「見ない」をする
情報というものは、あるに越したことはない。
取り入れた情報は知識となり、知識は経験となり、経験は財産になるからである。
…なんてカッコつけて言ってみたものの、世の中は有り余るほどの情報であふれ返っている。そんな膨大な量の情報をインプットすれば、脳はたちまちパンクしてしまう。
情報はあるに越したことはないが、受け皿には限界がある。
たとえば、テレビ。
僕は、根っからのテレビっ子だ。生まれたときから家庭にテレビのある生活ゆえ、食事や睡眠と同レベルでテレビが君臨していた。
ただ、一人暮らしをしてからは、テレビをほとんど見なくなった。
役場職員だったので、災害情報をリアルタイムで収集するためにテレビはあった(それでも社会人4年目とかに買った)。
しかし、それ以外はあまり見る機会がなかった。
いや、正しくは「テレビを点けなくなった」だろうか。
テレビっ子の性ゆえか、テレビが点いていると思わず見入ってしまう。宅飲みなどでテレビが点いていると、トークそっちのけで見入ってしまうので、話の内容がまるで入ってこない。テレビの影響が大きいために、奪われる時間も長くなってしまうのだ。
何気なく点けたのに思わず見入ってしまう、そんな経験は誰しもがあると思う。
もちろん有意義なケースもあるのだろうが、だいたいは暇つぶしである。生産性が高いとはなかなか言えない。
そんなわけで、「自らテレビを点ける」ことはほとんどない。
言い換えれば、「見ない」をしているのである。ある意味で、断捨離の「断」と言えよう。
そもそも初めからテレビを点けないことで、とめどなく流れ出でる情報を遮断する。
そうすれば、頭の中はごちゃごちゃしにくくなるので、他の行動のパフォーマンスが向上する…気がする。
何が必要で、何が必要でないか。
何が重要で、何が重要でないか。
何が役に立って、何が役に立たないか。
そんなことはわからない場合が多い。
インプットの大切さは理解しているつもりだが、何でもかんでも受け入れるキャパシティは持ち合わせていない。
だから、時には「見ない」をすること、つまり「インプットしない」をすることも大切なのではないかと思う。
運動や仕事もそうだろう。
運動は健康のため(人によっては仕事のため)、仕事は生活のために必要な行動である。このことはきっと間違いない。
しかし、運動も仕事も、休息なしに続けられないのは自明の理である。
情報も然りで、インプット・アウトプットをひっきりなしに続けていたのでは、遅かれ早かれまいってしまう。
だからたまには休みましょう、ということである。
「見ない」をする習慣は、簡単なようで意外と難しい。
その一方で、不毛に見えて意外と有意義な行動だと思っている。
目を休ませることで、他の感覚が敏くなるメリットもあるのではないだろうか。
花の香り、鳥のさえずり、風の手触り、食材の味。
人間が最も情報を収集する感覚は視覚だと言われているが、あえて視覚を休ませることで、感受性が向上する可能性もきっとあるはずだ。
そんなことを言いながらも、親が点けたテレビに誘われる毎日なので、まだまだ修行が足りない。

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