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人嫌いの僕が畜産学部で学んだ、人と関わるということ

人間が、嫌いだった。

中学、高校と人間関係に悩まされていた僕は、10代にして人と関わるのに辟易していた。
特に中学時代のいじめは、僕を軽い人間不信にするには十分すぎる出来事だったと思う。暴力、悪口、盗難と、一通りの嫌がらせは経験したが、一番きつかったのは、小学校で仲良しだった同級生に裏切られたことだ。いじめられている僕を助けるどころか、一緒になっていじめてきたのだ。
信じても、裏切られる。自分の居場所がどこにもなくて、学校に行けない時期もあった。

そんな僕を救ってくれたのは、KinKi Kidsと実家の犬だった。小学生のとき、堂本剛主演のドラマを観てすっかりファンとなり、そのドラマがきっかけで獣医師になりたいと思うようになった。その夢が、中学時代の僕を支えてくれた。
獣医師を目指すくらいには、動物が好きだった。特に犬は、実家で飼っていたこともあって一番好きな動物だ。犬はかわいいし、賢いし、嘘をつかない。そしてなにより、裏切らない。古来より人類のよきパートナーとして共に歴史を刻んできただけあって、もはや人間よりも信頼できる。人間の友達はいらないからワンコたちと触れ合って暮らしていきたい、割と本気でそう思っていた。

しかし、忘れもしない高校3年の三者面談、担任の「獣医学部の現役合格は厳しいが、お前なら一浪すればいけるかもしれない」という配慮ある提案は、母の一言で片づけられた。


「浪人はさせられません」


獣医師になりたいという小学校からの夢は、このとき見事に砕け散った。

僕は僕で「じゃあ同じ大学の畜産学部にします」と答えているのだから、挫折と呼ぶにはひどくあっけない。今思えば、本気でなりたかったわけではない気もする。「動物が好きだから」の一点張りで、なんとなくこの道を志した感はある。

とはいえ、7年に渡り一応掲げてきた夢が一瞬で消えてしまったので、途方に暮れてしまった。その後も新たな目標を設定することもなく、なんの人生プランもないまま僕は大学生になってしまった。



実家から車で4時間ほどかけてやってきた大学は、なんとも開放的な場所だった。

中心部の駅からずっとずっと南下し、住宅街や公園をも通り抜けた郊外に、そのキャンパスはあった。敷地内にはさまざまな建物があり、木があり、牛舎があり、木があり、だだっ広い圃場ほじょうがあり、木があり、人はあんまりいなかった。
人気ひとけが少ないのは好都合だ。この果てしない大空と広い大地のその中で動物に関する勉強をして、いつの日か幸せを自分の腕でつかむのだ。北の大地の片隅で松山千春イズムを掲げながら、僕はキラキラのキャンパスライフに胸を膨らませた。


夢を失いながらもキラキラのキャンパスライフとなる予定だったが、その憧れは入学前に暮らし始めた学生寮によって虚しく崩れ落ちた。

まずはその外見。老朽化、というより荒廃しており、家具や設備は山賊に襲われたかと思うくらいボロッボロで、壁という壁には落書きがあった。これから住むことになる自室の壁にいたっては、「4年=神、3年=貴族、2年=平民、1年=奴隷」というありがたーい数式がしかと刻まれていた。北斗の拳の世界観である。言っておくが、これは世紀末ではなく平成後期の話だ。

この数式が示すように、実際の寮生活はゴリゴリの体育会系でガチガチの縦社会だった。
先輩の名前を把握していないといけない。先輩の名前を聞いてもいけない。挙句の果てには、普段ほとんど顔を合わせない4年生集団に呼び出され、「おれの名前を言ってみろ」と言われる始末。ほぼジャギである。名前を言えなかった同期たちは、その場でバリカンの刑に処され丸坊主になっていった。そんな無法者たちの横暴を、僕はなんとか切り抜けた。おかげで髪はふさふさのまま残った。もう一度言うが、これは世紀末ではなく平成後期の話だ。
なお、この寮は僕が3年生のときに改修され、ピカピカの綺麗な建物に生まれ変わった。この頃にはジャギたちも卒業し、世紀末はとうに終わりを告げているので安心してほしい。


しかし、寮生活を差し引いても、キラキラのキャンパスライフに手が届くことはなかっただろう。

部活動には入らずアルバイトに励むつもりだったが、寮の先輩(ジャギじゃない方のタイプ)に「なんでもいいから一つだけでも入っとけ」と言われたので、ダンスサークルに入った。理由は、ダンスに興味があったのもあるが、一番はすごくゆるっゆるな雰囲気だったから。あと、ほんのちょっとだけ「ダンスやってたら彼女の一人や二人……」という下心があったことは否定しない。

