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「ギターソロ不要論」をいまさら語る

話題としては旬を過ぎた感じがしますが、少し前に若者がギターソロをスキップして聴くということが話題になりました。

僕の身の回りにギタリストが多いせいもあるでしょうが、それに対する世間の反応はどちらかというと反発するものが多かったように思います。

僕は天邪鬼なので、何事によらず世間がわーっと加熱すると一歩引いてしまいます。そのため当時はあまり突っ込んだことを言いませんでした。ほとぼりが冷めたようなので今更ながら触れたんです、というのは冗談です。


いずれにしても、ギターソロスキップけしからん!と目くじら立てる世間にはどことなく違和感を持っていて、それってタブレットが普及したことでノートをとらなくなった学生を怒るのと似てる。手で書いたほうが覚えるんだ!と力説するのと、ギターソロには魂がこもってるもんなの!と熱く語るのは、似ています。

スマホもパソコンもない時代に手でノートをとっていた人々は、それが自分たちにとってのスタンダードなので、新たなスタンダードに取って代わられることを恐れます。ギターソロも同じで、ハードロックを聴いて育った人にとってギターソロという存在は、空気がそこにあるよりも当たり前で、元日に拝む初日の出よりも神聖なものなので、そのスタンダードが失われることを恐れます。


つまり、立場と好みの問題だということです。


僕は海鮮丼のイクラをよけて食べますし、弁当を買ったら唐揚げの下に敷いてある微量のパスタを邪魔に感じます。でも、世の中にはそのパスタを作ってくれる人もいるし、イクラの生産者さんだっています。残すなんてけしからんというのはごもっともなんですが、僕はイクラが苦手だし、唐揚げが食べたくて唐揚げ弁当を買うのでパスタは正直なところ不要です。だからって生産者さんや調理してくれた人を軽んじているわけではありません。

イクラの生産者とイクラ苦手な僕が「イクラは美味しい」という話し合いをするのは困難です。参加者にイクラ苦手が含まれている以上、強引な手段をつかわずにそれを美味しいという結論に持っていくのは難しいからです。イクラが美味しいという話をしたいなら、イクラ好きとイクラ生産者で語っていれば、いくらでも出来ます(イクラだけに)。


同じことをギターソロで語ることにどれほどの意味があるのか?というのはクリエイターとして単純に疑問なところなのです。つまり、ギターソロ愛好家やハードロックファンが集まってギターソロって素晴らしい!という話で盛り上がるのは、そりゃ楽しいに決まってますが、新しいものづくりをするという観点で見たときに、果たしてそこから何かが生まれるのだろうかというのは疑問です。


ギターソロの存在しない曲、もっと言えばギターが主役ではない曲作りをギタリストとしてどう考えるかということにこそ、意味があります。そりゃあ、作った以上はスキップしてほしくないのは当たり前だし逆に言うとスキップされないようなギターを弾くことが我々の勝負でもあるのですが、自分たちと異なる常識を持つ人々に出会ったときに、自分とは異なるからという理由で排除するのは自ら可能性の芽を摘む自爆行為に近いとすら思います。

そしてそれはそもそも年齢によるものではなくむしろ生き方やスタンスの問題です。表現をする時点で、自分の表現が否定される可能性には常に晒される覚悟が必要ですし、たとえ自分の表現が否定されても誰かの表現を否定しない勇気も同じように必要なのです。


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