音楽は人間をどのように救うのか
-バレンボイムとエドワードWサイード-
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イスラエルとアメリカのイランへの空爆によって、世界のジャーナルはパレスチナとウクライナの戦争について小休止している。メディアとはそういうものである。イスラエルの存在が根本的な解決を難しくしている。パレスチナ国家はまだない。しかも現在のイスラエルは、ユダヤ人の中でも、政治的急進派がアメリカと強く結びついているものであるから。
パレスチナ人でキリスト教のアメリカ在住エドワード•サイード(EWS)と、ユダヤ移民でアルゼンチン生まれでイスラエルに住んだバレンボイム(DB)の対談は、音楽が人間をどのようにして救うのかというテーマが中心にある。
パレスチナ国家を作るべきと考える二人は、ユダヤ人、アラブ人、ドイツ人を集めて若い音楽家によるオーケストラを作り指導した。ゲーテ生誕250年のワイマールである。音楽と文学(ピアニスト)の専門家として、人間社会と音楽について考えていくのだが、そこにはリベラルアーツを身につけた知識人としての発言がある。
リベラルアーツを身につけた二人に共通しているのはtransitionという考えである。身も心も常に世界を飛び回っている。 音楽についてのDBの考えや言葉が新鮮である。EWSは自らもピアニストであり、音楽的体験を共有することから、アドルノなどを参考にDBに鋭い問いを出す。以下は、二人の音楽と社会への言及である。
<他者を批評するためには、自らのアイデンティティを抑えなければならない。>(EWS)
<ドイツ的サウンドはドイツ人にしか出せない。フランス音楽はフランス人にしか弾けないなどという考えは正さなければならない。文化的寛容の欠如である。アーリア人だけがベートーヴェンを正しく評価できるなどということはない。>(DB)
<演奏は消えていくものだから、生気し、そして終わる。あとは心にたたみ込んで自分で持ち歩くだけ。(フルトヴェングラーのカイロでの1回だけの公演を聴いて)>(EWS)
<フルトヴェングラーは、哲学的に音楽を理解するので難解である。音楽は生成である。音楽は何かを表明するものではなく、どのようにしてそこに至るのか、そこを去るのか、次に移行transitionするのか、というもの。>(DB)
<チェリビダッケが、フルトヴェングラーを評して、リハーサルで200通りものノーを試みる。本番でイエスが出るかはわからない。それでも思いつきの演奏をしない。>(DB)
<音楽は音でできているにもかかわらず、沈黙までも含み込んでいる。音楽は特殊な教育を要求するがたいていの人々には全く与えられていない。>(EWS)
<音楽を上手に演奏するには、頭と、心と、気合いの間のバランスをとる必要がある。どうしたら人間らしくなれるかを子どもたちに示すのに、音楽に勝る方法はあるだろうか?>(DB)
<ベートーヴェンの交響曲第四番のはじまりには底なしの絶望感がある。変ロ音のみが続いた後、フルート、ファゴット、ホルン、弦楽器のピチカートがあり、そして何も起きない。空虚感のみ。たった一つの音が続き、やがて弦楽器により別の音、変ト音が入る。その瞬間、聞き手は放り出される。この瞬間に、自分の居場所がわからなくなる。人間性について本当にたくさんのことがわかる。これはベートーヴェンによって建て直された混沌から秩序への道である。>(DB)
<楽譜はアバウトなものである。楽譜は曲ではない。楽譜の中にはサウンドは存在していないので、作る必要がある。サウンドの現象学と言える。音楽家が真っ先に理解しなければならないのは、音を出現させた時の反響、音の持続性である。沈黙からはじまり沈黙に終わる間の錯覚を作る技術である。>(DB)
<シェーンブルクの十二音階のようになると、音楽の目的、社会性、自由などの表現が難しくなる。複雑さに慣れないと聞きにくい。アキュムレーションが強くなる。音楽には果たして社会性があるのかという疑問が湧く。ベートーヴェンの交響曲には、苦悩への対応、自由を求めるもの、喜びへの対処などの内実がある。おまえ何者かを問い、その上で、勇気を持ってアイデンティティを手放し、帰る道を求めるのが音楽である。>(DB)
<新ウィーン音楽における調性の不在は帰るところのない難民の音楽と言える。プルースト、ジョイス、エリオットの小説家のように。>(EWS)
<専門家は専門家だけでは人間として足りない。技術や知識がどんなに際立っていても、専門を超えた社会や政治に踏み込んでいかなければならない。>(EWS)
<学校教育の問題点は、情報の提供にある。学習者が各人に備わったやり方で思考する力を呼び起こし進んでいく方向を示してやるのが教師の役目だと思う。音の働きをどのように説明するかが一番大切である。教師から独立することが必要だ。生徒には自分を批判するようにさせたい。>(EWS)
<音楽の本質に関する罪は機械的演奏にある。2つの音だけでもストーリーや自分の主張が必要である。グールドは持っている。トスカニーニはそれと反対の支配力を持っていた。指揮者は教師で、音楽を作るのは演奏家である。>(EWS)
<ルビンシュタインのサウンド、アラウのフレージングなどはlistenではダメでhearしなければわからない。フルトヴェングラーのtransitionも同じこと。>(DB)
<ワーグナーは、古典派のモーツァルトやベートーヴェンから、大きな影響を与えた。アコースティックについての直感的資質があった。時間と空間の概念のこと。必然的なテンポの柔軟性を重視した。音響は維持されない限り、静寂に向かう。音響の重量に、重きを置く。この考えが音楽全体に影響を与えた。新しい客観性=ノイエ・ザッハリヒカイトを生み出した.フルトヴェングラー、ワイン・ガルトナー、ブルーノ・ワルター、トスカニーニ、ハンス・フォン・ビューロー、オイゲン・ダルベール、シュナーベル、フィッシャー、バックハウスなど皆ワーグナーの思想がなければいなかった。>(DB)
