『日輪』横光利一 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
新感覚派の驍将として登場した横光は、つぎつぎと新しい小説形式に挑戦したが、戦争によって不幸にも挫折した。だが現在の文学状況の中で、横光の試みは今もなお課題たりうる多くのものを含んでいる。
1910年代に世界では第一次世界大戦争に反対し、その意思を芸術に踏襲したダダイズムやアヴァンギャルド芸術運動が盛んになっていました。こうした前衛芸術運動に感化され、日本文学に新たな思潮を生み出したのが川端康成です。1926年に「新進作家の新傾向解説」を発表し、「新感覚派」という思潮を掲げました。プロレタリア文学が日本文壇の中心にあったなかで、作家や読者に強烈な印象を与えた新感覚派は文壇を二分するほどに支持されました。人間が得る「感覚」を新たな文芸表現によって展開される物語は、私小説に見られるリアリズムとは決定的に違う特徴として捉えられ、まさに新感覚の美を提示しました。この新感覚派の旗手と公私共に深い交流を持ち、生涯の友であった作家が横光利一(1898-1947)です。戦争の時代に思想が行き交う混迷の世に、横光は持ち前の誠実さと真面目さをもって文学の理想を求めて生きました。そして、強い意思を貫かんとする生き方が、彼の作品に大きな魅力を備えさせています。
横光は自分を律し、誇示せず、忍耐強い性格で、日頃から自分自身を客観的に見ることを意識していました。自分以上に相手の考えを汲み取り、賢明さをもって接する姿に、作家仲間たちは自然と惚れ込み、次第に兄貴分のような人望を得るようになりました。彼が自然に自分を客観視して人に接することが自動的に周囲の信頼を得ることに繋がり、関わる人々はその誠実さと賢明さを見ることで良い人間関係が構築できる、そのような人物でした。
横光は学生の頃より文士を志し、早い段階で執筆活動を行っていました。同人誌「文学世界」などに掲載され始めたころ、友人であった詩人の佐藤一英に紹介され、菊池寛との知遇を得ます。菊池は雑誌「文藝春秋」の創刊を進めており、なかでも川端康成の面倒をよく見ていました。菊池の引き合わせで出会った横光と川端は、互いに価値観を共有し、互いの作品を磨き合っていきます。そして、ほとんど無名であった横光は「文藝春秋」という大看板の五号目に『蝿』を掲載することになりました。この大抜擢は、横光利一という新鋭作家の華々しい文壇登場と、大衆へ強烈な作品を届けるという効果を世に与えました。横光はこの恩恵を与えてくれた菊池を慕い、築かれた深い信頼関係は終生続きました。また、同時期に文芸誌「新小説」で発表した本作『日輪』も相乗効果で注目され、横光利一という作家は川端康成と並ぶ新感覚派の代表作家となりました。
『日輪』は、現在でも諸説ある邪馬台国(作中では邪馬台/やまと)の卑弥呼をめぐる、隣国の王子たちの殺し合いと苦悩が描かれています。本作は横光本人も認めるように、ギュスターヴ・フローベール『サランボー』を参考に執筆されています。共和政ローマがカルタゴを征服する第一次ポエニ戦争を舞台とした『サランボー』は、愛憎と狂気が渦巻く非情の叙事詩です。実際、話の道筋は両作品に共通する点がいくつかありますが、用いた文芸技法は全く別物となっています。フローベールは当時の小説技法を古代に当てはめることで、詩性や幻想性を永続させようと試みました。この小説技法は、フローベールが『ボヴァリー夫人』で描いたロマン主義的幸福を幻想であると示すリアリズム手法と重なるもので、やはり『サランボー』も古代をリアリズムで描いたものであると言えます。ローマ軍がどのように蹂躙したか、カルタゴは侵略軍をどのような印象で見たのか、そのようなリアリズム的想像を詳細に、具体的に描いたことで古代幻想に命を吹き込みました。
