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祖父に引導を渡した日【#創作大賞2026 #エッセイ部門】

ガラクタだらけ、段ボールまみれの納戸の奥に、学生時代に使っていた机がある。実家の2階部分をほぼすべて自分のテリトリーにしているのをいいことに、不要物を手あたり次第この納戸にぶち込んできた。「今日こそやるか」と数年に一度しかやってこない片づけ欲だけを頼りに、ごちゃごちゃの中へと足を踏み入れる。

引き出しの中をまさぐると、ふたつ折りの、少し上質そうな紙が出てきた。思い出の品が出てくると片づけが滞る罠に幾度となく引っかかってきたが、どうやら今回も例外ではないらしい。

開くとそれは、僕が小学3年のときに描いた祖父の似顔絵だった。
たしか、祖父の葬儀のときに描いたものだ。

絵を描くのが好きだったこともあって、なかなか上手に描けている。思い出の詰まったイラストをこんな散らかった部屋に放置するなんて、人としてどうかしているとしか思えない。

片づけを中断し、似顔絵に向き合う。N字まみれのタートルネックを着た祖父。その周りには、生前の祖父と縁のある品々が描かれていた。眼鏡、みかん、ヤクルト、将棋の駒、そしてベッドサイドモニタ。一つひとつを眺めていくうち、祖父との思い出が映画のワンシーンのようにまざまざとよみがえる。


「泣き虫」が、僕の代名詞だった。
兄弟や友達とケンカしては泣き、親に怒られては泣き、ゲームに負けては泣く。そんな僕をよく慰めてくれたのが、祖父だった。
「子どもの頃、一番好きだった人は?」と聞かれたら、迷わずに「母方の祖父」と答える。母の実家が近くにあったし、我が家で一緒に住んでいた時期もあったから、僕にとっては単身赴任でよく家を空けていた父よりも身近な存在だった。

祖父をひと言で表現するなら、「孫煩悩」だろう。母に言わせると昔はこわかったらしいが、僕は寵愛を一身に受けし孫なので知ったこっちゃない。誕生日やクリスマスはもちろんのこと、なんでもない日にもお菓子やおもちゃを買ってくれた。未就学児の頃にはウルトラマンごっこ、小学校に上がってからは将棋と、よく一緒に遊んでもくれた。僕を見ているときの祖父は、いつも眼鏡の中で目尻を下げていた気がする。

祖父はよくみかんを剥いてくれた。手先の器用な人だったので、しわしわの骨ばった両手で白筋まできれいに剥いてくれた。その光景を、特等席──祖父のあぐらの上から眺める。露わになった果実は、一粒ひとつぶが夕陽のようにキラキラと輝いていて、まるで僕だけの宝石だった。

怒られた記憶はほとんどない。5人いる孫の中で末っ子だったこともあって、一番かわいがってもらったと思う。僕が特等席に座り、祖父の腕を後ろから引いて体の前でクロスさせる「シートベルトごっこ」も、されるがままに受け入れてくれた。目に入れても痛くない、とはまさにこのことだ。本当に僕が目に入っても痛みを感じなかったのではないかと思えるし、むしろ眼球にぐりぐりと押し込まれた僕の方が苦痛で泣きそうな節さえある。ウルトラマンごっこで怪獣役の祖父を思いっきり叩いても、将棋でずるをしても、祖父の表情はいつもあたたかかった。

いつかソーセージの空き箱で遊んでいて、僕のいない間に祖父が箱の空白にポケモンのイラストを描いたことがある。僕は喜ぶどころか、「なんで落書きなんかしたんだ」と大泣きした。よかれと思って描いたことが裏目に出て、さすがの祖父も手を焼いたと思う。それでも祖父は、ずっと優しいままだった。

そんな祖父はただの一度だけ、僕を叱責したことがある。


1998年、秋。小学3年の僕はある日、同級生の家で遊んでいたのだが、そこでちょっとしたトラブルが起きた。ふたりの同級生がじゃれ合いのつもりで僕にのしかかり、小柄でひ弱な僕は身動きが取れず、しまいには息ができなくなったのである。なんとか脱出したものの、僕は恐怖と悲しみとで泣き出した。変なしゃっくりも出てきて、うまく呼吸ができない。這うように同級生の家を飛び出し、泣きながら自宅へと逃げ帰った。道中、薄いブルーの空にふんわりと滲むオレンジ色の夕焼けが、妙にきれいだったのを覚えている。

家には、祖父だけがいた。ひとり掛けのソファーにあぐらという独特の体勢で夕刊を読んでいる。リビングには外と同じオレンジ色が窓から差し込み、祖父の背中を照らしていた。