<バイロイトのオーケストラピットは本当に特別で、例えれば深海の中で弾いているよう。自分の脳と運動だけが頼り。歌手の音とオーケストラの音が最初から混じっている。「パルジファル」などはバイロイトのために作られたようなもの。>(DB)
<1786年から第二次大戦までバイロイトはワーグナーの音楽実験革命は終わり保守的になる。ブルーノ・ワルターもクレンペラーもバイロイトではやらなかった。>(DB)
<ワーグナーに影響を与えたのはベートーヴェン、ベルリオーズ、リスト、ブルックナーら。ワーグナーはサウンドの重量と連続性に魅せられる。音色的にも独特である。>(DB)
<反ユダヤ主義はアドルノが指摘するように、人間としてのワーグナーはとてもひどいが、音楽は気高く、寛大である。音楽と人間性を一緒には語れない。ナチがワーグナーを利用したことに、彼の責任はない。>(DB)
<しかし、ワーグナーがドイツナショナリズム的なものを積極的に書いているのは事実。「パルジファル」「マイスタージンガー」など。>(EWS)
<音楽の経験、音楽を創造するという行為は、音をつねに相互依存の関係に置くことを意味している。だから譜面への忠実さなどは話すことができない。テンポを、決定するのは内容である。作曲家が譜面を書いている時はまだ頭の中のことなのでメトロノーム記号を使う。音楽は人間の身体と同じで、部分をどくりつして論じることはできない。>(DB)
<譜面、テクストとは作曲家や作家、詩人によってなされた一連の判断の集積である。そこに映し出されるのは、一連の直感と、スタイルについての経験に基づく一連の推測、サウンドの再現や、言葉の再現の鍛錬をつむことだ。そこにはつねに相互作用が働いている。>(EWS)
<サウンドの要素はとても異なっている。音楽についてはテクストを語るようには解釈を語ることはできない。音楽にほんとうの解釈なんてものはない。>(EWS)
<音が相手だと物理法則に関係しないわけにはいかない。音響効果を理解しないと音楽はできない。物理的特徴がまずある。テクストへの忠誠という問題はその次である。>(DB)
<演劇と音楽の違いは、言葉による芝居には速度や大きさを示すものはないがサウンドはある種の悲劇的な要素を与える。サウンドには緊張の要素がある。さらに反復できない一回性のものであること。自然について、人間について、人生の学校となる。音楽はとても強烈的でかつ秘伝的アートである。>(DB)
<音楽に神性を感じるのは和声という現象にもよる。ベートーヴェンのピアノ協奏曲五番の第二楽章には持続的なヴァイオリンとヴィオラの響き、チェロとコントラバスのピチカートがそうさせる。静謐とリズミカルな鼓動の調和に満ちている。晴朗とした静けさに、神性を感じる。>(DB)
<ワーグナーが望んだのは感覚の本物である。>(DB)
<自分たちはどんな未来を望むかについてばかりで、どのような過去を望んでいるかの問いには対応できていない。古典に帰らねばならないというが、そこに固執するのは問題である。現代の音楽の新しさを理解するために過去の音楽を聴く。>(EWS)
<音楽は人文的教養の一つだったが、もはやそうではない。音楽に起こったことは社会を表象するという役割がモーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンの時にはあったが、ワーグナーから十二音音楽、ベルクやウェーベルン、エリオット・カーターになると、音楽が社会の分離が起きる。社会の非人間性がみずからに反社会的という存在を強いている。ワーグナー以降、調整の喪失が起きる。音楽は和声なくしては成り立たない。>(DB)
<ベートーヴェンの音楽は人間の社会的肯定がある。人間の実現や解放を約束する。同時に、晩年の作品では、崖っぷちでよろめいている。とても神経的なものが出てくる。音楽が日々の辛苦、努力、人間の団結と闘争などから外れて、新しい領域へ移行する瞬間である。音楽が専門的な芸術になる。>(EWS)
<音楽に生きている人々がいるが、他のことに興味があってはじめて可能である。他のことに興味があり、それが自分の奥底にあるものの一部になる。それが音楽を通じて外に現れる.音楽が人生そのものになる。>(DB))
<ベルリン国立歌劇場管弦楽団の音楽家教育など、どんどん専門化していて、音楽の社会性などは無関心になる。語学など教養があることは専門的学びの前提であったが今は無くなってしまった。>(EWS)
<音楽づくりは、宗教的な祈りに似ている。全てが相互に関係していて、分離不能となる。能動的な聞き手は敏感であれば、通じ合える。>(DB)
<音楽の無限性とは、音楽が一回性で変えてしまってもまた取り戻すことができるという感覚。一つのものから他のものへと移動するのは人生の現実である。>(DB)
ユダヤ系のバレンボイムがドイツナショナリズム、反ユダヤということだけで、ワーグナーを決めつけない寛容の精神で、音楽の実績と人間性とを別の視点で考える。これは、人間として憎悪からは何も生まれないというバレンボイムの考え方である。同時に、音楽がとしての高い評価を人間性がによって貶めることはできないと考えている。サイードは、それでも、ワーグナーの民族性と社会的責任を重く考えるのである。
今まさにそうなっているが、社会同様に音楽の均質化と排外主義が生じていてその間のコミュニケーションがなくなっている。ドイツでの移民の受け入れなどで、他者への態度が変容している。人文主義の基本的使命は、音楽であれ、文学であれ、差異を保持することに関係している。コロンビア大学で教師をしているEWSは社会の変容と教育のあり方について繰り返し語っている。