しかし、ダンスの練習というのは思いのほか地味で、時間もかかる。練習が深夜に及ぶことはザラにあったし、振り付けが完成したのが本番前日ということもめずらしくなかった。なかなか振り付けを覚えられなくて苦戦していると、「考えるな、感じろ」などとそれらしいことを言われ、結果なにも教えてくれないのでいつまで経っても上達しないこともあった。

上級生になってからは、学外のイベントや、他大学のダンスサークルとの交流も経験した。でも、「一度会ったら友達で毎日会ったら兄弟だ」とでも言いそうな陽気でオシャンティーな学生たちと、人嫌いで陰湿でアベイルを身にまとっているような僕とでは、相性がよかったとはとても思えない。実際、人づてに「ダンスサークルに『なんでこの人がいるの?』って人いるよね」と言われたことがある。かなしい。

また、“ダンスをやっている=モテる”という愚かな先入観も、僕には適用されなかった。4年間、彼女の一人もできずに終わった。

それでも、踊ることは楽しかったし、人を楽しませることには快感があった。ステージに立つことは意外と気持ちがいいもので、ある年の大学祭では、お世話になっている美容師さんが観に来てくれてすごく嬉しかった。ダンスは踊る方も観る方も楽しくなるエンターテインメントなんだと知った。


肝心の学業の方はというと、これまたクセの強いことばかりだった。

僕が所属していたのは畜産学部ということもあって、フィールドワークが多かった。1年生は、希望する研究室にかかわらず、一通りの実習が必修科目とされていた。搾乳、乗馬といったメジャーなものから、「この大学に入らなかったら一生体験することなかっただろうな」と思うようなものまでさまざまだ。

中でも印象に残っている実習が2つある。
一つは、直腸検査だ。直腸検査は、肩まである長いビニール手袋を装着してから、牛の肛門に腕を突っ込み、子宮の状態などを調べるというもの。牛の体温は人よりも2℃くらい高く、体内はめちゃくちゃ温かい。当然ながら腕はうんこまみれになるので、めちゃくちゃくさい。いかなるボディソープをもってしても、少なくとも一晩中ずっとくさい。

もう一つは、豚の屠殺とさつだ。数か月の間、毎日決まった時間に餌やりと掃除をしに行く。そして、育てた豚を殺め、ソーセージに加工しておいしくいただく。屠殺シーンがあまりにも衝撃的だったため、3日間くらいお肉が食べられず、スーパーのお肉売り場にも近づけなかった。
このような経験は、畜産学部ならではだろう。お肉はなにもないところからポンと出てくるのではない。尊い命の犠牲の上で、だれもやりたがらないことをだれかがやっているから、当たり前のように僕たちの元へ届けられているのだ。


学年が上がるたびに講義の内容もどんどん専門的になり、動物単体ではなく環境に対するアプローチに移行していった。動物に触れるような実習はだんだん減っていき、代わりにパソコンに触れる時間が増えていった。単位を取ったり落としたりしていると、いつの間にか研究室に所属する3年生になり、卒業論文を書く4年生になっていた。

卒業研究に取りかかってからは、フィールドワークとデスクワークの行ったり来たりだった。
研究テーマは、動物生態学。端的に言えば、「特定の動物が環境にどのような影響を与えているかを評価する」というものだ。落ち葉の分解度を計算したり、ツルグレン装置という道具を使って土壌中の小さな生き物を採取したり、顕微鏡で土壌動物の種類と数を調べたりした。
担当教官は厳しい人だったので、卒業論文は事細かにチェックされた。「この文章は冗長」だの「この表現は稚拙」だの「日本語としておかしい」だの、冷酷無比とはこのことである。僕は半べそになりながら、自席でキーボードを叩いた。

卒業式の後、担当教官から餞別の言葉をいただいた。「君は現代人にしてはめずらしいくらい誠実だから、そこはずっと大切にしてほしい」と言われ目頭が熱くなったが、その後の「そして早く人生の伴侶を見つけないとね!」で涙は完全に引っ込んだ。余計なお世話です。

