二ヶ領用水最果て探索紀行【中編】:久地駅前~二子五丁目
動画もアップしています。よかったらぜひ。
刃傷沙汰も起こった久地の横土手。
さて、前編からの続き。
久地の合流点を過ぎ、二ヶ領用水の川幅は増す。
しかし、久地駅前を過ぎると、これまでのような気の利いた遊歩道が設置された道はなくなり、コンクリートで護岸工事された無機質な用水路が続く。
地名も多摩区から高津区になっている。
街づくりの差を感じさせる。

そんなことを考えつつ、しばし歩くと、小さな祠の脇に川崎歴史ガイドの案内板がある。
「久地の横土手」。
祠を覗いてみると小さな馬頭観音がぬいぐるみに囲まれながら鎮座している。馬の神様、道の神様、交通安全の仏様、として崇拝される馬頭観音。
今日でも祈りをささげる人はいるのかもしれない。

ところで、二ヶ領用水に関係するのは久地の横土手である。
上を道路が通っているのでわかりづらいけれど、流れを見るとほぼ直角に二度曲がっている。
これが横土手の跡なのだろう。

案内看板にはこうある。
「多摩川に対して直角に作られた横土手。江戸時代、洪水時の水勢を弱める目的で作られた。この横土手を挟んで利害の対立が激しく、工事は約300m進んだところで中断された。」
後々調べたところによれば、この横土手を巡る利害対立はかなり激しかったようだ。
下流の村(溝口や二子)は洪水被害が軽減される一方、上流の村(堰村)は逆に水害にあう可能性が高まる。
死活問題である。
だから上流の村に雇われた侍が工事人を斬る時代にまで発展した。
そうして現代まで残されたのが、この未完の治水工事跡だった。
水をどう分けるべきか?:久地分量樋と久地円筒分水
しばらく歩けば、治水工事界の大スター、久地円筒分水が見えるはずである。特徴的な都市遺構として有名なのだ。
そのちょっと手前、二ヶ領用水「久地分量樋」跡、という石碑がぽつんと立っていた。
用水路を見ても今日何の跡形もない。
この分量樋は江戸時代中期に田中休愚によって作られた。
二ヶ領用水の流れに対して、比較的単純に区切りをつける方式だったらしい。しかし、それだと分水の量は不安定だし、洪水の原因にもなるとのことで、久地円筒分水が作られたことによって廃止されたのである。

そして、そこから約3分くらい歩けば、今日でも現役の治水設備、久地円筒分水が見える。
二重の円筒がせり出しており、そこから水があふれだしている。
見る人が見れば、半日でも時間をつぶせる面白スポットらしい。
周囲は公園のようになっており、人が行き交うが円筒分水を眺めている人はいない。

近づいてみる。
国の有形文化財に指定されているとのこと。
流れてくる水の量が変わっても、分水される水の量の比率は変わらない、大変優れた仕組みらしい。
サイフォンの原理で動いていて……と言われても、ちょっとよくわからないが、二ヶ領用水は一度地下に潜って円筒分水の下から噴き出してくる……ということなんだと思う。
そこから二ヶ領用水は四つの堀に分水されていく。
それにしても、不思議な光景である。
住宅街の真ん中に、古代遺跡みたいな(実際は昭和初期のものだけれど)遺産がぽっかりと残されている。ちょっとファンタジーである。
溝口水騒動と川崎堀
久地円筒分水を過ぎ、一番水の流れがある堀を歩いていく。
実質的に二ヶ領用水の本流、川崎堀である。
今日、この川崎堀以外は暗渠になっているとのこと。

住宅街の裏を縫うように流れていく。
国道246号線を越えると、また用水脇に桜並木が整備され、散歩する人も増えてくる。
このあたりから溝口の町らしい。
大石橋というちょっと瀟洒な橋がある。
ここで二ヶ領用水は大山街道と交わり、この大石橋周辺は二子宿としてさかえていたとのこと。
かつては橋ももっと立派だったらしい。

ところで、ここで二ヶ領用水をめぐって起きた最大規模の騒動、その名も溝口水騒動の存在を知る。
なんでも1821年(文政4年)の渇水の折、堰を高くして水を独り占めしようとした溝口村の名主の家が、下流の農民によって打ちこわしにあったらしい。
それは当時の一大事件だったらしく、数多くの史料が残っている。
治水の失敗≒暴力沙汰になるわけだから、二ヶ領用水にこれだけの工事跡が残っているのも頷けるなあ、と思う。
さて、溝口の町を抜け、二子五丁目にある二子塚橋にやってきた。
事前情報によると、このあたりに旧川崎堀(現在の川崎堀の流路は昭和初期に新たに作られたものらしい)の名残が見える場所があるとのこと。
橋の周辺を探ってみると、ふさがれた形跡のある穴がある。
よく見ると、水が流れている。
あれが旧川崎堀だろうか?

ちなみに、旧川崎堀の流れの上に作られているのが、住宅地にある不思議な空間。一部は二子坂戸緑道として整備されている。
都市に蓋をされた水の流れはロマンを秘めている、と思う。
後編へ続きます。
