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型にはめすぎると、人の余白がなくなるんじゃないかな

その「すべき」は、誰のためのコストなんだろう

たまに、仕事や制作の現場で思うことがある。

「そのスケール感で、わざわざそれをする価値ってなんなんだろう」と。

もちろん、ちゃんと考えることは大事だと思う。
言語化することも大事だし、仕組みにすることも、型にすることも、必要な場面はたくさんある。

でも一方で、なんでもかんでも型にはめようとしたり、されたりすると、急にめんどくさくなる瞬間がある。

本来は、物事を進めやすくするための型だったはずなのに、いつの間にか、型を守ること自体が目的になっているような感じ。

「それ、今この人数でやる必要ある?」
「そこまで全員に理解してもらう必要ある?」
「その確認、本当に必要?」
「結局、誰のためのプロセスなんだろう?」

そんなことを、ぼんやり考えることが増えた。

人の意識が変わるには、時間がかかる。
何かに気づくまでには、すごく長い時間がある。
潜在的に感じていた違和感が、少しずつ表に出てくる。
「あ、そういうことだったのか」と自分の中でつながるまでには、ジワジワとした時間が必要だったりする。

それを短くするために、型にする。
フレームワークにする。
チェックリストにする。
共有資料にする。

それはたしかに効率がいい。

知っている人と知らない人では、パフォーマンスも変わる。
共通言語があるだけで、話が早くなることもある。
だから、型そのものを否定したいわけではない。

むしろ、型にはかなり助けられている。

ただ、最近思うのは、型にすることと、人を巻き込むことは別の話なんじゃないかということ。

ある人が、自分の中で何かを深く理解したい。
そのために整理する。
言語化する。
型にする。

それはとてもいいことだと思う。

でも、それを他者にまで広げた瞬間に、話が変わる。

自分の中で完結していた思考が、誰かに説明する対象になる。
誰かの確認が必要になる。
誰かの理解を待つ必要が出てくる。
誰かの納得を得るために、さらに資料を作ることになる。

その結果、本人は「すごく整理できた」と感じている。
でも、周りの人は「で、何がどうなるの?」となっている。

このズレは、けっこう現場で起きている気がする。

特に、もう判断して行動するだけのフェーズにいる人まで巻き込むと、確認タスクがどんどん増えていく。

本当は、動けばよかっただけかもしれない。
任せればよかっただけかもしれない。
小さく試せばよかっただけかもしれない。

でも、そこに「全員で理解しよう」「ちゃんと整理しよう」「共通認識を作ろう」が入りすぎると、物事が重くなる。

なるべくコストをかけたくない。
この場合のコストは、単にお金だけではない。

  • 時間

  • 費用

  • 精神的ストレス

  • 肉体的ストレス

  • 学習

  • 説明

  • 確認

  • 判断

  • 関係性

  • 続ける負担

こういうもの全部を含んでいる。
特に見えにくいのは、説明、確認、判断、関係性あたりだと思う。

説明するには、言葉を選ばないといけない。
確認するには、相手の反応を待たないといけない。
判断するには、責任の所在を考えないといけない。
関係性を壊さないためには、言い方にも気を遣わないといけない。

たったひとつの「ちゃんとやりましょう」が、実はけっこう重い。
そして、その「ちゃんと」の中には、よく「義務」とか「すべき」が混ざっている。

やるべき。
共有すべき。
確認すべき。
言語化すべき。
合意形成すべき。
仕組みにすべき。

たしかに、そのほうがいい場面もある。
でも、その「すべき」は、誰にとってのものなんだろう。

成果のためなのか。
相手のためなのか。
現場のためなのか。
それとも、誰かの不安を減らすためなのか。
誰かが「ちゃんと考えた」と思いたいためなのか。

ここを間違えると、型は人を助けるものではなく、人を縛るものになってしまう。

たとえば、小さなチームや小さな現場で、理念やビジョンを共有する時間が作られることがある。

これから何を大事にしていくのか。
どんな姿勢で仕事をしていくのか。
自分たちは何を目指しているのか。

そういうことを言葉にすること自体は、とても大事だと思う。
でも、そこに関わる人全員を同じ深さで巻き込もうとした瞬間に、少し重たくなることがある。

その場では、いい話だった、熱量があった、ちゃんとしている、という空気になるかもしれない。
でも、それが本当に一人ひとりの行動や判断にまで染み込むかというと、そう簡単ではない気もする。

