望んで獲た自由なのに~「緑の光線」
ふだんは動画配信を中心に映画を観ているのだが、配信されていない名画というものがある。
ジブリ、北野武などがそうだが、エリック・ロメール監督の作品もなかなかない。
かつて映画館でみた彼の作品、とても胸を打たれたという記憶からずっと上映を探していたのだが、ついに念願果たすことができた!
1986年公開「緑の光線」
本作は、実に不思議な映画である。観ているこちらがいたたまれなくなるような会話や場面が延々と続く。
主人公デルフィーヌは旅先で人とうまく打ち解けられず、誘いを断り、空気を読めず、ついには涙を流してしまう。その姿は気の毒というより、「そこまでやるか」と思わず苦笑してしまうほどだ。しかし、日常を振り返れば、この作品ほど極端ではなくとも、似たような気まずさや居心地の悪さを感じる場面は決して少なくない。
ロメールは、その「いたたまれなさ」を執拗なまでに積み重ねる。普通の映画なら途中で救いを与えたり、観客が安心できる展開を用意したりするものだが、本作はぎりぎりまでそれを拒む。それなのに最後まで目が離せないのだから、実に巧妙な演出である。
タイトルにもなっている「緑の光線」が現れるのはラストになってから。
劇中では「緑の光線を見た者は、人の心を見誤らなくなる」という伝説が語られ、デルフィーヌは見事緑の光線を目にして歓喜する。そこで物語は幕を下ろすのだが、あれでデルフィーヌの人生が好転するとは思えない。むしろ、あれほど繊細で思い詰めやすい彼女なら、人の本心が見えてしまうことで、かえって苦しみが増すのではないか。エンディングの音楽も決して晴れやかなものではなく、「救済」というより、新たな人生の入口に立っただけという印象を受けた。
本作を観ながら考えたのは、1980年代という時代である。
男性も女性も「自立」や「自由」が叫ばれ始め、従来の価値観から解放されつつあった時代。その自由は喜ばしい反面、それまで社会や共同体が引き受けていた責任までも、自分自身が背負うことを意味していた。
デルフィーヌは自由である。誰にも縛られていない。しかし、それゆえに自分の価値を保証してくれるものもない。だからこそ彼女は、自分の居場所を見失い、「私はここにいていいのか」という問いを突きつけられ、涙を流したのではないだろうか。
このテーマは、四十年後の現代にこそ、より切実に響く。多様性や自由が尊重される一方で、人生の選択もその結果も、すべて自己責任として引き受けなければならない社会。居場所を見つけられず、自分の価値を見失う人は決して少なくない。
『緑の光線』は恋愛映画というより、「自由の時代に生きる個人」の孤独を描いた作品だった。観終えた後に残る居心地の悪さは、デルフィーヌだけのものではなく、現代を生きる私たち自身の姿でもあるのかもしれない。
