第四部(上)4-1章 倭国と三韓は連枝した共通言語の為政連合体
第四部 倭国と三韓は連枝した共通言語の為政連合体
4-1.倭国と三韓は連枝した為政連合体
4-1-1.倭国と三韓の連枝した為政連合体の概要
論理精度が向上して、780年までの倭国と三韓(高句麗、百済、後に新羅と改称された伽耶連合国)は「DNA縄文人」による「連枝する多元的為政連合体」であることが鮮明化します。
倭国と三韓は、日本列島と朝鮮半島の同じ原住の「DNA縄文人」による連枝した多元的為政連合体でした。多元的為政連合体は、「DNA縄文人」の三氏族(尾張氏、大伴氏、物部氏)のいずれかが政事為政統括する倭国部族連合体と三韓との連枝した政事連合体、そして、三氏族(尾張氏、大伴氏、物部氏)のいずれかと通婚同盟する現中国江南地域の南方系漢族ないし現中国北部系漢族が渡来した倭国と三韓の非政事為政統括者の「母系DNA呉越系倭人」との同位共同為政体でした。そして、新旧の渡来部族達を為政連合体に受容します。
倭国と三韓の非政事為政統括者の「母系DNA呉越系倭人」の一位女王は、朝鮮半島(伽耶の大賀羅国)と日本(最初は出雲・但馬、国譲り後は大和)の二拠点体制とし、現役の時は朝鮮半島を主居住地とし、大和は安全のための避難地および継嗣の生育地とします。
新羅は、元々伽耶連合国の一員であり、伽耶連合国盟主の男王加羅国と女王大賀羅国の属国的存在であったと推定されます。新羅は格下の国のため.、新羅王は元々は王の称号ではなく、記紀の倭国「天皇」に就くことができず、また、新羅王妃は母系庶子が就き、「王妃」の称号ではなく、「妃」でした。
「DNA呉系倭人混血縄文人」尾張氏の高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)は、譲位させられて小国の新羅をあてがわれます。新羅第22代智証王(在位:500~514年)=第26代継体は、国号を「新羅」とし、「王」の称号に変えました。その後、第26代継体は、大国の加羅国第10代(末王)仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)に就きます。継嗣の尾張草香(生育地は、現愛知県・尾張国)は加羅国王妃の子ではなかったので大国加羅王を継承できず、新羅第23代法興王(在位:514~540年)にされました。尾張草香の娘の尾張目子媛(生育地は、現愛知県・尾張国)は、加羅国王妃・桂花(加羅国第10代仇衡王)に就き、その後新羅摂政・只召(チソ)太后[新羅第24代真興(チヌン)王(在位:540~576年)]になります。新羅第24代真興(チヌン)王は、父が先代の法興王の弟の立宗葛文王金仇珍、母が法興王の娘の只召夫人、王妃が朴氏思道夫人です。540年に先王法興王が死去し、真興(チヌン)王が7歳で王位について、王の母が代わりに政務をみました。真興(チヌン)王は、積極的に領土拡張を進め、新羅の国力を飛躍的に増大させました。新羅第23代法興王(在位:514~540年)と新羅第24代真興(チヌン)王(在位:540~576年)は、新羅の実際の祖であり、新羅が大国となる契機となります。
新羅第24代真興王(在位:540~576年)[=第28代宣下]は、562年に大賀羅国、任那を併合し、伽耶連合国は新羅国となります。ここに、高句麗と肩を並べる大国新羅が誕生します。
「多元的為政連合体」の中心の政事府には、摂津の難波府、筑紫の大宰府、伽耶の任那府がありました。「連枝した多元的為政連合体」は、「DNA縄文人」の発達したネットワークによって結ばれていました。
朝鮮半島南部の伽耶部族連合国が最後まで集権国家にならなかったのは、伽耶地域は原住の「DNA縄文人」の朝鮮半島の古くからの拠点であったので、「DNA縄文人」カルチャによる「多元的為政連合体」を維持したからです。日本列島の倭国は、「DNA縄文人」カルチャによる緩い部族連合の「多元的為政連合体」です。
「空白の四世紀」とは、非集権の分散した緩い部族連合で、空白ではありません。単元性原理の集権国家観による外国至上知識人の偏見です。
倭国と三韓との連枝した為政連合体制は、780年からの現中国北部系漢族の「DNA匈奴金氏」・Y-DNA「O2a1系」の男系征服渡来による統一新羅下代の王朝変更により終焉します。
この日本と三韓の為政連合体制の事実は、藤原氏が鮮卑族和邇氏を疑似継承したことの隠蔽と、780年以降の「DNA匈奴金氏」・Y-DNA「O2a1系」の統一新羅下代朝、「DNA鮮卑族宇文氏」・Y-DNA「O2a2a1a1系」の高麗王朝、そして「DNA鮮卑族拓跋部」・Y-DNA「O2a2b1系」の李氏朝鮮王朝が現中国北部系漢族の男系征服渡来王朝であることを隠蔽するために、強く隠ぺいされます。
新羅の宗主であった「DNA縄文人」が為政者である伽耶連合盟主の加羅は、「DNA匈奴金氏」の統一新羅下代王朝と「DNA鮮卑族宇文氏」の高麗王朝が編纂した三国史記新羅本記では、加羅が新羅の盟主であったことは隠ぺいされ、新羅の「DNA縄文人」王朝は「DNA匈奴金氏」王朝と改ざんされます。これは、780年以降の「DNA匈奴金氏」の王統正統性を粉飾するためです。同じように、記紀においても、歴史性が弱い初代から第4代までの匈奴の神武朝、金氏の第16代仁徳、金氏の第18代から第20代、第25代の反正朝が新羅本記と連携して挿入されます。
新旧の「DNA呉越系倭人」、「DNA匈奴」、「DNA鮮卑族」等の日本への渡来部族は、「DNA縄文人」である三氏族(尾張氏、大伴氏、物部氏)と共存共生する一員となります。非征服の渡来部族は、いわゆる九夷(クイ)と呼ばれた夫餘、高句麗、東沃沮(ヨクソ)、邑婁(ユイロウ)、濊(ワイ)、馬韓、辰韓、弁辰、倭人の諸部族です。
単元性カルチャを民族カルチャとする二大渡来勢力の「DNA匈奴金氏」(記紀の例:スサノオ朝、第16代仁徳、第18~20代、第25代)と「DNA鮮卑族和邇氏」(記紀の例:第15代応神、第17代履中、第21~24雄略朝)は、倭国と三韓で部族間の覇権抗争をします。最終的には、「DNA鮮卑族」が勝利者となり、同盟する物部氏が為政統括する筑紫、瀬戸内海、近畿、琵琶湖を拠点にします。「DNA鮮卑族和邇氏」は、物部氏、秦氏、「母系DNA呉系倭人」の『大后』と同盟します。
負けた「DNA匈奴」は、尾張氏、「母系DNA呉越系倭人」の『大后』・女首長と同盟し、尾張氏が為政統括する九州南部の日向、日本海沿岸の古志国、名古屋の尾張国以降の北部に拠点を移します。
大伴氏は、未詳ですが、紀伊、瀬戸内側四国、筑紫南部、摂津西側、等を為政統括し、ヤマトの女王の護衛をしたと推定されます。
「DNA縄文人」の多元性カルチャは、孤立した日本の根源カルチャです。江戸時代の幕藩体制までの基本は、「多元的為政連合体」です。日本の分散した非集権制為政体を中国や欧米の単元性カルチャの集権国家観で理解しようとすると、後進性の未発達な国家となり、誤解を生じます。
「大和集権王朝」説は、倭国『大后』が倭国と四韓の非政事為政統括をし、また、「倭国は母の国」から、倭国の女王府が安全で奥まった大和にしたことを、男王渡来人によるヤマト集権国家に変える恣意的な説と考えます。
ヤマト集権王朝説の中心根拠に前方後円墳等がありますが、事実は歪曲化・狭小化されています。日本列島で三世紀後期から七世紀初頭にかけて築造された前方後円墳は、261年頃の「DNA匈奴休氏」ニニギ族同盟軍(第二期ヤマト東遷)と304年頃の鮮卑族慕容部同盟軍の大和侵攻(第三期ヤマト東遷)に備えて「DNA縄文人」大首長が築造したものと推定され、日本列島に広く分布しています。このような巨大建造物は、人力、運送力、財力、権力を持っている「DNA縄文人」の首長しかできないからです。最北端は岩手県奥州市の角塚古墳、最南端は鹿児島県肝属郡肝付町の塚崎古墳群第51号墳/花牟礼古墳とされ、最多は尾張氏の拠点と推定される千葉県の約720基です。前方後円墳の存在が明確でないのは、北方では北海道・青森県・秋田県、南方では沖縄県の計4道県にすぎません。
古墳時代の日本列島で造営された200m以上の巨大前方後円墳は、全部で37基あります。第一位は和泉国の墳丘長が525mの大仙陵古墳=大山古墳=大仙古墳、第二位は河内国の墳丘長が425mの誉田御廟山古墳=誉田山古墳、第三位は和泉国の墳丘長が365mの上石津ミサンザイ古墳、第四位は備前国の墳丘長が360mの造山古墳、第五位は河内国の墳丘長が335mの河内大塚山古墳等で、いずれも大和統一王権説のいう大和国にはありません。ヤマト女王を防衛するための前線の威嚇構築物であったことはありえます。これら以外の大型前方後円墳は、九州の岩戸山古墳(推測は大伴氏系)と断夫山古墳、尾張の断夫山古墳、摂津の今城塚古墳(推測は大伴氏系)、摂津の太田茶臼山古墳(推測は大伴氏系)等があります。
前方後方墳は、約二百数十基あります。現在知られている前方後方墳の墳丘の長さが70m以上は34基あります。日本最長の前方後方墳は、天理市の墳丘長が180mの西山古墳です。70mを超える前方後方墳の旧国別の築造数は、大和が5基、下野が4基、山城・陸奥が各3基、美濃・駿河・越中・上野・出羽が各2基、出雲・美作・播磨・摂津・伊勢・尾張・三河・能登・常陸が各1基あります。陵墓は民族の伝統様式を継承されるので、「後方墳」様式から部族の推定は可能です。
「DNA鮮卑族拓跋部」系と推測される四隅突出型墳丘墓は、1968年に島根県邑南町の順庵原1号で最初に確認され、出雲、北陸で100基余りが知られています。
高句麗系装飾古墳は約600基が知られていますが、北九州と北関東・南東北に集中し、とくに熊本、福岡両県が多いです。飛鳥に局所・短期存在する壁画古墳は、高句麗系装飾古墳の新系統で、ペルシアと関係した高句麗物部朝[高句麗第25代平原王(在位:559~590年)から高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)]の文化影響を受けて文化革新を為したものと推測されます。
以上のように、古墳からも分散した非集権の為政連合体の存在を知ることができます。ヤマト集権王朝説は、事実の理解進展を著しく阻害しています。
多元王朝説は、古田武彦(1926年生まれ~2015年歿)が「九州王朝は大和王権と並立し、古代および中世の日本列島には複数の王朝と大王が並立・連立して存在した」と主張しています。論拠は、前方後円墳の形が地域によって微妙に異なること、その時代の日本列島は一つの統一王朝によって運営されていたという明確な記録がどの文献にも存在していないこと、そして、古代中国王朝側の文献からの歴史の記述に頼らざるを得ない点などとしています。
