呑川最果て探索(前編):”汚い川”の生存戦略
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夏、蒲田駅、悪臭。
真夏。40度を超える蒸し暑い日に、あなたが蒲田駅に降り立ったとする。
冷えたビールでも一発流し込んで景気づけだぜ! と思って、飲み屋街に勇躍前進、歩いていく。
すると、どこからともなく鬼のようにバッドなスメルが漂ってくる。
おお、これぞ、労働者の町、蒲田の匂い。働く人間の匂いか、、、
などと感慨に浸っている場合ではない。
その臭気の正体、それこそが呑川である。
東京湾に降り立つ。
呑川。東京の南を西から東へ14キロにわたって流れる二級河川である。
正直、小さな川である。
桜の名所として有名なところもあるとはいえ、地味である。
そんな呑川の最果ては、大田区大森にある。
こんな感じである。

さる4月の半ばの日曜日、わたしはこの地に降り立った。
羽田空港から飛び立った飛行機が薄雲の中を滑っていくのを見ながら、この川の最果てを見てやるぞ、と決意の臍を固めてみた。
特に深い理由はない。
内田百閒風に言うなら「何にも用事はないけれど、歩いて呑川の最果てへ行ってこようと思う」と言うやつである。阿呆と言えなくもない。
この川の「終わり」から、その「生き方」を見ていこうと思う。
呑川の最下流で、経済格差を実感する
意気揚々と歩きだしたのに、すぐに呑川の川辺から追い出されてしまった。
呑川沿いには緑道が整備されていてそこを歩けるようになっているのだけれど、糀谷とか大森のあたりは歩けないらしい。
船の係留スペースになっているとのこと。
まあ、それなら仕方ないかと思って、町工場が身を寄せ合う中を歩いていく。最下流、妙に生活の気配が強い。下町の川である。
すると、ちょっと川が見える場所があったので、のぞいてみる。
船と言っても、個人が持つような小さな釣り船である。
車一台持つことさえ難儀するこの東京において、これほどたくさんの人が釣り船を持っているとは驚き。

どこかから、サングラスをかけて日焼けをした松方弘樹みたいなナイスミドルが歩いてきて船に乗らないかしら、と思ってしばらく見ていたけれど、誰も来ませんでした。
昭和時代の呑川魔改造計画跡を見つける。
しばらく歩いていくと、旧呑川緑地と言うのがある。
昭和40年代まで呑川はこちらを流れていた。
いまでは埋め立てられている。
住宅街の真ん中に一本、東京湾に向かって伸びていく緑道があり、ところどころ公園になっていたりして、住民の憩いの場になっている。
お父さんと一緒にキャッチボールに興じる女の子がいて大変ほほえましい。
恵比寿様みたいな笑顔でその様子を眺めていたら、通りすがりのおじさんに不審者を見るような目で見られたので、慌てて退散します。

改めてちょっと離れたところから緑地を観察してみる。
じっとり眺めてみても地味な眺めである。
しかし、かの地こそ、呑川を語る上では欠かせない高度経済成長期の東京「魔」改造計画の遺産である。
この川は一度「消されかけている」。
それでも形を変えて残った。しぶとい。
ちなみにChat GPTに埋め立てられた理由を尋ねたところ、①蛇行した川は都市化していくうえで住宅地としても使いにくく洪水のリスクもあるので邪魔になったこと、②高度経済成長に呑川は水質汚染がひどくてほぼドブ化していたので、水質改善するよりも埋め立てたほうが早いとなったこと、をあげたいた。
まさに、臭いものに蓋。
こうして生まれたのが呑川緑地だったわけである。
ちなみに、京急蒲田駅近くの呑川の堤防にも昭和44年竣工の工事の記念碑がありました。たぶん、他にもあるでしょう。
とっても暇なら探してみてはいかが?

蒲田駅を過ぎ、都会の川の生命維持装置を発見
さて、京浜東北線の高架をすぎると、いよいよ呑川は苔色を帯びてくる。
ビルと住宅の間を流れ、すっかり都会の川である。
しかし、悪臭はしない。これから夏にかけてが正念場である。
事前の情報で、この高架から西蒲田の双流橋にかけて、特に水質汚染がひどく、いろいろな環境維持装置がつけられているということを聞いていた。
わたしの脳内ではダースベーダみたいに瀕死の川が体中管をつけられて生かされている、SFホラーな絵が浮かんでいた。
実際歩いてみると、正直そこまでSFチックというか、サイバーパンク風味というか、そういった「まじでメカ」みたいな装置は見当たらない。
がっかりである。
たくさんの人が行き交う住宅街をよどみながら流れていく呑川。
だが、よくよく見てみると、いろいろと謎のものがある。
謎の取水口、謎のブクブク、動かない船、、、。