僕は祖父に泣きついた。ふたりにのしかかられて、息ができなくなって、とても苦しかった、と。わんわんと喚いていながら、心のどこかで安堵していた気がする。祖父はきっと優しく慰めてくれる、と信じていたからだ。

しかし、祖父の顔は険しい。新聞に目線を注いだまま、祖父は静かに、そして力強く言った。

「いつまでも泣くんじゃない。男だろ」

僕は絶望した。優しいと思っていた祖父が、絶対に自分の味方でいてくれると信じていた祖父が、辛辣な言葉を放ったのだから。涙は止まるどころか、より激しく氾濫した。

その後、帰宅した母に泣きついた気もするが、覚えていない。それはきっと、あのときの祖父の姿が鮮烈に焼きついているからなのだと思う。

あれは祖父なりの愛情だったのだろうか。そう遠くない未来、僕たちが別れるのを悟っていたのかもしれない。


1999年1月11日。母方の祖母が他界した。祖父にとっては、長年連れ添った妻だ。そのショックは相当のものだったに違いない。後から知ったことだが、祖母の火葬のとき、祖父は体調を崩して途中退席したそうだ。

祖母の死から幾ばくもなくして、祖父は入院した。僕は母とともにお見舞いに行ったことが何度かある。初めこそ入院前とさほど変わりない様子だった祖父も、3月に入った頃にはすっかり憔悴していた。起きているのか寝ているのかわからないくらい意識は朦朧としており、肌は絵の具でも塗りたくったかのような黄色をしている。輪をかけて痩せ細った体からは、なんともいえない不快な臭いが漂っていた。すい臓がんだったらしい。

祖父とのツーショットを母が撮ってくれたことがあった。しかし、そのとき僕は祖父のそばに行くのを泣いて嫌がった。祖父から漂うなんとも言えない悪臭が耐え難かったのもあるが、大好きな祖父の変わり果てた姿を受け入れることができなかったのだと思う。そのうち、僕はお見舞いに行くことさえ拒むようになった。


同年3月11日。いよいよ祖父の容態が悪化したということで、僕ら家族と近所に住む伯母一家が病院に集まった。曇天の午後、殺風景な病室の真ん中で、ベッドの上に横たわる祖父。周りを囲むように、皆が祖父を見守る。ベッドサイドモニタの「ピッ、ピッ」という無機質な電子音が、祖父がまだ生きていることを生々しく伝えていた。

不安げに祖父を見つめていると、母に声をかけられた。

「じいちゃんの足をさすってあげて」

まだ幼かった僕は、これを救命の任務と捉えた。自分が足をさすっていれば、祖父は助かる。本気でそう思った。

祖父の足元に丸椅子を置き、腰掛ける。目の前にある掛け布団をめくると、しわしわの足の裏がふたつ見えた。数日前まで黄ばんでいた肌は、もはや血の気を感じられないほど青白く、そしてひんやりとしていた。

その足を、僕の手がさする。

じいちゃん、がんばれ。じいちゃん、がんばれ。

どれだけ手を動かしても、祖父の足は冷たいまま。それでも、自分の体温を祖父に分け与えるように、一心不乱にさする。

じいちゃん、がんばれ。じいちゃん、がんばれ。がんばれ、がんばれ……


…………………………


いつの間にか眠っていた。あまりにも一生懸命さすったために、疲れてしまったのかもしれない。

目覚めると、病室の様子が明らかに寝落ち前のそれとは違うことに気づいた。
ふたつの新しい音がする。ひとつは、小学5年だった姉の慟哭。もうひとつは、さっきまで「ピッ、ピッ」と一定に刻まれていたはずの、ベッドサイドモニタの「ピーーーーー」という無情な電子音だった。