共有することと、背負わせることは違う。

その人に必要なのは、理念そのものを深く抱えることではなく、日々の仕事で判断がズレない程度に、大事にしていることを知ることなのかもしれない。

誰を、どの深さまで、何のために巻き込むのか。

ここを間違えると、よかれと思って作った場が、誰かにとっては少し重たい時間になる。

最近、少しだけ「昭和がええわ」みたいな気持ちになることがある。

もちろん、本気で昔に戻りたいわけではない。
昭和的な理不尽も、説明不足も、根性論も、謎の上下関係も、別に欲しくはない。

ただ、あの頃っぽい雑さの中には、今より少しだけ余白があったのかもしれないとも思う。

「まあ、ええ感じにやっといて」
「そこは任せるわ」
「一回やってみよか」
「細かいことは後で考えよ」

こういう言葉には、危うさもあるけれど、同時に、人を信じている感じもある。

ただ、任せられた側にも技術がいる。

相手がそれ以上の言葉を持っていないこともある。
完成イメージがない。
何を決めればいいのかもわからない。
どこを先に潰しておけばいいのかも見えていない。

だから結果として、「まあ、ええ感じに」という言葉になる。

それを単なる丸投げと受け取るのか。
それとも、まだ形になっていないものを預かったと受け取るのか。

ここで仕事の質が変わる気がする。

任せられたなら、その曖昧さを具現化し、仕事として成立する形に変える。

そして、それはサービス精神だけで引き受けるものでもない気がする。

相手が言葉にできない。完成形をイメージできない。
先に潰しておくべきことが見えていない。

だとしたら、それを翻訳して、整理して、判断できる形にするところまで含めて、こちらの仕事なのかもしれない。

だったら、その時間や思考も、ちゃんと仕事化して、見積りに含めていい

「曖昧に任されたものを、成立する形に変える」ことは、ただの親切ではなく、設計であり、ディレクションであり、価値のある仕事だと思う。

今は、何かを守るために、どんどん言語化されていく。
何かを間違えないために、どんどん確認が増えていく。
誰かが傷つかないように、どんどん手続きが増えていく。

それは必要なことでもある。

でも、その結果として、動くことそのものが重くなっている場面もある。

型は必要。
でも、型に人間を合わせすぎると、現場の勘や余白がなくなる。

そんな感覚がある。

結局、考えたいことは、型が良いか悪いかではないのかもしれない。

型にすることで、誰かが動きやすくなるならいい。
説明が減るならいい。
判断が軽くなるならいい。
次の人が助かるならいい。

でも、型にすることで、説明が増える。
確認が増える。
関係性が重くなる。
続ける負担が増える。
誰かが動きにくくなる。

そうなっているなら、一度立ち止まってもいいのかもしれない。

その型は、人を自由にするためのものなのか。
それとも、人を管理するためのものなのか。

その「すべき」は、成果のためなのか。
それとも、誰かの不安を処理するためのものなのか。

小さな現場に、大きすぎる納得プロセスを持ち込んでいないか。

最近、そんなことを考えている。

答えはまだない。
たぶん、ケースバイケースなんだと思う。

でも少なくとも、何かを「ちゃんとやる」前に、
その「ちゃんと」によって誰のコストが増えるのかは、見ておきたい。

型は、人を縛るためではなく、動きやすくするためにある。

そして、曖昧さをただ否定するのではなく、
任せられた曖昧さを、仕事として成立する形に変えられる人でありたい。

いろいろ考えて、試してみた結果、こんなふうに思ってる。

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