古代の分散した多元王朝の具体的な例は、九州王朝だけでなく757年の養老律令により定まった律令国(当初は58国3島)が参考となります。701年および757年当時の令制国を元とする古代の大きな王朝は、大型古墳群、大規模集落群、倭国『大妃』の出自国等の記録が残っている近畿・大和王朝、尾張氏系出雲王朝、尾張氏・物部氏系但馬王朝、物部氏系琵琶湖王朝、『大后』系吉備王朝、兵庫・播磨王朝、愛媛・讃岐王朝、徳島・阿波王朝、筑紫王朝、宮崎・日向王朝、和歌山・紀伊王朝、愛知・尾張氏系尾張王朝、日本海沿岸・尾張氏系古志王朝、群馬・上毛野(カミツケノ)国/上野(コウズケ)国王朝、千葉・上総(カズサ)王朝、茨木・大伴氏系常陸(ヒタチ)王朝、岩手・日高見王朝[荒吐(アテルイ)王、亀ヶ岡式土器]、青森・東日流(ツガル)王朝(三内丸山遺跡)、等があります。
推定人口は、推定者により若干の違いがありますが、縄文時代後期から晩期(紀元前1000年頃)の最新の推定総人口は、約5~10万人(最多でも15万人程度)と見積もられています。縄文時代中期の人口(小山修三氏の推計)は、北海道を除く日本列島の人口は約26万人、内、東日本は24万人(全人口の92%)、西日本は2万人程度(全人口の7.7%)です。概ねの推定人口は、弥生時代BC200年頃は55万人、弥生時代200年頃は110万人、古墳時代500年頃は350万人、飛鳥時代600年は400万人、奈良時代715年は450万人、平安時代800年は500万年、鎌倉時代1200年は725万人、室町時代1300年は1000万人、江戸時代1600年は1200万人、江戸時代1800年は3000万人です。古墳時代も含めた人口増加は、新参の渡来人による増加分は少なく、大半が自然増加によるものです。特に、稲作を持ち込んだ「DNA呉越系倭人」は、飛躍的な人口増加をします。
2021年、2024年に三重構造モデル説がゲノム学者から提起されていますが、縄文時代、弥生時代、古墳時代において渡来人の大規模な男性置換(ヨーロッパで起きたような「新石器時代置換」)は、日本では起きませんでした。
三重構造モデル説は、古墳時代に東アジアからの渡来人が65%を占め、この新参の渡来人がヤマト集権王朝を形成したとする恣意的な流れにあります。核ゲノムの主成分分析からの日本人の混血系統の結果と相違します。シンプルな核遺伝子のハプログループの結果と大きく種族割合が異なります。古墳時代に新規に65%の東アジア人が渡来し、日本為政者となったのであれば、日本語は、中国語の文法に変わっている筈ですが、違います。最も多くの渡来人が流入したのは、垂仁朝時代の秦氏の約1万人から2万人ですが、当時の人口(400年の時、150万人、400万人)の約0.25%から1.3%程度と推定されます。その後の渡来人も数百人から数千人程度ではないでしょうか。古墳時代の人口増加は、渡来人の流入による人口増加ではなく、稲作開始による自然増加とみられます。
統一新羅下代(780年~)から朝鮮半島は、現中国北部系漢族(匈奴、鮮卑族、呉越系倭人)の征服渡来人(匈奴および鮮卑族)による単元性カルチャによる集権国家となり、日本と朝鮮半島の「連枝した多元的為政連合体」は終焉します。現中国北部漢族を宗主とする臣下の朝鮮半島への征服渡来者の歴史的関係に基づき、朝鮮半島は中国の王朝に属国化します。血統性継承の後は、君臣の秩序維持が基本となります。
757年の養老律令により設置された令制国(国府)の一覧を表18に示します。令制国(国府)は、「DNA鮮卑族和邇氏」を擬似継承した藤原氏により奈良時代以前の国を分割したり、中心地を移動したりしていますが、倭国の為政連合体の構成国です。古代日本の本質を見るには、大和王朝説から離れて令制国国府が置かれた所も同等として先ず考察する必要があります。
表19.奈良時代から平安時代にかけた令制国(国府)一覧

4-1-2.朝鮮半島の原住民の「DNA縄文人」と多民族の王朝変遷の概要
紀元前5000年位に、日本列島の「DNA縄文人」が無人の朝鮮半島に移住し、原住民となりました。
紀元前後に扶余族出身の「DNA鮮卑族拓跋部」が朝鮮半島に征服侵攻し、高句麗初代解(ヘ)氏東明聖王(在位:B.C.58~B.C.19年)と女王・召西奴(ソソノ)(生年不詳~紀元前6年)が高句麗建国、その後、宗主沸流(フツ)百済初代真氏沸流(フル)王(在位:未詳)と女王・召西奴(ソソノ)が百済を建国しました。この時に、原住の「DNA縄文人」は朝鮮半島中部・南部から南部に多数が移動します。
漢は朝鮮半島に楽浪郡(現在の平譲付近)と、その後楽浪郡南部を分離して帯方郡を置きました。漢が滅び、313年に「DNA縄文人混血呉系倭人」の高句麗第15代美川王(在位:300~331年)[=高句麗王族分国・大加羅国王子・天日槍(アメノヒボコ)命=第6代孝安(コウアン)]は、楽浪郡を併合しました。したがって、原住の「DNA縄文人」は、朝鮮半島の中部から南部に移動し、南部を主拠点地域にします。
朝鮮半島南部の大きな勢力国は伽耶連合国で、その中心は男王系加羅国と女王系大賀羅国です。伽耶連合国は、最後まで非集権・分散の連合国体制を続け、集権化統一国家に移行しませんでした。これは、伽耶連合国の盟主であった原住の「DNA縄文人」の多元性カルチャに因るものです。
伽耶連合国は、「DNA呉越系倭人混血縄文人」の尾張氏・大伴氏・物部氏、「DNA縄文人混血呉系倭人」、新羅王族分国系「DNA匈奴」金氏、「DNA鮮卑族」和邇氏、「DNA縄文人混血鮮卑族」昔氏、「DNA匈奴」秦氏が、通婚関係をもって共存共生したところです。特に、「DNA縄文人」と「DNA呉系倭人」との通婚同盟はもっとも古いです。これらの事実は、統一新羅下代始期の780年の「DNA匈奴金氏」の渡来征服王朝が、隠蔽します。
「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2b1系」である前漢(紀元前206年~紀元8年)が「DNA匈奴」・Y-DNA「O2a1系」である新(8年~23年)に変わった時、「DNA呉越系倭人」・Y-DNA「O1b2系」は前漢の束縛から逃れて、朝鮮半島、日本列島に移動しました。
107年、「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2b1系」である漢は、倭の面土国王・師升(スイショウ/スイセイ)に奴(ヌ)国金印を贈りました。破格の金印は、師升は高句麗王族出身であり、後漢からの派遣者であることによる漢の配慮です。この金印は、後に九州の西倭国『大王』が高句麗王になる遠因と思われます。倭の面土国王・遂成(スイセイ/スション)は、「DNA越系倭人」・Y-DNA「O1b2系」である高句麗第6代太祖国祖王宮(在位:53~146年)の弟で、後に、「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2b1系」である後漢側として動き、兄の高句麗第6代太祖国祖王宮(在位:53~146年)から王位を奪い、高句麗第7代次大王遂成(スイセイ/スション)(在位:146~165年)に就きました。その後、家臣に殺されます。「面土」は、「面(メン)」がミェン族[=高志族]、「土(ト)」が「地」の意で、「越族の土地の意」です。
140年代頃、「母系DNA越系倭人」である伊都国女王卑弥呼は、後漢から派遣された「DNA越系倭人」である遂成(スイセイ/スション)と北九州で同盟します。「母系DNA越系倭人」・Y-DNA相当「O1b2系」である伊都国女王許(キョ/コ)氏卑弥呼の祖の許(キョ/コ)氏は、中国江南地方の巫術(フジュツ)者の家系です。因みに、もう一人の加羅国始祖の金首露王(在位:42年~199年、42年生)の王妃は、インド阿諛陀(アユダ)国の王女の許(コ)氏黄玉です。 卑弥呼の祖は、南方文化系で、左回りの海路移動で奄美、南九州を経て、筑紫に来所しました。祖郷は宇賀御魂命の中国江南地域と同じですが、卑弥呼は「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2b1系」である後漢と同盟しました。一方、朝鮮半島の伽耶から日本列島に来島した宇賀御魂命は、「DNA匈奴金氏」と同盟しました。これが、「DNA匈奴金氏」も編纂した記紀が卑弥呼を記載しなかった理由です。
160年頃、「DNAスキタイ/ペルシア混血匈奴」坂族・Y-DNA「O2a1系」である堂谿(ドウコク)氏猿大海(サルノオオミ)が北九州に来島し、熊本県菊池郡近辺に狗奴(クヌ)国を建国しました。180年前後の倭国大乱の誘因となります。猿(サル)大海(オオミ)の「猿」は、トウチャ(土屋)族のニックネームの「猿」と関係があるのでしょうか。「猿」は、「猿田(サダ)」と同様に「新羅」の古代別名です。
二世紀以降の伽耶では、「DNA縄文人」と「DNA呉越系倭人」との通婚同盟に加え、尾張氏と「DNA匈奴」金氏が同盟、その後続いて、大伴氏と「DNA匈奴」休氏が伽耶で同盟、続いて、「DNA鮮卑族」慕容部と大伴氏と物部氏が伽耶で同盟します。四世紀頃には、「DNA縄文人」は、朝鮮半島中南部に勢力を回復します。
四世紀末から五世紀初め頃の加羅国王[推定:加羅国第5代・伊尸品(イシヒン)王(在位:346年~407年)]は、DNA解析より日本列島から渡来した原住の「DNA縄文人」が祖で、朝鮮半島を南下した鮮卑族慕容部と同盟しました。
高句麗王朝は、初代から第2代まで「DNA鮮卑族卓抜部」王朝(B.C.58~18年)、但馬出自の第3代から第5代まで「DNA鮮卑族前族/新羅昔氏」王朝(18~53年)、第6代から第9代まで「DNA越系倭人」王朝(53~197年)、南匈奴出自で金氏の宗主であった第10代から第14代まで「DNA匈奴休氏」ニニギ族王朝(197~300年)、伽耶・大賀羅国出自の「DNA呉系倭人」王朝(300~391年)、鮮卑族の臣下で伽耶出自の「DNA匈奴金氏」の第19代広開土王(391~412年)[=第16代仁徳]、「DNA氐(テイ)族馮(フウ)氏」の第20代長寿王(427~492年)と王朝変遷し、倭国から渡来した伽耶出身の「DNA縄文人」尾張氏の高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)[=第26代継体]の王朝となります。
「DNA氐(テイ)族馮(フウ)氏」である高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王(在位:427~492年)の歿後、物部氏外戚系の「DNA縄文人」尾張氏である高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)[=第26代継体]は、伽耶・百済の大伴氏と物部氏と組んで、武力で高句麗王に就きます。以後、高句麗末王まで、「DNA縄文人」王朝(492~642年)となり、高句麗は終焉します。
