなんて思ってなかったけどね。
しかし、そのフィル・コリンズも、Brand X のレコーディングを終えても尚、まさか自分がピーター・ガブリエルのかわりを務めることになるとは、考えてもいなかったのでした。
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【2025年10月15日追記】
最初に、74年のクリスマス休暇に行われたBrand Xのレコーディングを、「恐らくこれがフィル・コリンズの、ジェネシス加入以降最初の別バンドへのレコーディング参加だと思います」と書きましたが、全くの間違いでした。お詫びして訂正いたします。フィルは、74年9月に、例のThe Lambのバーターでブライアン・イーノのレコーディングに参加していますし、それ以外にも色々ありました。こちらは1968〜1975年のフィルのレコーディング記録一覧です。まあやっぱりフィル・コリンズはそんな生やさしい人ではないですね(^^;)
【注釈】
*1:1975年5月16日のサリー大学でのライブ出演者は、下記資料に記載がある。この日のギグは、Melody Maker 24th May, 1975 にレビューがあるとされているが、Brand Xのメンバー記載があるかどうかは不明。
*2:フィル・コリンズとアンドレア・ベルトレッリの結婚式は、1975年9月25日にサリー州エプソムにあるセント・ジョセフ教会で行われた。ここにイエスのジョン・アンダーソンが参列していた。このときアンダーソンは、初対面のスティーブ・ハケットに対して、「フィルをリード・シンガーにしたらどうだ? 他の楽器奏者を入れればいい」とコメントした。
*3:1975年12月。Brand Xは、パーカッションを追加して数回ライブを行ったが、ここにビル・ブルーフォードがいたかどうかは、定かでない。ただブルーフォードは、2回 Brand X とリハーサルをしている。最初はジョン・ディロンが脱退した後で、数回リハーサルした後にブルーフォードが参加を断った。このときはまだフィル・コリンズは参加しておらず、フィルとブルーフォードがロンドンのダンススタジオで行われた Brand X のリハーサルで顔を合わせたのは、1st アルバムレコーディング後のリハーサルである。このとき、12月のライブに向けて、追加パーカッショニストとしてブルーフォードが呼ばれたようだ。一度断った彼が再度参加したのは、フィルがいることがわかっていたからかもしれない。結局このとき、ブルーフォードが「ツアーのドラマーとして自分はどうだ?」と売り込んで、週給500£(当時の円£レートで約175,000円)という破格のギャラのツアードラマーの座をゲットしたわけなので。ちなみに、1997年にリリースされた Brand X の { missing period } (1975〜76年頃の未発表音源集)は、パーカッションにプレストン・ヘイマンが参加しており、75年12月のライブのパーカッションもヘイマンの可能性がある。
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