痩せた背中に手をのせて
今日、父を病院へ連れていった。
父は呼吸器を患っており、定期的に通院する必要がある。いつもなら自分一人で運転していくのだが、昨夜から体調が悪く、とても運転できる状態ではなかった。だから母と僕が付き添い、3人で病院へ向かった。
診察といくつかの検査を終え、薬をもらって帰ってきたものの、父の容態は芳しくない。喉に痰が絡み、うまく呼吸ができないらしい。不整脈もあり、見るに忍びないほど苦しそうだ。齢七十の体は、声なき悲鳴を上げていた。
ソファに横たわる父。その姿を見るたびに、呼吸が止まっていないか確認するようになったのは、いつからだろうか。少しでも動きがあっただけで、心の底から安堵する。逆にいえば、毎日が心配の嵐とも捉えられるが。
4年前の、今くらいの時期だったと思う。
父は肺炎を患い、一時は危篤状態にまで陥った。当時の僕は地元を離れて暮らしていたので、このことを知ったのは父が峠を越えた後だった。
とある月曜の夜。いつものように残業をしてから帰宅すると、家に着くや否や母から電話がかかってきた。
「お父さんがね、肺炎になっちゃって。入院して手術もしたの。先週末は危険な状態だったんだけど、とりあえず今は落ち着いてる。退院の目途はまだ立ってないけどね」
心なしか、母の声にも元気がない。相当ショックだったろうし、手続きやなにやらで心身ともに疲れ切っていたのだろう。くたびれたような声で母は続けた。
「一応、あんたにも伝えておこうと思ってね。でも、もう大丈夫だと思うから。それでね、できればでいいんだけど、次の休みにでもお見舞いに来られないかい?」
息子に心配をかけまいとする親心。それはそれでありがたいことではあったが、僕は語気を強めて母に返した。
「次の休みまで大丈夫な保証はないじゃん。明日仕事休んで行くから」
予想外の返答に「そうかい?なら一緒に行こうね」と答えた母は、申し訳ないような、それでいて少しうれしいような、そんな様子だった。
このときの心境はよく覚えている。なにか嫌な予感がしたのだ。
次の休みは土曜日だったが、もしそれまでの4日間で父になにかあったら?容態が急変したら?最悪の事態になってしまったら?
当時の僕は、年末年始とゴールデンウィークくらいしか帰省しなかったので、直近で父と会ったのは4か月前だ。それが最後になるなんて、絶対に嫌だった。絶対に後悔したくなかった。だから、すぐにお見舞いに行くことを決めたのだ。
母との電話を切った直後、僕は上司に連絡した。ありがたいことに、上司は事情を理解してくれて、2日間の有休を認めてくれた。
翌朝、出発前に神社に寄り、父に贈る健康祈願の御守りを買った。自分にできることはそれくらいしか思い浮かばなかったが、なにもしないよりはマシだ。子宝に恵まれることで有名な神社なのだから無病息災のご利益もあるだろうと、都合のいい解釈をしながら願いを込める。
そして、降りしきる大雨の中、片道5時間かけて車を走らせた。
実家で母と合流し、母の運転で病院へ。雨はまだザァザァと降っている。
病室に入ると、見覚えのある、それでいて見たことのないような、痩せこけた老人がいた。
素直じゃない父のことだから、お見舞いに来ても「あら、来たの」と軽口を叩かれると思っていた。しかし、その老人は絞り出すような声で、
「ごめんな」
と言った。
こんなに弱弱しい父を見たのは初めてだった。
込み上げる気持ちを抑え、僕は神社で買った御守りを父の手のひらに置いた。かつて僕を抱き、時には僕を殴った太くてたくましい手は、今や見る影もない。「ありがとう」の一言もしおらしく、それが却って不憫に思えた。
面会の終了時間が近かったので、少し話して帰ることになった。帰り際、僕は思わず父の背中に手をのせ、「またね」と言った。
「父の背中は大きい」というフレーズは、だれもが耳にしたことがあるだろう。しかし、僕が手をのせたその背中は、お世辞にも大きいとは言えず、骨ばった弱き者のそれだった。
絶対にこれで最後にしたくない。白くて小さな御守りに願いを込めて、母と二人だけで実家に帰った。
雨は、いつの間にか止んでいた。
一夜が明け、少し心残りを感じながらも、僕は自分の拠点へと戻った。
そして夜。その日も父のお見舞いに行った母から、連絡があった。
父は入院中に簡単な日記を書いているらしく、昨日の日記にはこう書いてあったそうだ。
「アルロンが来てくれてうれしかった」
駆けつけてよかった。本当によかった。
正直、2日間も空けられるほど仕事に余裕はなかった。それでも二つ返事で送り出してくれた上司には、心の底から感謝したい。
そして、いつもは優柔不断だけど、即断即決で父の元へ向かった自分自身を褒めてやりたい。母と通話したときに感じた嫌な予感は幸いにもはずれたが、あのときの決断次第では二度と父に会えなくなっていたかもしれない。そう思うと、本当に、本当に、駆けつけてよかった。
リビングのソファで、父が眠っている。依然として苦しそうではあるが、呼吸はしているようだ。
この痩せた背中が命の鼓動を続けるのを、どうかもう少しだけ見届けさせてほしい。そう願わずにはいられなかった。
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なんと アルロンが おきあがり
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