「DNA縄文人」尾張氏の高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)=新羅第22代智証王 (在位:500~514年)=加羅国第10代(末王)仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)[=第26代継体]から新羅の歴史性が強くなり、それまでは後世の統一新羅外代の「DNA匈奴金氏」の征服渡来王朝の粉飾した史実性が強いです。
渡来征服人の「DNA鮮卑族拓跋部」が建国した百済は、304年に朝鮮半島を南下した「DNA鮮卑族慕容部」に滅ぼされました。百済慕容部朝は、375年に「DNA匈奴金氏」である新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)[=高句麗第19代安氏広開土王(在位:391~412年)=第16代仁徳]に滅ぼされました。
百済は第一期百済王空位期(375年から420年)になり、百済土豪の「DNA鮮卑族和邇氏」と大伴氏と物部氏が覇権を握ります(いわゆる、百済和邇氏朝=和邇氏応神朝)。
第一期百済王空位期(375年から420年)の後、新羅金氏の正統継嗣の「DNA匈奴金氏」である百済反正(ハンゼイ)朝[百済第19代久尓辛(クニシン)王(在位:420~427年)=新羅第18代金氏実聖(ジツセイ)尼師今(在位:402~417年)=第18代反正、百済第20代毗有(ヒユウ)王(在位:427~455年)=新羅第19代金氏訥祇(トツギ)麻立干(在位:417~458年)=第19代允恭(インギョウ)、百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)=新羅第20代金氏慈悲(ジヒ)麻立干(在位:458~479年)=第20代安康]となります。
475年に、百済第21代蓋鹵(ガイロ)王が「DNA氐(テイ)族馮(フウ)氏」・Y-DNA「O2a(M122)」である高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王(在位:427~492年)に滅ぼされ、再び、第二期百済王空位期(475年から501年)となります。
第二期百済王空位期は、百済土豪の「DNA鮮卑族和邇氏」と大伴氏と物部氏が覇権を握ります(いわゆる、百済和邇氏朝=和邇氏雄略朝)。
「DNA縄文人」尾張氏の高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)[=第26代継体]は新羅と和議して、新羅金氏の正統継嗣の百済第25代武寧(ブネイ)王斯麻(シマ)(在位:501~523年)=倭王武に百済王を渡します。
523年、百済第25代武寧(ブネイ)王歿後、加羅国第10代(末王)仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)[=第26代継体]の甥の「DNA縄文人」尾張氏である加羅・武力=新羅・粛訖宗(スックルチョン) [=第29代欽明]が百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)[=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)]に就き、以後、百済は「DNA縄文人」朝となります。
百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)[=第29代欽明]から百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)[=第36代孝徳(コウトク)]まで、物部氏外戚系の「DNA縄文人」尾張氏の百済朝となります。
「DNA縄文人」と「母系DNA呉越系倭人」との通婚同盟が倭国と四韓の覇権を握りますが、「DNA縄文人」の部族連合統括者『大連』の資格をもつ尾張氏、大伴氏、物部氏は、大陸から渡来した「DNA匈奴金氏」と「DNA鮮卑族和邇氏」等と組んで倭国と四韓で日常的な抗争をし、覇権地域をすみ分けします。
四世紀初期頃までは、尾張氏と「DNA匈奴」金氏の同盟が倭国と四韓で覇権をもっていました。
四世紀初期に鮮卑族慕容部が朝鮮半島を南下すると、大伴氏と物部氏と「DNA鮮卑族」系が興隆し、尾張氏・「DNA匈奴金氏」系と覇権が拮抗していきます。
大伴氏と物部氏と「DNA鮮卑族」系は、畿内・大和・瀬戸内・筑紫を東倭国圏とし、また、加羅・任那・高句麗・百済を領有地域とします。
尾張氏と「DNA匈奴金氏」系は、畿内から排出されて、愛知県・尾張国、長野県・信濃国、日本海沿岸の古志国、九州南部の西倭国、関東、新羅を領有地域とします。新羅は、朝鮮半島の辺鄙な小国であったことを示唆しています。
「母系DNA縄文人混血呉越系倭人」の倭国『大后』は、倭国と四韓の非政事為政統括者として君臨します。
倭国と四韓の原住の「DNA縄文人」の共存共生等の多元性カルチャの非集権・分散の連枝した為政連合国体制を変えた原初は、642年の高句麗物部朝を滅亡させ、初めて日本の覇権者を目指して朝鮮半島から渡来帰化した
「DNA縄文人」尾張氏である高句麗宰相・淵蓋蘇文(エンガイソブン、623年生~686年歿)[=第37代斉明A=重祚第40代天武]、第37代斉明A淵蓋蘇文の唐捕虜中を利用して皇位を簒奪した「DNA呉系倭人」朴氏である新羅・欽突(フムドル)[=第38代天智]、681年の統一新羅の内乱敗北で日本に亡命帰化した「DNA縄文人」尾張氏である新羅・信功[=藤原不比等]です。高句麗系第40代天武と新羅系藤原不比等は、覇権獲得の手段として、征服渡来の伝統をもつ現中国北部系漢族の鮮卑族(漢、北魏、隋、唐)の唯一専権・覇権主義の単元性カルチャの文化・文明(漢字、仏教、律令制、衣冠制、等)を利用しました。
倭国は、奈良時代(710年~794年)以降、原住の多元性カルチャの「DNA縄文人」である『天皇』と新羅からの亡命渡来帰化人(非征服渡来人)の藤原氏との共同為政体制に変わります。「DNA縄文人」尾張氏である藤原氏は、鮮卑族和邇氏を疑似継承し、現中国北部系漢族の鮮卑族の単元性カルチャを覇権獲得の手段として導入します。
統一新羅下代(780年以降)の征服渡来人の「DNA匈奴金氏」王朝への王朝交代により、倭国と朝鮮半島の連枝した為政連合国体制は終焉します。
共通語の「DNA縄文人」語は、現中国北部系漢族鮮卑族の初期(北魏、隋、唐)の漢語を借用した日本語と、中世(明)の現中国北部系漢族の鮮卑族の漢語の言語系に変更した李氏朝鮮の朝鮮語は、別な言語系に分岐します。同じ漢字でも、導入した国と時期の違いから音韻が違うことになります。かつての面影は、双方の「DNA縄文人」語の自由な語順と膠着(コウチャク)語の文法に残ります。
そして、現代日本人と現代韓国人は、原住の「DNA縄文人」と大陸から渡来した「現中国北部系漢族」の交雑比率が違う、同じ混血系統の人類集団というDNAに残されます。
4-1-3.加羅国王は「DNA縄文人」
朝鮮半島南部の中心は、鉄業、海運貿易等による豊かな伽耶連合国で、その中の男王系の加羅国(現韓国金海市、通字:迦、加)と女王系の大賀羅国(現高霊郡、通字:賀、加)が盟主です。
慶州新羅は、伽耶連合国の一員であり、加羅国の下位であったと推測され、統一新羅下代の時代に史実が改ざんされたと推定されます。
1世紀から2世紀の頃は、加羅国と狗邪(クヤ)韓国が隣接して並存していました。
伽耶連合国、加羅国、大賀羅国は、日本列島から渡来した「DNA呉越系倭人混血縄文人」の尾張氏・大伴氏・物部氏、新羅王族庶子、日本列島から渡来した「DNA縄文人混血呉系倭人」朴氏、大陸から渡来した「DNA縄文人混血呉越系倭人」、大陸から渡来した「DNA鮮卑族和邇氏」、日本列島から渡来した「DNA鮮卑族前族」昔氏、大陸から渡来した「DNA匈奴」秦氏が混在した地域です。
184年に、金氏の宗主であった高句麗の「DNA匈奴休氏」ニニギ族・Y-DNA「O2a1c」は、「DNA匈奴金氏」・Y-DNA「O2a1a」である金首露王を報復侵攻しました。金首露王は、慶州新羅に避難移住し、新羅朴氏から王位を簒奪して、新羅第9代伐休尼師今(在位:184~196年)[=初代大国主・スサノオ]に就き、後世(借用)昔氏に捏造されて称します。慶州新羅は、辺鄙な貧国のため、かえって安全でした。
184年に「DNA匈奴金氏」の金首露[=スサノオ]が「DNA匈奴休氏」ニニギ族に追放された後、「DNA匈奴金氏」の加羅国を「DNA縄文人」の狗邪(クヤ)韓国が併合して、国名を加羅国としたと推定されます。
261年の高句麗・ニニギ族の報復再侵攻により、新羅借用昔氏朝(倭名は大国朝)の新羅第12代沾解尼師今(在位:247~261年)[=第4代大国主・八坂入彦=建御名方主]は滅ぼされます。
13世紀末に編纂された「三国遺事」の「駕洛国記」の加羅国王の王統譜の初代金首露王(在位:42~119年)は、在位期間が不自然に長く、古い建国とするために後世に捏造して挿入されたものです。
加羅国の第2代から第10代(末王)仇衡王/仇亥王(在位:521~532年)[=
第26代継体]は、「DNA呉系倭人混血縄文人」であると考えられます。中でも、第5代 伊尸品王(在位:346~407年)は、2022年のDNA解析より「DNA縄文人」であり、大伴氏と比定されます。第10代仇衡王(在位:521~532年)[=第26代継体]は、尾張草香の父(花郎世紀)[日本書記は異母兄弟に改ざん]であり、第11代仇亥王奴宗(在位:532~562年)は第10代仇衡王の甥であるので、「DNA縄文人尾張氏」と比定されます。
<「DNA匈奴金氏」、推定:後世に造作>
①初代:金首露王(在位:42~119年)
<「DNA縄文人」>
②第2代:居登王(在位:119~259年)
③第3代:麻品王(在位:250~251年)
④第4代:居叱彌王(在位:291~346年)
⑤第5代:伊尸品王(在位:346~407年)[大伴氏に比定]
⑥第6代:坐知王(在位:407~421年)
⑦第7代:吹希王(在位:421~451年)
⑧第8代:鉗知王(在位:451~492年)
⑨第9代:鉗知王(在位:492~521年) [王妃は、淑(第26代継体の母)]
⑩第10代(末王):仇衡王(在位:521~532年)[尾張氏、王妃は桂花(=尾張目子媛)]
⑪第11代:仇亥王奴宗(在位:532~562年)。
長男・奴宗。二男・武徳、三男・武力[=第29代欽明]の父は、第10代仇衡王の二男・新羅葛文王立宗=新羅・仇珍(新羅第23代法興王=尾張草香の実弟)です。
高句麗の「DNA匈奴休氏」ニニギ族が朝鮮半島南部に侵攻した251年頃から261年頃は、「DNA縄文人」の大伴氏が高句麗・「DNA匈奴休氏」ニニギ族の同盟軍に入っています。「DNA匈奴休氏」ニニギ族は、九州南部に最初に入島した時、「DNA縄文人」と共存共生したので、朝鮮半島南部に侵攻した時に、「DNA縄文人」には侵攻しませんでした。
