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生きろ。そなたは美しい。

所謂、鍵っ子だった。

「今日のビデオは何がいい?」そう言って父がビデオデッキにビデオをセットすると、「あぁ、お留守番だな」とわかるくらいの年齢だった。何がいい、と言われても、ジブリ作品とアルプスの少女ハイジシリーズしかない。今はもう、見すぎて擦り切れてしまっているかもしれない。それほどに、過言ではなく徳間書店に育てられた。

保育園の送り迎えは、いつも朝1番最初に園に着き、お迎えは夕方1番遅くだった。小学生の頃は家に「ただいま」と帰っても誰もいなかった。

ひとりの時間が、多かった。

だけど、お留守番も不思議と寂しさはなかった。幼児にとってジブリ作品一本分の2時間半は、まるで3日間くらいの時間感覚に相当した。ビデオをみている間は、確かにものがたりのそっち側の世界にいたんだと思う。ひとりという感覚はなかったし、ものがたりにのめり込みすぎてしばらくこっち側に帰って来れない時もあったから。

だけど、よくわかってもいなかった。

ものがたりの意味は半分も理解できなくとも、なぜかのめり込んだ。心がざわざわする。

「大人になってから見返して、ようやく作品の意味がわかった。」という感想が散見しているように、まだうまく、考察することができない年齢の子どもに、あの作品は難しすぎると思う。

だけど、宮崎駿はそんなの百も承知で、子どもが半分も作品の意味を理解できない作品をあえて子どもに向けて作る。全部理解させる気なんて、さらさらないんだと思う。

だってジブリ作品は、平気で大人が子どもに教えたくないような、人間同士の醜い争いだったり、世界はもしかしたら平和にはなれないのかもしれないっていう絶望だったり、人は簡単に死ぬっていう残酷さだったりを描いてしまう。もののけ姫では人の腕や首が吹っ飛んでいくシーンがあまりにも多く登場するし、ナウシカだって簡単に人が人に、人が動物に銃をむけ、いとも簡単に殺し合いが始まる。そんなの普通子どもがみたらトラウマになったっていい。

だけど、彼はそんな作品をつくりつづける。
壮大なテーマの中に、あえてきれいごとはみせない。

大人だって解決できない問題を子どもに向けてアニメをつくる宮崎駿は、ちょっとずるい。

だけど、そのずるさで、それを見た子どもは大人になるまでずっとずっと考える。「これでいいのか」と。

ずっと引きずる。そして、やっぱり意味がわからなくなって、もう一度みたりする。そうやって、皆の人生の節々で、ずっと語りかけてくる。

この自然界で、人間が自然と共存して生きていくにはどうしたらいいのか。どうしたら人間同士、争わなくなるのか。どうしたら人の痛みを受け入れられるのか。死ぬことを、受け入れられるのか。

私も、ずっと考えている。

上京のために引っ越しをした時に整理して出てきた、私のいろいろな恥ずかしい歴史がそれを物語っていた。

3〜4歳の頃クレヨンで描いていた自由帳のはしっこに、どこで覚えたのかわからない鏡文字のまじったひらがなで「しぜんをまもりたい」とかいてあるのをみつけた。

完全に宮崎駿に感化されている。

俗に厨二病と呼ばれるような黒歴史時代に書いた小説の一節に、「唯一感情を言語化し相手に伝えることができる人間という生物の成れの果てが、自分たちで何千年と築いてきた言葉の文化すら駆使できず武力に頼り戦争をするなんて」という言葉があった。

戦争や核兵器開発や環境破壊が進みすぎて、地球に住めなくなった人間が、月に移住しようという計画を立てる話だ。宇宙のことを考えるのが好きだった少年が、「月に行ってもそこに住むのは結局人間。同じようにまた戦争がはじまって、月も破壊する未来を作ってしまう。終わるなら地球だけで十分だ。もうこれ以上、星を、宇宙を、傷つけないで。こんな人間たちの歴史はここで終わりにしなければならない。」と、月移住計画を阻止するために奮闘する。

この話を小説にすることが夢だった。

テーマを壮大にしすぎて、中学3年間かけても書けなかった。途中で挫折した。そのかけらが残っていた。キャンパスノート半分ほどのものがたり。

私も、ずっと、ジブリとともに考えているんだ。
この地球で、生きていく意味を。
きっと答えなんて出せないんだろうけど。

それでも宮崎駿は、人間を悪くは言わない。

「生きろ」という。

どの作品のテーマの根元にも、生きろという強いメッセージが込められている。

だからまたわからなくなる。
だから考える。

それは、この星で、考えて行動できるのが、やっぱり人間だけだからなのかなと思う。

いつの間にかこの地球上には国ができた。
言葉ができた。
文化ができた。
人間は、様々な考え方ができるようになった。

その、どの国に生まれてもおかしくなかったけれど、私は、たまたま日本に生まれた。
他の先進国に比べ、自由に未来を探せる国だと思う。
どうにでもなれる国だとも思う。
なんでも言える、なんでも考えられる、なんでも行える珍しい国だと思う。
だけど、今私たちが生きるこの国は、学ぶことを放棄してもそれなりに生きていける。学ぶ環境や時間は与えられているけれど、それをしないという選択すら、自由にできる。

本気で死ぬことに対する恐怖があまりない。
戦争がない。
病気で人が死ぬ映画が称賛される。
死が時折美しかったりもする。

政治に興味がない人すら平気で口にする「まぁ教育制度が変わらない限りだめだな」という決まり文句のような諦めの台詞。
何年もそんな同じ言葉を聞いてきた。
この国の教育制度が悪いと言えば、だって政治家が悪いと言われる。
政治家が悪いという人たちの何割が実際に政治を語れるほど勉強しているのだろう。
北朝鮮や中国をばかにする何割の人が、彼らよりも国を良くしたいと本気で願っているだろう。
韓国人の半日運動を毛嫌いする何割の人が、彼らよりも歴史について学んだのだろう。
実際に政治家になる人なんか一握りだ。
実際に選挙に行く人も少ない。
だけどその一握りの中の、さらに一握りの、問題を起こした政治家を筆頭に、政治家全員が批判される。
この国を良くしたいと思う人がいて、行動しようとしていて、だけど、たいして興味もない国民にバカにされてしまう日本の国会だ。

こんなにまとまりがなくて、自由で、平和ぼけしていて、それなのになぜ、この日本という国はアジアトップの地位を誇り続けながら、ずっと平和で自由なままでいられるのだろう。

こんなことを定期的に考えてしまうから、
「感受性が強い子ね」と、昔からよく言われた。
自分ではあまり意識していなかった。

だけど、小学生の頃、国語の授業で、「好きな詩をひとつ選び朗読しなさい」という課題が出た時に、私が選んだ作品が、茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」という詩だった。

言いたいことがまとまらない時、
言葉にならない感情に気持ちが落ち着かなくなる時、
心の中で思い出す。

このnoteの終わらせ方がわからなくなってしまった。起承転結のない文だけど、これが今日の私のありのままだ。


"自分の感受性くらい"    茨木のり子
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ


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meme 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 このnoteが、あなたの人生のどこか一部になれたなら。