決して楽な学業ではなかったが、苦楽をともにした友人ができたし、同期や先輩・後輩とも割と仲良くやれたとは思う。



こうして振り返ってみると、本当に大変なことだらけの大学生活だったと思う。
寮長になったことで寮生約200人の代表として学務課と協議したり、飲み会で記憶をなくすくらいお酒を飲んだり、好きな女の子にフラれたり、研究室に行かなすぎて担当教官から怒りの電話が来たり、自称OBの酔っぱらったおっさんに理不尽な説教をされたり。半分は自業自得だけれど、もう半分は貧乏くじを引いてきた。

今、これらの経験が生かせているかというと、直接的な恩恵はなに一つない。波瀾万丈なこの4年間は、おそろしく無駄に見える。

しかし、そんなことは決してない。

寮に住んでいたから、上下関係の厳しさに順応できた。先輩に対しても友達感覚だった中学・高校時代とは大きく違い、寮はかなり厳しくて理不尽なこともたくさんあった。その結果、社会人になってからの上司や先輩、目上の人とのコミュニケーションで注意されたことはほとんどない。それに、ジャギたちを反面教師にしていたから、後輩には優しくしようと心がけた。

ダンスをやっていたから、宴会芸には事欠かなかった。特に、新卒で入り10年ほど勤めた町役場の職員時代は、地域のイベントなどで踊ったことで、住民の皆さんに顔を覚えてもらえた。それが功を奏して、仕事がやりやすくなったこともある。

大学で学んだことは、専門的な内容だから共通の話題にはあまりならない。でも、だからこそ、自分のやってきたことはほかの人にとって新鮮で、トークのネタになった。論文の鬼添削のおかげで、読み手に誤読させないよう配慮した文章の書き方も身につけた。


それに、寮やサークル、研究室やバイト先など、さまざまな場所でいろいろな人たちに出会い、人のつながりが増えていった。

1年生の初めに紹介してもらった美容師さんとは、今も交流がある。その人が店を変えるたびに僕も店を変えてきたので、17年間ずっと同じ人に髪を切ってもらっていることになる。メンタルが弱っていた時期には明るく励ましてもらったこともあり、彼女の存在はとても大きい。実家暮らしの今も、片道4時間かけて車を運転し、定期的に散髪してもらっている。

そしてなにより、親友と呼べる友人たちができた。初めは「目つき悪くて怖いな」とか「授業中にめっちゃしゃべっててうるせーな」とかそんな印象だったのだが、気づけば今でも定期的に会う仲になっていた。

そのうちの一人は、僕が仕事のストレスでパニック障害を患ったとき、特に支えとなってくれた。だれにも相談できなかった僕は、友人の結婚式で久しぶりに再会した彼に「大丈夫か?」と心配されるほどやつれていた。式の後、彼の家に泊まらせてもらうことになり、悩みを打ち明けた。そのとき彼が言ってくれた「薄っぺらい関係じゃないんだから、いつでも話を聞くよ」という言葉が忘れられない。その言葉は、メンタルクリニックに通うほど憔悴していた僕の心に、じわっと沁み込んだ。友の優しさに、思わず涙がこぼれた。こいつが友達で本当によかった。


気づけば、僕はたくさんの人と関わって生きてきた。人はだれかを頼り、だれかに頼られながら生きている。ときには迷惑をかけたり傷つけ合ったりもするけれど、自分一人では生きていけない。そんな当たり前のことを、僕はハタチを過ぎてやっと気づいた。そしてこのような人のつながりは、いつの間にか人嫌いな僕をして「人も悪くないかも」と思わせた。

獣医師になる夢は、大学を卒業する頃にはどうでもよくなっていた。動物は今でも好きだが、動物だけと触れ合っていたいとは思わなくなった。それはたぶん、人と関わっていったことで、人を少しだけ好きになったからなのかもしれない。

また、人と交流することへの抵抗も減り、以前に比べるとかなり社交的になったと思う。
最たる例がnoteだ。作品を読んでコメントすることから始まり、今やリモートで直接話すこともある。さらに今年の4月にはオフ会を自ら開催し、初めて名古屋まで飛んでいった。学生時代の僕には考えられない行動力だ。

畜産学部でのあの4年間は、なにも得られなかったように見えて、たくさんの一期一会をくれた。その出会いの軌跡が、今の僕へと確かに続いている。夢は叶わなかったけれど、より大切なものを僕は手に入れた。


人に傷つけられてきた僕は、気づけば人に救われてもいた。
決してキラキラしていない人生だけれど、人とのつながりに光を見出せたなら、無駄なことなんて一つもなかったんじゃないだろうか。


(おしまい)


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