これに対して『日輪』は、軍による侵略や愛憎の駆け引きなど、共通する出来事はいくつか挙げられますが、いずれもそこには「導こうとする作家の主眼」が存在せず、会話も淡々と短い言葉で語られ、我(われ)や爾(なんじ)の繰り返しで個性や生命力が伝わってきません。さらには、愛憎溢れる王子の殺し合いにも血の匂いはなく、痛みや恐怖さえも感じられません。絶対的に作中描写から伝わってくるものは、俯瞰した視覚的印象のみです。ここに横光が持つ独特の詳細な客観視が現れ、流れる血の鮮やかさ、山や木々の美しさ、羽毛の軽さ、馬の力強さなどが言葉を通して脳に入ってきます。視覚から読み取る情景描写は、そのまま叙事詩の枠組みへと転換され、読む者には物語から浮かび上がる人間の普遍性が強調されていきます。五感や心情をリアリズムで描くことに反して、横光は自身の定点的客観視によって受け取る情報を「選び取った感覚」に集中させることで、古代の舞台から普遍性を描いた叙事詩へと作品を昇華させました。
卑弥呼の高座は二人の方へ近か寄って来ると降された。しかし、耶馬台の兵士の中で、彼らの反絵を助けようとするものは誰もなかった。何ぜなら、耶馬台の恐怖を失って、幸福を増し得る者は彼らであったから。彼らは卑弥呼と一緒に剣を握ったまま、血砂にまみれて呻きながら転々する二人の身体を見詰めていた。彼らの顔は、一様に、彼らの美しき不弥の女を守り得る力を、彼女に示さんとする努力のために緊き締っていた。
ひとつ興味深い話として、『日輪』と同時期に発表された『蝿』は、いわばリアリズムで描かれた短篇として知られています。田舎の乗合馬車がそれぞれの感情を乗せ、やがて惨事へと導かれる内容は、読む者に救いのない憂鬱を与えます。冒頭から張り付いていた一匹の蝿は、馬車が惨事に至るとふわりと空へ浮かび上がって難を逃れます。この無情な存在である蝿の目こそが横光利一の客観視なのであれば、この作品はメタ視点で描かれたものであるとも言えます。そういった意味でも、この両作品は「新感覚派」としての礎的作品と見做すことができます。
文芸としての新たな試みを模索し続けていた横光でしたが、第二次世界大戦争によって環境は大きく変化していきます。菊池寛の発案によって設立された「文芸銃後運動」(文士による翼賛運動)に参加し、祖国の勝利を信じる活動家の一人となりました。大政翼賛会の行事には積極的に参加し、真珠湾攻撃の特別攻撃隊には「軍神の賦」において、彼らを聖戦の犠牲だと哀悼しています。さらには大東亜文学者会議でも中心人物として活動し、大東亜戦争完遂を目標とした決議文なども起草しました。しかし敗戦後、膨らんだ気概は萎み、広がる焼け野原に絶望し、さらには疎開時から続いていた貧困も重なって、気力は見る影も無くなりました。ここに追い打つように、戦時協力した「文壇の戦犯」として、横光は名を挙げられました。(小田切秀雄や宮本百合子らの新日本文学会が発表した「文学における戦争責任の追及」によるもので、菊池寛、久米正雄、中村武羅夫、小林秀雄、河上徹太郎なども挙げられましたが、小田切自身が戦前に翼賛的作品を発表していたことが明らかであったことで、戦争責任者の資格が再吟味されることになり、この告発は自然消滅)
それでも大衆は新感覚派代表作家の横光利一を支持し、作品を受け入れ続けましたが、戦後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)下による文学作品の検閲が厳しく、自由に執筆ができなくなっていきました。そして晩年、病と仕事に追われて倒れた横光は、最期となる日まで川端に支えられ続けました。
国破れてこのかた一入(ひとしお)木枯に吹きさらされる僕の骨は、君といふ温い支へさへ奪はれて、寒天に砕けるやうである。君の骨もまた国破れてくだけたものである。このたびの戦争が、殊に敗亡が、いかに君の心身を痛め傷つけたか。僕等は無言のうちに新な同情を通はせ合ひ、再び行路を見まもり合つてゐたが、君は東方の象徴のやうに卒に光焔を発して落ちた。君は日本人として剛直であり、素僕であり、誠実であつたからだ。君は正立し、予言し、信仰しようとしたからだ。君の名に傍へて僕の名の呼ばれる習はしも、かへりみればすでに二十五年を越へた。
文士として共に生き、最期まで共に過ごした二人、横光と川端は心身ともに新感覚派に生きていたのだと考えてしまいます。どの時期も順風満帆といった幸福は無く、忍耐強く堪え続けた作家人生であったように思えますが、師の菊池と友の川端が傍に居たことで、心は満たされていたのかもしれません。新感覚派の横光利一、出世作の『日輪』、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。