300年頃から304年頃の「DNA鮮卑族慕容部」の同盟軍に大伴氏と物部氏が入っています。したがって、伽耶の「DNA縄文人」である部族および狗邪(クヤ)韓国、加羅国は、途絶えることなく原住の「DNA縄文人」の国が継続しています。
第26代継体は、新羅・尾張氏より高句麗王を譲位させられ、小国の慶州新羅第22代智証王 (在位:500~514年)に就きます。年をおいて、母が王妃となっていた加羅国第9代鉗知王(在位:492~521年)が歿したので、大国の加羅国第10代仇衡王(在位:521~532年)に就きます。尾張草香の娘の尾張目子媛が、慶州新羅王妃ではなく、加羅国王妃(史料では「妃」に改ざんと推測)に就いたことは加羅国が上位国であることを示唆しています。
532年、三国史記新羅本記は、新羅第23代法興王 (在位:514〜540年)[=尾張連草香]は、父の加羅国第10代(末王)仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)[=第26代継体=新羅第22代智証王 (在位:500~514年)=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)]を伽耶・新羅より追放し、独立な支配権をもった新羅王族分国の加羅国を新羅に併合したとされています。そして、加羅国第10代(末王)仇衡(キュウコウ)王の継承者に「金氏」を許可したと記しています。この記述には不自然さがあり、後世に「DNA縄文人」を「金氏」に称するように捏造されたものです。
「DNA縄文人」尾張氏である新羅第23代法興王 (在位:514〜540年)[=尾張連草香]は、父の継嗣(長男)でありながら高句麗王(物部氏外戚系尾張氏が継承)にも加羅国王(物部氏外戚系尾張氏が継承)にも継承できず、昔に「DNA匈奴金氏」が治世していた小国の慶州新羅王に就かざるを得ませんでした。当時は、加羅国が大国で、慶州新羅は下位な小国です。新羅第23代法興王に倭王「天皇」の称号が与えられていないことは、新羅第23代法興王の王位正統性の欠如と新羅が加羅国の属国であることを示唆しています。
当初、金首露が新羅で「昔氏」を称したと史料通りに思っていましたが、これも、後世の統一新羅下代での「DNA匈奴金氏」の渡来征服王朝が編纂した新羅本記において、改ざんしたものと推測されます。
4-1-4.新羅第22代智証王(在位:500~514年)[=第26代継体]は日本出自の「DNA縄文人」
「日本書紀 巻第十七 継体天皇」に、「継体天皇の元からの妃は、尾張連草香[=新羅第23代法興王(在位:514~540年)]の娘の目子媛[=新羅摂政・只召(チソ)太后=加羅国第10代仇衡王妃・桂花]、またの名を色部。」、「同巻第十八:安閑天皇 宣化天皇」に、「勾大兄広国押建金日天皇[=第27代安閑天皇=高句麗第22代安蔵王(在位:498~531年)]は、継体天皇の長子である。母を目子媛という。」と記載されています。
新羅第22代智証王=第26代継体以降も史料は「金官加羅国」や「金氏」と記載されていますが、これは、統一新羅外代の「DNA匈奴金氏」の征服渡来王朝が自己の王朝の正当性を粉飾するために改ざんしたものです。本書は「金官加羅国」は本来の「加羅国」に、「金氏」は本来「DNA縄文人」であるので削除しました。
先代旧事本記を基にした愛知県・尾張国の「尾張弟彦の系図」の中に、尾張弟彦[=新羅葛文王(官位1等官)習宝=彦主人(ヒコウシ)王]の子は尾張岐閉(キヘ)[=新羅第22代智証王(在位:500~514年)=袁本杼(ヲホド)命(古事記)=第26代継体(450年頃生~552年頃歿)] 、その長男が尾張草香[=新羅第23代法興王(在位:514~540年)]、その娘が尾張目子媛[=新羅摂政・只召(チソ)太后=加羅国第10代仇衡王妃・桂花]という系図があります。尾張弟彦、尾張岐閉(キヘ)、尾張草香、尾張目子媛は、倭国と新羅の両方に別名で記載されている「DNA縄文人」尾張氏です。
新羅王金氏の一系性があるとされている新羅王統譜の中で二人だけ尾張氏の別名をもっている王族、つまり、加羅国を併合した新羅第23代法興王(在位:514~540年)=尾張連草香とその娘の尾張目子媛=新羅真骨正統祖の新羅摂政・只召(チソ)太后がいましたが、当初二人だけであるので、父系氏族名でなく、母系氏族名に由来していると片づけていました。
愛知県・尾張国は、国譲り前の出雲王朝の尾張氏と女王・宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)の一族が、出雲・但馬、そして、畿内・大和を追われた後に居住した昔からの尾張氏の領国です。
この事実は、新羅第23代法興王(在位:514~540年)[=尾張連草香]の父(花郎世紀)、あるいは、異母兄(日本書記)の新羅第22代智証王(在位:500~514年)[=第26代継体]にも波及し、更に、以後の新羅王統の「DNA種族」は「DNA縄文人」となります。
新羅第33代聖徳王時代(702~737年)に官吏だった「DNA縄文人」尾張氏である新羅貴族・(金)大問が704年(日本は飛鳥)時代)に執筆した「花郎世紀」に記載されている詳細な新羅王系譜と愛知県・尾張国尾張氏系図を基に、新羅第22代智証王(在位:500~514年)[=第26代継体]から新羅第30代文武(ブンブ)王(在位:661~681年)[=第42代文武]までの血族系譜を調べました。「花郎世紀」の系譜は、三国史記新羅本記や日本書記と多くが異なるものでしたが、全体の系譜体系との整合性があり、より真実性がありました。(注:「花郎世紀」は日本の宮内庁書陵部が秘蔵。戦前に宮内庁職員であった朴昌和が密かに書き写していたとされる筆写本を1955年に韓国・西江大の李鐘旭教授が入手したものが1989年に再発見された。)
解析結果は、表21に示すように、新羅第22代智証王(在位:500~514年)[=第26代継体=袁本杼(ヲホド)命(古事記)]以降の新羅王統は、「DNA呉系倭人混血縄文人」の血族系でした。
そして、「継体」とは「DNA匈奴金氏」である第16代仁徳の「体(金氏)の継承」の意となりますが、これは後世の捏造です。漢風諡号「継体天皇」は淡海三船が奈良時代後期に名付けた漢風諡号で、実際に袁本杼(ヲホド)命(古事記)本人が、第16代仁徳の「体(金氏)を継承」したことも「金氏を借用」したこともありません。これは、後の統一新羅外代の「DNA匈奴金氏」の渡来征服王朝が過去の新羅王朝を「金氏」化した改ざんを、淡海三船が漢風諡号で表現したことに由緒があります。この新羅第22代智証王 (在位:500~514年)[=第26代継体]以降を「金氏」とした捏造は、統一新羅外代の780年に征服渡来した「DNA匈奴金氏」王朝が、三国史記新羅本記を編纂するにあたって、「DNA縄文人」の新羅王統を「金氏」に改ざんしたものと推測されます。
三国史記新羅本記は、532年、新羅第23代法興王 (在位:514〜540年)[=尾張連草香]は、父の加羅国第10代(末王)仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)[=第26代継体=新羅第22代智証王 (在位:500~514年)=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)]を伽耶・新羅より追放した時に、加羅国第10代(末王)仇衡(キュウコウ)王の二男の一族に「金氏」を許可したと記していますが、後世の捏造記事です。
本論は記紀と新羅が編纂した三国史記原版は倭国と統一新羅が協調していろいろと隠蔽・改ざんしたものであることを明らかにしましたが、新羅にも同様な隠蔽事情があることがより明白になりました。三国史記新羅本記の新羅王統譜の中に、明らかに社会的系譜であって血統系譜が疑わしい人が多く、新羅王と現代韓国人のDNA解析によらなければ、真実がわからないレベルです。それは、約6000年前の朝鮮半島原住人と400年頃の加羅国王の遺骨の近年のDNA解析結果が、予想と反して「DNA縄文人」であったことに関連していることです。
最近のDNA解析からは、紀元前4300年前の大韓民国釜山広域市江西区の加徳島にある釜山獐項遺跡の人骨は、無人の朝鮮半島に日本列島から渡来した朝鮮半島原住の「DNA縄文人」でありました(第五部第5-2章)。
また、2022年、韓国ゲノミクスセンター蔚山国立化学技術研究所などの協力を得て、オーストリアのウィーン大学が400年頃の加羅王の王陵(朝鮮半島南部金海市に位置する大成洞古墳)の人骨をDNA解析したところ、日本列島から渡来した「縄文人」でした(第五部第5-4章)。
2022年の核ゲノムの主成分分析図から現代韓国人の人類集団は、日本列島から渡来した原住の「DNA縄文人」と大陸から渡来した現中国北部系漢族との混血集団で、現代日本人とは混血比率の違う同系統の混血集団でした。つまり、現代韓国人は、現代中国人とは別な混血集団の系統でした。
以上のことは、倭国と新羅の為政者が「DNA縄文人」の同体家族であり、倭国と四韓は「DNA縄文人」の連枝した「為政連合体」であったことを示しています。「為政連合体」は、伽耶が最後まで統一集権国家に移行しなかったことと同じ原因で、「非中央集権の分散した連合国家」である「DNA縄文人」カルチャに起因しています。倭国と四韓の男王は、基本が父系系譜の同族の別人ですが、倭国『大后』と三韓の「王妃」は基本が母系系譜の同一人です。
倭国『大后』と三韓の「王妃」である非政事為政統括者は、安全な倭国と本貫の伽耶・新羅の二拠点体制をとります。スサノオやアカル姫が言うように「倭国は三韓の母の国」になります。
4-1-5.新羅第23代法興王(在位:514~540年)=尾張草香は愛知県・尾張国の「DNA縄文人」の系譜者
愛知県・尾張国の「DNA縄文人」である尾張弟彦[=新羅・宝海]の系譜が残されています。愛知県・尾張国の尾張弟彦の系譜は、図1に示すように、子が尾張岐閉(キヘ)、その子が尾張草香、その娘が尾張目子媛です。
新羅「花郎世紀」は、新羅第33代聖徳王(在位:702~737年)時代に官吏だった新羅貴族・尾張氏(金)大問が704年に執筆したもので日本の宮内庁書陵部が秘蔵していました。戦前に宮内庁職員であった朴昌和が密かに書き写していたとされる筆写本を1955年に西江大の李鐘旭教授が入手したものが1989年に再発見されました。

図1.愛知県・尾張国の「DNA縄文人」である尾張弟彦[=新羅・宝海]の系譜
出典:https://www.his-trip.info/keizu/ow01.html。2024年3月10日、しだみゅー歴史セミナー記念講演会「尾張連草香の國ー尾張氏が王権とその歴史の舞台に登場する時代―」しだみ古墳群ミュージアム主催・愛知県立大学協力で実施する歴史講演会のNet資料.