これらこそ、呑川が都会において生存権を得るための生命線、科学の力ってスゲーな環境維持装置の皆さんである。
謎の取水口は高濃度酸素水浄化装置、要するに高濃度な酸素を入れた水を呑川に注入する装置。
謎のブクブクは曝気装置であるジェットストリーマー、要するに水槽にあるブクブクのでっかいやつ。
動かない船はスカム発生抑制装置である。
これらの人工装置の皆さんの活躍があってこそ、呑川は「汚い、臭い」と苦情を寄せられ埋め立てられることもなく、静々と流れ続けられるわけである。
人間国宝と汚い川
もう少し歩いていく。
すると、川沿いの無個性な(失礼)アパートの脇に、植栽に埋もれるようにして、ひとつの石碑がある。
「人間国宝芹澤銈介の愛した土地」

石碑にはそうある。
芹澤銈介といえば、知ってる人は知っているだろうが、わたしは知らなかった。柳宗悦と同時代に活躍し、民藝運動の立役者の一人となり、のちには重要無形文化財、つまり人間国宝になった型絵染師である。
芹澤は1934年から1984年まで、50年間この呑川沿いの地に住んでいた。
ちょうど呑川の汚染が最もひどかった時期と被る。
その頃の呑川と言えば、ごみは捨てられ放題、ほとんどドブと言われ悪臭はただならぬ領域にまで達していたころである。
そんな汚い川の脇で芹澤は芸術家として円熟した時期を過ごした。
そんな芹澤の作品。
今見ても洗練されているのがわかる。
素朴で親しみやすくありつつも、モダンで無駄がなく瀟洒である。
実際、日本的な民俗的実用品を芸術の域にまで高めた人として、高く評価されているそうである。
芹澤は日本各地の美しい風景を作品に落とし込んだが、実際に暮らしていた地はこの呑川の近く。
今では石碑ひとつで忘れ去られてしまった感のある芹澤さんであるが、彼の目に呑川はどう映ったのか?
もしかすると、めちゃくちゃ美化する、今でいう加工アプリみたいなものを持っていて、きれいに見えていたのでしょうか?
あるいは、汚い川を常に見ているからこそ、きれいなものにあこがれて芸術を生み出すことができるのでしょうか?
よくわからんね。
歴史と格調の池上を流れる暴動事件の跡
さて、さらにさらに上流を目指して歩いていく。
この辺りは大田区の池上という地域である。
有名な池上本門寺を中心にいくつもの寺社が密集し、大田区の中でもとりわけ歴史と伝統を誇る地である。
歩いている人々の顔も心なしか格調高い気がする。
呑川もそんな土地柄に合わせるように桜並木が植えられ、きれいに見える。
蒲田とは違うんですよ、蒲田とは。
と言わんばかりである。

そんな池上地区の一角に、六郷用水が呑川と合流する地点がある。
六郷用水とは江戸時代に農業用水として整備された水路であり、実際昭和初期までは農業用水として盛んに使われていた。
そんな六郷用水と呑川を巡って大正時代に起きた事件が「中土手事件」である。
六郷用水が一体化するわけだから当然呑川の水量は増える。
ということはつまり、水害の危険も高まるわけである。
しかも、当時、池上から下流域にあたる蒲田には中土手と呼ばれる土手があった。
呑川の真ん中に土手を作って、農業用水として分水していたそうだ。

そんなわけだから、水の流れはここで滞る。
すると、大雨が降ると池上で水があふれる。
池上町(当時)は蒲田町に撤去を要請したけれども、一向に「うん」と言わない。
そうして、大雨が降った或る夜、ついに池上の住民は力づくで中土手を撤去してしまおうとしたわけである。
蒲田の住民は当然怒り、警察が出動する事態になった。
これが池上と蒲田が呑川をめぐってバチバチにやりあった「中土手事件」である。
いまではいい感じにおしゃれな案内看板が立っており、寺町情緒漂う池上になじんでいるが、大正時代の池上の人々はなかなか血の気が多かった。
この川はただ流れているわけではなく、人間同士の争いの歴史を飲み込み、形を変えてずっと流れてきた。
まとめ
こうして見ていくと、呑川はなかなかしぶとい。
埋め立てられたり、装置をつけられたり、人間に振り回されながらも、なんとか流れ続けている。
正直、きれいな川とは言えない。
しかし、人に疎まれながらも流れ続けるこのしぶとさ。
ゴーイング・マイ・ウェイ。
現代人こそ見習うべきメンタルではないでしょうか?
もう少し、このしぶとさの正体、上流まで追いかけてみようと思います。
後編に続きます。