頭では理解している。けれど、心が追いついていない。感情がこちらに向かって走り出したとき、事実はすでに目の前で横たわっていた。

祖父は、もうここにはいない。冷たくなった足が温もりを取り戻すことは、もうない。


祖父が息を引き取った直後、母が駆けつけた。何か用事があって席を外していたのだと思うが、僅かに間に合わなかった。母は祖父の亡骸に抱きつき、激しく泣き叫んだ。

「どうして待っててくれなかったの!」

お母さん、ごめん。僕のせいなんだ。僕が寝ちゃったから、足をさするのをやめちゃったから……

じいちゃんは、死んじゃったんだ。


諸々の手続きを終えて家に帰る頃には、すっかり日が暮れていた。ロビーの窓から外が見える。僕ら家族の気持ちをそのまま映し出したかのように、静かな暗闇が広がっていた。

帰り際、病院内の自動販売機でヤクルトを買ってもらった。生前の祖父とよく一緒に飲んでいたヤクルト。2個で90円のヤクルトを、この日は母と分け合った。

ヤクルトを飲みながら、僕は母に謝った。足をさすっているうちに眠ってしまったこと。だから祖父を助けられなかったこと。

涙が止まらなかった。受け入れることができなかったのだ。祖父の死も、自分の過ちも。

そんな僕に、母は穏やかな口調で語りかけた。

「あんたが足をさすってくれたから、じいちゃんは気持ちよく天国に行けたんだよ。だからじいちゃんは『ありがとう』って思っているはずだよ」

父親の最期を看取ることができなかったというのに、母は気丈に振る舞った。それは僕が祖父のことを大好きで、祖父もまた僕のことを大好きだとわかっていたからだろう。

しかし、その優しい言葉さえも、僕は受け入れられなかった。ヤクルトを持った小さな手には、冷たい足の感触がまだ残っていた。


程なくして、祖父の葬儀が執り行われた。

広い葬儀場の奥に、たくさんの花が供えられている。その中心にある小ぎれいな箱の中には、大好きな祖父が眠っていた。

僕は、お別れの手紙を読むことになっていた。黒い服を着た大勢の人たちが見守る中、眠る祖父の前に出る。ポッケから手紙を取り出し、マイクの前で読み上げた。

正確な内容を確認する術はない。手紙は棺の中に置いてきたし、記憶も曖昧だ。ただ、どんなことを書いたかは、なんとなく覚えている。

ウルトラマンごっこで思いっきり叩いてごめんなさい。
将棋でずるをしてごめんなさい。
ソーセージの箱に絵を描いてくれたのに怒ってしまってごめんなさい。
足をさすっているときに眠ってしまってごめんなさい。

手紙を書いたとき、内容を母に確認してもらった。ごめんなさいばかりの文面を見て、母は言った。

「最後に、『そして、ありがとう』って書いたらいいんじゃない?」

祖父がどれほど僕に溺愛していたかを、母はよくわかっていた。なんもだよ、謝らなくていいんだよ、と僕を励ましてくれたのだと思う。さっぱりとした口調の中に、やわらかな慈しみが詰め込まれていた。

母の言うとおりに、手紙の一番下には感謝の言葉を付け足した。しかし、いざ読むというときになってなんだか恥ずかしくなり、その部分だけ読むことができなかった。手紙は最後の一行を読まれることなく、祖父とともに炎に焼かれていった。

本当は伝えたかったはずなのに。本当は一番伝えたかった言葉のはずなのに。
僕は言えなかった。最も大切で尊い言葉を、自らの手で切り捨ててしまった。


祖父との思い出がキラキラしている分、後悔もまたどうしようもなく鮮やかだ。ふたつの後ろめたさを引きずりながら、僕は祖父のいない世界を生きてきた。

小学3年だった僕は、気づけば30を過ぎていた。天真爛漫なあの頃と比べると、立派に薄汚れた大人になっている。無邪気なままでは知りえなかったことも、たくさん身につけてきた。

僕が祖父に引導を渡した日、母が言ったあの言葉の意味も、今ならわかる気がする。


あんたが足をさすってくれたから、じいちゃんは気持ちよく天国に行けたんだよ。だからじいちゃんは『ありがとう』って思っているはずだよ──


「引導を渡す」という言葉には、残酷な響きがある。けれど元々は、「亡くなった人が問題なく天国へ行けるように導く」というあたたかい祈りの言葉らしい。

もしあの日、僕のしたことが祈りだったなら。本来の意味での「引導を渡す」ことだったなら。祖父にとってこの上なく幸せな旅立ちだったのではないだろうか。最期の瞬間にかわいい孫が足をさすってくれている──これ以上のハッピーエンドなんて、きっとない。

別れから四半世紀以上が経った今、祖父はすでに過去の人だ。けれど、祖父の生き様、そして死に様は、今も僕の中に息づいている。祖父と過ごした時間は、僕を強くし、同時に弱くもした。

あの日、僕はたしかに、祖父に引導を渡した。けれど、それは絶望でも呪いでもなく、弱さを受け入れるための儀式だったのかもしれない。


似顔絵の中の祖父は、微笑んでいる。きっとあの頃の僕が一番見てきた顔だ。本当は棺とともに焼かれるはずだったこの紙は、僕が残しておきたいと懇願したから今ここにある。

焼かなくてよかった。あの日、読むことができなかった最後の一行を、今なら自分の言葉で言える気がするから。


大好きなじいちゃんへ。僕のじいちゃんでいてくれて、ありがとう。


ダメだ、涙が止まらない。泣き虫なのはちっとも変わっていないや。


(おしまい)

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