愛知県・尾張国尾張氏系図と新羅の「花郎世紀」を照合すると、尾張国の尾張弟彦の系譜は、新羅人系譜でもあります。
①第1世代:尾綱根(オツナネ)命。
[父:建稲種(タケイナタネ)命(先代旧事本記)、母:玉姫(先代旧事本記)]
②第2世代:尾張弟(オト)彦=新羅・宝海=新羅葛文王(官位1等官)習宝=彦主人(ヒコウシ)王。
尾張弟彦の兄弟に「尾張名根」、「尾張竟乎己」がいます。
③第3世代:尾張岐閉(キヘ)=新羅葛文王(官位1等官)習宝=第26代継体。
④第4世代:尾張草香=新羅第23代法興王(在位:514~540年)。
⑤第5世代:尾張目子媛=新羅朴氏摂政只召(チソ)太后=新羅・息道夫人=加羅国第10代仇衡王(=第26代継体)王妃・桂花。
三国史記新羅本記は、532年に伽耶国第10代(末王)仇衡(キュウコウ)王仇亥(在位:521~532年)が新羅第23代法興王[=尾張連草香]に降伏し、妻子と共に新羅の王都に遷され、貴族である真骨身分と「金姓」を与えられたと改ざんしています。「DNA縄文人」である新羅王が「金姓」を借用した源初を、加羅国第10代(末王)仇衡(キュウコウ)王仇亥(在位:521~532年)[=第26代継体]にしています。
「DNA縄文人」尾張氏は、三国史記新羅本記では「DNA匈奴」金氏を称していますが、「DNA縄文人」尾張氏でした。第26代継体以降は、「DNA匈奴金氏」ではなく「DNA縄文人」です。780年以降の金氏征服渡来王朝が三国史記編纂時に改ざんしたもので、継体朝自身が金氏を借用したものではありません。
新羅王の公式系譜では、新羅・法興王は父母未詳とされ、娘の新羅朴氏摂政只召(チソ)太后の母も未詳とされています。
尾張目子媛(仮推測:510年頃生まれ)は、新羅・真骨正統の祖で、加羅国第10代仇衡王(在位:521~532年)[=第26代継体(450年頃生まれ)]の王妃・桂花、新羅摂政・朴氏只召(チソ)太后[新羅第24代真興王(在位:540~576年)]、新羅・息道/保道夫人と同一人です。「花郎世紀」によれば、尾張目子媛は、母が「母系DNA縄文人呉系倭人」である新羅・朴氏保道夫人/保刀夫人、父が「DNA呉系倭人混血縄文人尾張氏」である新羅第23代法興王(在位:514~540年)=尾張草香、母方祖母が「母系DNA縄文人混血呉系倭人」である手白香皇女(仮推定:480年頃生)=春日娘子=新羅・善兮夫人です。尾張目子媛が、朴氏只召(チソ)太后で「朴氏」と称されるのは、母系の「母系DNA縄文人混血呉系倭人」によるものです。
尾張目子媛の子は、新羅第24代真興王(在位:540~576年)(534生~576年歿)=高句麗第23代安原王(在位:531~545年)=第28代宣化(センゲ)で、第24代真興王の父は新羅第23代法興王の実弟の新羅・仇珍です(花郎世紀)。尾張目子媛(仮推測:510年頃生)の15歳頃の初婚相手は、80歳位の「DNA縄文人」尾張氏である加羅国第10代仇衡王(在位:521~532年)[=第26代継体(推測:450年頃生~552年頃歿)]です。尾張目子媛は、高句麗王妃に就いたことはありません。
4-1-6.新羅第22代智証王 (在位:500~514年)[=第26代継体]以降の新羅王は同一血族の「DNA縄文人」尾張氏
新羅王統は、新羅第13代金氏味鄒(ミスウ)尼師今(在位:262~284年)以降、「DNA匈奴金氏」の王統とされてきましたが、最近、加羅国の400年頃[推定:加羅国第5代:伊尸品王(在位:346~407年)]の王陵級遺骨のDNA解析と、尾張国・尾張氏系図と新羅・「花郎世紀」の解析より新羅第22代智証王 (在位:500~514年)[=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)=第26代継体]以降は「DNA縄文人」であることが見出されました。これに伴って、高句麗王、百済王も「DNA縄文人」となります。
三国史記新羅本記では、新羅王初代から第8代までは日本列島から渡来した「DNA縄文人混血呉系倭人」朴氏と「DNA鮮卑族前族」昔氏です。新羅第9代[=金首露]から第13代までは「DNA匈奴金氏」の借用昔氏(和名は大氏)です。新羅第14代から第16代までは新羅王空位時代に捏造挿入した「DNA匈奴金氏」、および、「DNA匈奴金氏」の借用昔氏(和名は大氏)、「DNA鮮卑族慕容部」の借用昔氏です。新羅第17代[=第16代仁徳]から第20代までは「DNA匈奴金氏」朝です。
新羅王朴氏の祖は、「DNA縄文人混血呉系倭人」である源流出雲王朝大首長と九州・筑紫の早良(サガラ)国王です。「DNA鮮卑族前族」昔氏である新羅第4代脱解尼師今(在位:57~80年)[=高句麗第3代(解氏)大武神(タイブシン)王(在位:18~44年)]は、日本列島現兵庫県但馬から朝鮮半島に渡来しました。
新羅第22代智証王[=第16代継体]から新羅第29代武烈王(在位:654~661年)(602年生~661年歿)(新羅18世風月主)までの王統を「花郎世紀」を中心に、尾張国尾張氏系図を合わせて、新羅名、倭国名、父系男系系譜、母系女系系譜をまとめたものが、表22(a)(b)(c)です。
表22.「花郎世紀」と尾張国・尾張氏系図による新羅第22代智証王[=第26代継体]から新羅第29代武烈王までの新羅王と新羅王妃の系譜
(注)[ ]内は、著者による同一人および関連情報です。
表22(a)新羅王と関係王の系譜

表22(b)母系継嗣の新羅王妃の系譜

表22(c)母系庶子の新羅王妃、妃の系譜

①第1世代:新羅第22代智証王(在位:500~514年)[=第26代継体=尾張岐閉(キヘ)]、
②第2世代(長男):新羅第23代法興王(在位:514~540年)[=尾張草香]、
③第3世代(第23代法興王の実弟の子):新羅第24代真興(チノン)王(在位:540~576年)[=第28代宣化]、
④第4世代(子):新羅第25代真智王金輪(廃位)、
⑤第5世代(子):新羅第26代真平王(在位:579~632年)、
⑥第6世代(新羅第25代真智王の孫):新羅第29代武烈王春秋(602年生~661年歿)、
⑦第7世代(子):新羅第30代文武王(626年生~661年歿)[=第42代文武]。
以上のように血族系譜は続き、同じ「DNA呉系倭人混血縄文人」尾張氏を示しています。
新羅王には就きませんでしたが、③第3世代(新羅第23代法興王の実弟の三男):第29代欽明[=新羅・粛訖宗(スックルチョン)=加羅・武力=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=百済第26代聖王(在位:523~554年)=西突厥・シルジブロス(室點密可汗(在位:562年~576年)]、④第4世代(第29代欽明の子):第34代舒明(ジョメイ)[=加羅・舒玄(577年頃生~641年歿)=新羅将軍・舒玄=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=百済第30代武王(在位:600~641年)]です。つまり、第29代欽明、第34代舒明は「DNA呉系倭人混血縄文人」尾張氏です。
倭国『大后』=新羅王妃の皇統を考察した系譜を表22(b)に示します。ただし、世代数は、相対的世代数です。
<父が「DNA鮮卑族」系の『王妃、大后』>
①第1世代:新羅王妃・玉珍(オクチン)娘主[新羅第21代炤知(ショウチ王(在位:479~500年)=第25代武烈]=春日和珥童女君(カスガ・ワニ・オミナ・ギミ)。
②第2世代(娘):春日大娘皇女(464年生~526年歿)=高句麗王妃[高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)=第26代継体]
③第3世代(継嗣娘):手白香皇女(仮推定:480年頃生)=高句麗王妃[高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)=第26代継体]=新羅王妃・善兮皇后[新羅第22代智証王(在位:500~514年)=第26代継体]=春日娘子。
<父が「DNA匈奴金氏」系の『王妃、大后』>
④第4世代(継嗣娘):(推測)忍坂大中姫(オシサカノオオナカツノヒメ]新羅朴氏保道/保刀/保反夫人(仮推測:495年頃生)=新羅・延帝皇后=新羅・普賢公主(花郎世紀)。
⑤第5世代(継嗣娘):近江国・振(フル)媛=新羅・鳥生夫人=加羅国王妃・淑[加羅国第9代鉗王(在位:492~521年)。
<父が「DNA縄文人」系の『王妃、大后』>
⑤第5世代(継嗣娘):尾張目子媛(仮推測:510年頃生)=新羅摂政只召(チソ)太后[新羅第24代法興王(在位:514~540年)]=新羅・息道夫人(生没年未詳)=加羅国王妃・桂花[加羅国第10代仇衡王(在位:521~532年)=第26代継体]。
⑥6世代(継嗣娘):皇太夫人・蘇我堅塩媛(535年頃生~614年歿)=金珍娘主/金珍宮主=新羅・阿陽公主=新羅・万呼(マノ)太后=新羅朴氏思道(サド)太后(?~614年歿)。
⑦第7世代(継嗣娘):額田部皇女(554年生~628年歿)=高句麗王妃額田部皇女[高句麗第25代平原王(在位:559~590年)=第31代用明=物部(蘇我)馬子]=サーサーン朝ペルシア帝国女王(推測:マリア)[サーサーン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー二世(在位:590~628年)=物部(蘇我)馬子]=新羅王妃摩耶娘主[新羅第26代真平王(在位:579~632年)]=百済先王妃・善花[百済第30代武王(在位:600~641年)]=第33代推古B額田部皇女=新羅・善花公主。
⑧第8世代(継嗣.双子姉娘):宝皇女(593年生~661年歿)=(長姉)新羅・宝姫娘主=新羅・萬明公主[新羅第26代真平王(在位:579~632年)]=(幼名)新羅・阿之=百済後王妃・宝公主[百済第30代武王(在位:600~641年)]=新羅後王妃・涓花夫人[新羅第29代武烈王春秋(602年生~661年歿)=(姉)蘇我遠智娘(オチノイラツメ)=第35代皇極B宝皇女。
⑧第8世代(双子妹娘):新羅第27代善徳女王徳曼(在位:632~647年)(593年生~647年歿)。
