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奈良市とは? #185 福智院…日本史で誰も理解できないこと!

 この疑問には、どの学者も答えていない気がします。
 知識を積み重ねても、人の心に到着できていないと
 思います。

福智院の前で足を止めた


奈良公園から奈良市街地に連なる高畑エリア、ならまちの東端で、柳生街道から奈良への入り口にあるお寺。この辺りから少し南側で暮らす人には、バス停の名前として日々耳にします。民家と馴染んで、いつも見る当たり前の街並み。

今朝ランニングをしていて、ふと通りかかりました。珍しくもないけれど、今朝はなぜか門前で止まって、よく見るこの画像を撮ってみました。

中には大きなお地蔵様と、秘仏が祀られています。

玄昉が建立しました。

奈良時代の一番のトピックスは、聖武天皇のときに大仏を作って開眼した、ということだと思います。仏教で国を平穏に…という願いが具現化されたものです。
この頃の日本は、仏教による国づくりを目指していて、遣唐使船に同乗して帰国した玄昉は、吉備真備、橘諸兄と共に朝廷の中心に。

いつの時代でも、どこの国でも、宗教者が政治的な影響力を持つということは普通にあります。しかし、なぜか玄昉は日本史上の悪僧のひとりに挙げられています。

福智院は、その玄昉が建てたお寺です。

権力者の思い

聖武天皇は災厄や不作が続く世の中を、仏教によって安定させたいと考えていたのは間違いなく、決して権力を誇示するために大仏を建立したのではないはず。

一方、玄昉。
先にも書いた通り、政治に関与したがゆえに悪僧のひとりとされています。天皇のように生まれながらの権力者ではなかった彼は、仏教を武器として権力に近づきたかったのか、ある程度の高官になって収入を増やしていい生活をしたかったのか、はたまた聖武天皇と同じ崇高な思いだったのか。もしも権力が欲しかったというだけならば、あまりにもつまらない僧侶。何をしたかったのだろう…

東大寺二月堂から見た奈良の街並み

話は飛びますが…

例えば戦国時代、戦国大名たちはみんな天下を我が物にしたくて、隣の大名といがみ合う、争い合う。学校ではそんな風に習いましたが、ほんとうにそうだったのか?何のために隣の領地へ侵略するのか?
徳川家康は、遠離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)という願いを心に戦国時代を生きたとされていて、権力者になることは、争いのない平和な社会を実現することの手段だった、というような解釈があります。

飛鳥時代の物部氏と争った蘇我氏、
それを倒した天智天皇、
奈良時代に長屋王を排斥した藤原氏、
武家として初めて権力者になった平氏、
それを倒した源氏、
武家から政治を取り戻そうとした皇族(後醍醐天皇)、それを許さず将軍家となった足利氏、
守護大名から争いに転じた戦国大名たち。
戦国大名の中で勝ち続けた織田信長、
その家臣からのし上がった豊臣秀吉、
そして江戸時代を作った徳川家康。

江戸時代のなかでも細かな権力闘争は幾つもあって、将軍の跡継ぎ争いや、老中職同士の争いごと。

みんな、天下を取って何が目的だったのか?

玄昉、その後

玄昉は政治権力の主導権争いのあと、大宰府で建設していたお寺へ赴任(実質、左遷か?)し、数年も経たないうちになくなった…権力争いの遺恨が祟りとなって、玄昉を空に引き上げバラバラにして葬った、という伝説があるようです。

その時に首だけがその場で見つからず、それが福智院からほど近いところ(200〜300メートルほどで、徒歩5分ほど)に落ちて…それが頭塔として伝えられている、と。
首だけが里帰りした、という奇妙な伝説。

頭塔。東大寺の史料では別の由来が記載されています。
頭塔が玄昉伝説に関係あるとすれば、肘塚町の由来もまさか…

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