⑨第9世代(継嗣娘):間人(ハシヒト)皇女 (仮推定生年:△613年頃~665/667年歿)=高句麗太子妃[物部(蘇我)入鹿(仮推定生年:△608年頃~△642年歿)]=百済王妃・木恩古[百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)]=新羅先王妃[新羅第30代文武(ブンブ)王(在位:661~681年)]=中宮皇后。
⑩第10世代(継嗣娘):新羅・瑶石公主(生没年未詳、仮推定生年:△628年頃)。
⑪第11世代(継嗣娘):新羅後王妃・慈儀王妃(661年生~721年歿)[新羅第30代文武王(在位:661~681年)(626年生~661年歿扱い)=第42代文武(在位:697~707年)]=第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)。
⑫第12世代(継嗣娘):(女帝)第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)(680年生~748年歿)。
以上のように、倭国『大后』=新羅王妃『王妃』は、父が幾つかの異なる皇統系統の母系血族です。その記紀での画期は、倭王「大王」、新羅王同様に、新羅第22代智証王(在位:500~514年)=第26代継体にあります。記紀では、新羅第22代智証王(在位:500~514年)=第26代継体の時に、「DNA匈奴金氏」系から「DNA縄文人」系に王朝が変わります。第26代継体以降から現在まで、「DNA縄文人」の皇統の系譜となります。
新羅第22代智証王の『大后、王妃、妃』は、父が「DNA匈奴金氏」系の母系継嗣と「DNA縄文人」系の母系庶子の『王妃、大后』が同存し、『王妃、大后』の父系が交替する皇統・王統となります。
第27代安閑(アンカン)=高句麗第22代安蔵(アンゾウ)王(在位:498~531年)以降、『大后、王妃』の父は「DNA縄文人」系となります。
4-1-7.高句麗第21代[=第26代継体]から高句麗第27代(末王)[=第35代皇極]までは「DNA縄文人」
表23.「DNA縄文人」である高句麗王のリスト

加羅出自で三韓の盟主の高句麗王についたのは、最初が「DNA匈奴金氏」である第16代仁徳=高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)です。「DNA匈奴金氏」の高句麗第19代安氏広開土王(在位:391~412年「=第16代仁徳」は、「DNA氐(テイ)族馮(フウ)氏」・Y-DNA「O2a(M122)」である高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王(在位:427~492年)により高句麗王を追放されます。
「DNA氐(テイ)族馮(フウ)氏」である高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王(在位:427~492年)の歿後、「DNA縄文人」尾張氏である高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)[=第26代継体]は、伽耶・百済の大伴氏と物部氏と組んで、高句麗王を簒奪します。
高句麗第21代[=第26代継体]から高句麗第27代(末王)[=第35代皇極]までは、「DNA縄文人」尾張氏と「DNA縄文人」物部氏の高句麗朝です。
4-1-8.百済第26代聖王[=第29代欽明]から百済第31代(末王)義慈王[=第36代孝徳]までの百済国王は物部氏外戚系の「DNA縄文人」尾張氏
表24.「DNA縄文人」である百済王のリスト

523年、「DNA匈奴金氏」である百済第25代武寧(ブネイ)王歿後、加羅国第10代(末王)仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)=第26代継体]の甥の「DNA縄文人」尾張氏である加羅・武力=新羅・粛訖宗(スックルチョン) [=第29代欽明]が百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)[=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)]に就き、以後、百済「DNA縄文人」朝となります。
4-1-9.「DNA縄文人」の第29代欽明(506年生~576年歿)は中央アジア・突厥の第二根拠地を継承
匈奴と鮮卑族は、中央アジアと北東アジアが祖地で、白人の血も入っています。鮮卑族は北方系匈奴と南方系の両方の文化をもちます。
中国では、鮮卑族慕容部・Y-DNA「O2a2b1a1(M117)」の人は、特別に肌が白く、「白部鮮卑」とか「白捕虜(白虜/白賊)」とか呼ばれました。鮮卑族慕容部の燕人は、ペルシア人風の風貌があったとの話があります。鮮卑族慕容部は、西の中央アジア(エフタル、突厥系)と東アジア(中国東北部、朝鮮半島、日本列島)に分岐し、相互に緊密な往来関係があったとみられます。(黄、厚生、李『慕容燕国史話』 吉林人民出版社 2006年)
「DNA匈奴金氏」・Y-DNA「O2a1a系」と「DNA鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b系」は、「DNA縄文人」・Y-DNA「D1b2a系」の第26代継体以前の記紀の前期皇統を輩出した部族とされました。
「DNA縄文人」尾張氏の第29代欽明(506年生~576年歿)は、「DNA匈奴」と「DNA鮮卑族」の祖地の西の中央アジア(エフタル、突厥系)を第二根拠地として受け継ぎます。
第29代欽明=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)は、西突厥シルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)に就きます。
言語学者の大野晋(1919年生~2008年歿)によると、第29代欽明の諡号「アメクニオシハルキヒロニワ」は、天地開闢(テンチカイビャク)を意味し、ある系統の大王家の初代である可能性が強いとしています。つまり、第29代欽明は、「DNA縄文人」が中央アジア・突厥を継承した祖王であることを意味しています。
加羅国第10代仇衡(キュウコウ)王[=第26代継体]の長男が新羅第23代法興王=尾張草香、二男が新羅葛文王立宗です。新羅葛文王立宗の子は、長男・奴宗[=加羅国第11代奴宗(在位:532~562年)]、二男・武徳、三男・武力[=第29代欽明]です。長男の奴宗が加羅国を継承します。三男の武力[=第29代欽明]とその後継者の達頭[=聖徳太子]等が中央アジア(エフタル、突厥系)を継承します。
因みに、突厥(トッケツ)、鉄勒(テツロク)は、いずれも「トルコ=テュルク」の中国形成漢字です。
以下は、中央アジア(突厥)に由縁がある人達です。
・「DNA匈奴金氏」の第16代仁徳:
成人になり、鮮卑族慕容部の前燕に仕官します。古代イランの王朝である安息国=パルティア(紀元前247年~紀元後224年)の後裔を自ら任じ、安氏高句麗第19代広開土王(在位:391〜413年)を名乗りました。
・「DNA縄文人」尾張氏の第26代継体:
成人になり、北魏と中央アジアの柔然に出ます。追諡と推定される西突厥の大葉護(ヤブグ:官名)吐務(トム)(在位:552年)[=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)=新羅第22代智証王(在位:500~514年)=加羅国第10代(末王)仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)]に就きます。
・第26代継体の長男の土門(古テュルク語:ブミン):
大葉護吐務[=第26代継体]の長男の土門は、突厥初代大可汗・伊利(イリ)可汗(在位:?~552年)に就きます。
・第26代継体の甥の第29代欽明:
新羅葛文王立宗の三男の加羅・武力[=第29代欽明=新羅・粛訖宗(スックルチョン)=新羅・魏花=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=百済第26代聖王(在位:523~554年)=蘇我稲目(506年生~576年歿)]が、西突厥のシルジブロス/室點密可汗(在位:562年~576年)に就きます。
・第29代欽明と尾張目子媛の子の蘇我堅塩(キタシ)媛:
蘇我堅塩(キタシ)媛(532年頃生)[=新羅・阿陽公主=物部氏宮古郎女=弓削阿佐姫(父は物部弓削倭古=第29代欽明)=新羅・阿陽公主]は、父が第29代欽明=蘇我稲目(506年生~576年歿)=加羅国武力=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562年~576年)、母が尾張目子媛(仮推測:510年頃生)=加羅国王妃・桂花=新羅・息道夫人=新羅摂政・只召(チソ)太后です。
サーサーン朝ペルシア帝国第13代皇帝ホスロー1世(在位:531~579年)は、蘇我堅塩(キタシ)媛の入り婿です。ローマ王国の史料によるとサーサーン朝のホスロー1世は、西突厥のシルジプロスの女婿になって、突厥の助力のもと、558年、エフタル勢を一掃しました。(引用文献:小林恵子『興亡古代史 東アジアの覇権争奪1000年』 文藝春秋 1998年 より)
・蘇我堅塩(キタシ)媛の子の第31代用明A物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿):
高句麗第25代平原王(在位:559~590年)=第31代用明(ヨウメイ)=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)=物部馬古/宇麻子(先代旧事本紀)は、サーサーン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)に就きます。
587年、物部(蘇我)蝦夷の誕生祝いで高句麗を訪れた『大連』物部守屋が、高句麗第25代物部(蘇我)氏平原王(在位:559~590年)[=物部宗本家15代物部宇麻呂=第31代用明]に暗殺されます。その後、高句麗第25代平原王=物部(蘇我)馬子は、自責をとって中央アジアに永久移住します。
628年(馬子は77歳、達頭は75歳位)、サーサーン朝ペルシア帝国ホスロー2世(在位:590~628年)[=物部宗本家第15代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子]は、息子のカワード2世(在位:628年)によって処刑されました。カワード2世は、590年生まれで、母はマリア[=(推測)額田部皇女]です。
628年、カワード2世(在位:628年)の子のサーサーン朝皇帝アルダシール3世(在位:628年9月6日~630年4月27日)(621年生~ 630年4月27日歿) が就きました。
法隆寺の救世(グゼ)観音の冠は、サーサーン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)[=物部(蘇我)馬子]の王冠で、サーサーン朝ペルシア帝国第17代皇帝シャフルバラーズ(在位:630年)[=達頭]も着用したものと推測されます。法隆寺夢殿の本尊・観音菩薩立像(救世観音)が、達頭の女系孫娘である中宮皇后[=間人(ハシヒト)皇女]の中宮寺にある由縁です。救世観音は、達頭というよりは、物部(蘇我)馬子がモデルである方が自然と思われます。「DNA縄文人」は、長身です。
トルコ国の現在も伝えられている伝承の「自分たちと日本人は同じルーツを持つ東と西に分かれた“兄弟”だ」は、サーサーン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)=第31代用明(ヨウメイ)=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)=物部馬古/宇麻子(先代旧事本紀)等と関係していると思われます。
・第29代欽明と蘇我堅塩(キタシ)媛の子の額田部皇女(554年生~628年歿):
額田部皇女(554年生~628年歿)は、物部宗本家第15代物部馬古/宇麻子(先代旧事本紀)[=高句麗第25代平原王(在位:559~590年)=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)=第31代用明(ヨウメイ)]の伴侶で、高句麗第25代平原王(在位:559~590年)の高句麗王妃であり、高句麗第25代平原王(在位:559~590年)[=サーサーン朝ペルシア帝国第15代皇王ホスロー2世(在位:590~628年)]の中央アジアの永久移住に同行します。
額田部皇女(554年生~628年歿)は、サーサーン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)の王妃(推測:王妃マリア)になります。
ホスロー2世が、アラム人もしくはアルメニア人の皇女シーリーン(英語版)と熱愛したので、額田部皇女(554年生~628年歿)は、双子の宝皇女(593年生~661年歿)と徳曼[=新羅第27代善徳(ソンドク)女王(在位:632~647年)]をつれて帰国します。
・第29代欽明の子の達頭(553年頃生~630年歿):
第29代欽明(=蘇我稲目)が高句麗王と百済王の時に、新羅・太陽公主=穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女(622年歿)との子の達頭(553年頃生~630年歿)[=第33代推古A達頭=聖徳太子]が誕生します。穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女の「間人はペルシアの意」が示すように、達頭(553年頃生~630年歿)は、穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女が551年にペルシアから高句麗に帰国した時の子です。穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女=新羅・太陽公主は、母が石上氏蘇我小姉君(612年歿)=弓削加波流(カハル)姫=新羅・金珍娘主、父が第29代欽明です。
加羅・達頭[=第33代推古A達頭=聖徳太子]は成人になり、中央アジアの柔然と西突厥に出ます。達頭は、父・西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562年~576年)[=第29代欽明]の後継者として、西突厥第2代西面可汗・達頭可汗(タットウ・カガン)阿史那氏玷厥(テンケツ)(在位:576年~603年)に就きます。その後、達頭は、物部宗本家第15代物部馬古/宇麻子(先代旧事本紀)=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)の腹心として、サーサーン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)[=物部(蘇我)馬子]のシャフリバザール宰相・将軍となります。ホスロー2世(在位:590~628年)が歿後、シャフリバザール宰相・将軍[=達頭]は、皇位を剥奪してサーサーン朝ペルシア帝国皇帝シャフルバラーズ(在位:630年4月27日~630年6月9日)に就きますが、すぐにサーサーン朝の貴族によって殺害されました。
皇帝シャフルバラーズ(在位:630年)=達頭の子が、サーサーン朝ペルシア帝国皇帝を継ぎます。
・額田部皇女と達頭の双子の長女・宝皇女(593年生~661年歿):
ホスロー2世=物部(蘇我)馬子が、皇女シーリーン(英語版)と熱愛したので、額田部皇女(554年生~628年歿)は、593年頃に達頭に守られてペルシアを離れます。
額田部皇女(554年生~628年歿)=新羅・摩耶王妃には、第2代西面可汗・達頭との間に、中央アジア生まれの双子の長女・宝皇女(593年生~661年歿)=新羅・万明王女と双子次女の新羅第27代善徳(ソンドク)女王(在位:632~647年)徳曼がいました。
新羅では、新羅・万明王女[=宝皇女]の父は、新羅第26代真平(チンピョン)王(在位:579~632年)としています。
宝皇女が、日本書紀で唯一父が記載されなかった由縁です。
・額田部皇女と達頭の双子の次女の徳曼[=新羅第27代善徳(ソンドク)女王(在位:632~647年)]:
徳曼(593年生~647年歿)は、新羅王公系譜では生歿年が未詳とされます。韓国には、新羅・万明王女と善徳(ソンドク)女王が双子である史料があるようです。新羅の公系譜では、徳曼の父は、第26代真平王(在位:579~632年)、母が新羅・万明王女とされています。
・第33代推古A達頭の子の山背皇子:
山背皇子は、達頭=聖徳太子の中央アジアの継嗣です。
山背皇子の母は、宝皇女(593年生~661年歿)です。
山背皇子は、サーサーン朝ペルシア帝国第19代末王皇王ヤズドガルド3世(在位:632~651年)に就きます。
記紀は、643年に山背皇子一族は、物部(蘇我)入鹿により斑鳩(イカルガ)宮を襲われ、一族皆自害したと常套手法で改竄しています。当時は通い婚であり、斑鳩(イカルガ)宮は、宝皇女、娘の間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)=中宮皇后の大和の『大后』宮です。
・山背皇子の子のベローズ3世(中国名:卑路斯)[在位(亡命中):651~679年]:
ベローズ3世(中国名:卑路斯)[在位(亡命中):651~679年]は、唐の将軍を務め、中国の領土に居住し、祖母・宝皇女(593年生~661年歿)を訪ねて二度来島します(日本書記に記載されている)。
「ペルシア」の意である「間人(゙ハシヒト)」の別名を持っている系譜∶
「間人(゙ハシヒト)」の別名を持っているのは、穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女=新羅・太陽公主、穴穂部間人王子=達頭=西突厥の阿史那(アシナ)氏玷厥(テンケツ)、間人(ハシヒト)皇女(生年不詳~665年歿)(第36代孝徳の『大后』)=中宮皇后=百済王妃・(隠名)木恩古(モクウンゴ)(百済第31代義慈王の王妃)です。
以上のことは、「DNA縄文人」尾張氏である第26代継体以降の中央アジアやペルシアでの活動していた事実が、体系的に成立している論理的事実であることを示唆しています。
4-1-10.現代日本人と現代韓国人は混血比率の違う同系統の混血集団
(注)主成分分析
統計モデル手法の一つで、計算機を使用してデータを学習し、そのパターンを推測することで任意の課題を効率的に実行するためのアルゴリズムの機械学習を応用して、次元削減、すなわち各個人の数千万箇所に及ぶゲノム多型データ(数千万次元のデータ)をなるべく本質的な情報量を保ちつつ2次元に効率的に削減し、平面に視覚化する課題を実行する分析法です。X軸とY軸の物理的意味はなく、解析者により異なる任意の変数軸となります。

図2.核ゲノム主成分分析による混血集団の系統
出典元:出村政彬(編集部)「ゲノムで見る躍動の弥生時代」 日経サイエンス、2024年2月号。
斎藤成也 (国立遺伝学研究所 集団遺伝研究室)「遺伝子解析から見た東アジアの民族関係 」https://www.youtube.com/watch?v=nb5euntzGa0
図2は、篠田謙一等による2024年のゲノム主成分分析による混血集団の系統を示すものです。現代日本人と現代韓国人の集団は、原住の縄文人と大陸から渡来した北方系漢族との比率が違う交雑で生じた同系統の混血集団でした。
韓国人が、日本人より「現中国北部系漢族」の比率が高いのは、朝鮮が統一新羅外代の780年以降、現中国北部系漢族の征服渡来王朝であったことに因ります。従来説のような、韓国人は、現中国人系の混血集団の系統ではありませんでした。
これまで人類・考古学界の一部では、言語・風習・容姿などの共通点が多いことから、朝鮮民族の祖は、アルタイ山脈に始まり、モンゴルと満州の原野を越えて朝鮮半島に入ってきた北方民族であると推定されてきました。ゲノム科学の判断は、これを否定するものでした。
弥生時代後半の福岡県安徳台遺跡(弥生中期)の弥生人女性のゲノム分析は、弥生渡来人は縄文人の遺伝子を既に持っていました。つまり、朝鮮半島で交雑したか、日本回帰したかです。
日本と朝鮮半島の初期に渡来した非征服者の「DNA匈奴金氏」、「DNA鮮卑族和邇氏」、「DNA鮮卑族拓跋部」、「DNA鮮卑族慕容部」、「DNAツングース系」・Y-DNA「C1系」と、統一新羅外代の「DNA匈奴金氏」王朝、高麗の「DNA鮮卑族宇文部」王朝、李氏朝鮮の「DNA鮮卑族拓跋部」王朝の征服渡来者は、同系の「DNA種族」であることがわかります。
4-1-11.日本人の三重構造モデルの論理性欠如
古代日本の虚構に、古事記、日本書紀の流れを受け継ぐ事実性を無視したものがあります。大和集権王朝説、渡来人による日本為政者説、聖徳太子信仰説、言霊説、等です。これらは、藤原氏に原初があり、1300年間受け継がれているものです。それを受け継いだ最先端科学のゲノム研究からの推察に「三重構造モデル」説があり、この説に疑問があります。
2021年に、金沢大学等の国際共同研究グループは,日本列島の遺跡から出土した16個の縄文人・弥生人・古墳時代人のパレオゲノミクス(=古代ゲノム学)解析を行いました。現代日本人が三つの異なる祖先集団の混血によって形成されたとする「三重構造モデル」を提起しました。[2021年9月17日午後2時(米国東部標準時間)に国際学術誌『Science Advances』のオンライン版]
「三重構造モデル」の異なる祖先集団は、①旧石器時代からの原住民である縄文時代の縄文人、②稲作や金属器文化を伝え、人口増加をもたらした北東アジア (朝鮮半島や中国大陸)から渡来した弥生時代の弥生人、③馬や鉄の製造技術、文字文化などを伝え、ヤマト政権の形成に関わった東アジア (黄河流域)から渡来した古墳時代の古墳時代人です。三つの異なる縄文時代、弥生時代、古墳時代にわけて、これらの祖先集団の割合を分析しました。
その結果、古墳時代人には,縄文時代、弥生時代の祖先集団に加え、古墳時代は第3の約65%の東アジアの祖先集団が日本に渡来したと推測しました。そして、これら三つの祖先集団が重層的に混じり合い、現代日本人が形成されたとするモデルを提唱しました。この新説には先ず違和感を感じ、自分なりの検証を試みました。
「三重構造モデル」の古墳時代人は、①約15%の縄文時代人と、②約20%の北東アジアを祖先とする弥生時代の渡来人と、③約65%の東アジア (黄河流域)から古墳時代に渡来してきた三つの祖先集団から構成されているとしました。特に、古墳時代の飛躍的な人口増加は、東アジアからの約65%の渡来人によるものであり、この新参の渡来人がヤマト政権の形成に関わったとしました。
そして、現代日本人(本州)は、①約14%の縄文時代人と②約16%の北東アジアを祖先とする弥生時代渡来人と③約65%の東アジアを祖先とする古墳時代渡来人であるとし、古墳時代人の祖先集団とほぼ同じ割合であるとしました。
2024年に、理化学研究所などの研究グループも、現代日本人3256人分のゲノム解析から、「縄文系」「関西系」「東北系」の三つの祖先系統に分けられる可能性を指摘し、古墳時代の縄文人の祖先割合を約15%から約25%に増加した結果を得、「三重構造モデル」を追唱しました。[出村政彬(編集部)「ゲノムで見る躍動の弥生時代」 日経サイエンス、2024年2月号。斎藤成也 (国立遺伝学研究所 集団遺伝研究室)「遺伝子解析から見た東アジアの民族関係」https://www.youtube.com/watch?v=nb5euntzGa0]
現代科学の最先端のゲノム解析から推察された「三重構造モデル」説は、他の事実と大きな食い違いが見受けられ、疑問をもつものです。古墳時代に、東アジアの祖先集団が新しく渡来して日本のヤマト王朝を形成したとする恣意説に合わせた提起ではないかと思われ、議論のたたき台の一つとして検討しました。
母系遺伝子のミトコンドリアDNAは、少ない遺伝子数のため民族との対応付けが十分にできません。
ゲノム解析は、原理的には混血等履歴を含めた関係民族の割合を知ることができますが、具体的な民族に落とし込むまでまだ進歩していないと判断されます。
したがって、現時点、民族の決定は、男系遺伝子のハプログループY-DNAによって考察します。
以下に、疑問点を列挙します
(1)先ず、「三重構造モデル」は、日本人と韓国人は「現中国北部系漢族」と「縄文人」との混血比率が異なる同一の混血系集団とする図2に示された核ゲノム主成分分析による混血集団の系統の解析結果と相違します。
(2)「三重構造モデル」によると、古墳時代に渡来した東アジア(黄河流域)に起源をもつ第三の祖先集団が約65%、弥生時代に渡来した北東アジアを祖先に起源をもつ第二の祖先集団が約20%であるとすると、「現中国漢族系」が85%(金沢大学等)から75%(理化学研究所等)いることになり、かつ、古墳時代に渡来した東アジア(黄河流域)に起源をもつ第三の祖先集団が古事記、日本書紀の流れを受け継ぐヤマト王朝を形成したというものです。
この二点を仮定条件とすると、日本語の文法は、間違いなく現中国語の文法系になる筈ですが、実際には膠着語と自由な語順の文法系です。つまり、古墳時代に約65%の第三の祖先集団が渡来したことと第三の祖先集団がヤマト王朝を形成したことは、事実と違うと考えられます。
(3)「三重構造モデル」のゲノム解析法とハプログループ解析法との祖先比率が、大きく違います。「三重構造モデル」の「DNA縄文人」は15%(金沢大学等)ないし25%(理化学研究所等)と、現代日本人男性の「DNA縄文人」・Y-DNA「D系」が約40から50%と大きな差異があります。また、「DNA縄文人」・Y-DNA「D系」が日本の最多を占める一系の為政者であるとする世界趨勢と不整合です。
(4) 「三重構造モデル」は、日本に渡来元の外来文化を持ち込んできたことを渡来者の大きな特徴・根拠としていますが、これは事実と違うと思われます。日本の「DNA縄文人」は古くから海洋貿易民族であり、他民族の文化・文明を直接輸入するか、少数の渡来人の文化・文明を創意工夫して日本化している例が普通のことです。少なくとも、外来文化の普及者は渡来人系ではありません。例えば、中華料理屋、イタリア料理屋、フランス料理屋等の日本での普及者は、ほとんど渡来人系ではありません。南画、書の普及者は、ほとんど渡来人系ではありません。したがって、古墳時代や弥生時代に特徴的な外来文化・文明と、それらの時代の渡来人口、増加人口とはいつの時代でも相関性がないのが日本の特徴です。
(5)「三重構造モデル」での古墳時代の東アジア(黄河流域)に起源をもつ第三の祖先集団は、弥生時代の第二の北東アジア (朝鮮半島や中国大陸)の渡来人とは別な祖先集団としています。
東アジア(黄河流域)に起源をもつ祖先集団は、北東アジア (朝鮮半島や中国大陸)に起源をもつ祖先集団に合流しており、ハプログループを区別することは難しいです。「現中国北部系漢族」の主は、「DNA匈奴」・Y-DNA「O2a1系」、「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2系」、「DNA呉越系倭人」・Y-DNA「O1b2系」です。「DNA匈奴」と「DNA鮮卑族」は、中央アジアから移動して、東アジア(黄河流域)と一部が「現中国北部系漢族」になっています。「DNA呉越系倭人」は、南方から江南地方に拠点を置き、秦、漢の時代に強制的に山東半島付近を経由した「現中国北部系漢族」で、祖地の江南地域には全く現住していません。つまり、祖先集団を地域で分類する場合、有意差のあるDNA民族の分離は難しいです。地域による祖先集団とDNAによる民族集団を分離する場合、地域による祖先集団の定義が不鮮明になり、恣意的な分類が可能になるように思われます。
(6)東アジア(黄河流域)に起源をもつ第三の祖先集団の具体的な民族は不明とされています。古墳時代での東アジアに起源をもつ第三の祖先集団の大規模渡来は、従来知られてない新事実ではないかと思われ、具体的な史実の提起、あるいは、可能性のある史実の提起による裏付けを必要とするものです。根拠が示されない限り、事実の進化も修正もできず、科学の基本精神とそれます。
(7)「三重構造モデル」での祖先集団の民族定義は明示されてなく、また、ハプログループ解析法のDNAからの祖先定義と異なり地域分類であり、かつ、あいまいな分類が用いられているように見受けられます。
(8)大規模渡来人としては、垂仁朝時代の「DNA秦氏系匈奴」・Y-DNA「O2a1b系」の秦氏の新羅・加羅からの部族全体の渡来がありました。渡来者は約1万ないし2万人とされており、当時の人口を150万人、ないし、400万人と推定すると、1.3%から0.5%です。秦氏の部族全体の大きな渡来の例でさえ「三重構造モデル」の人口増加分比率とかけ離れています。次の大規模渡来人の例は、681年頃の統一新羅の内乱による伽耶派の「DNA呉系倭人」朴氏の第38代天智、中臣鎌足、「DNA縄文人」尾張氏の藤原不比等の亡命帰化がありますが、秦氏の部族全体の渡来からみたら極少数であると推定されます。日本書紀に記された680年以降の帰化人の総数は、約2000人程度です。「DNA呉系倭人」朴氏の祖先集団は、東アジアに起源をもつとも、現中国北部系漢族とも、混血した日本弥生人の回帰者とも見做すことができます。
(9)「三重構造モデル」は、縄文時代人と弥生時代人と古墳時代人の人口が、大きな段差的増加をもっており、この人口増加は、新たにそれぞれの時代に渡来してきた人によるものとする恣意的な解釈にあります。弥生時代人と古墳時代人の渡来人は、混血した人と非混血の人とからなります。人口増加分は、縄文人と異民族の渡来人だけでなく、渡来祖先人と縄文人との混血人、朝鮮半島の「DNA縄文人」と「DNA異民族混血縄文人」の再回帰、自然増加分もあります。古墳時代に渡来した東アジア(黄河流域)に起源をもつ第三の祖先集団と弥生時代に渡来した北東アジアを祖先に起源をもつ第二の祖先集団とは、別なゲノム系統と本当に分離出来たのでしょうか。
要は、三つの時代での地域に分けた分類は、弥生時代、古墳時代の大きな人口増加は渡来人によるものと恣意的にしたことにあるのではないでしょうか。段差的な大きな人口増加は、鎌倉時代や江戸時代や明治時代にもあり、これが渡来人によるものでないことは明白です。古墳時代の大きな人口増加は、稲作と金属の大きな利用増加による人口の自然増加が大半である可能性があります。
(10)現代日本人のゲノムには、約2~3%程度のネアンデルタール人の遺伝子と約1%のデニソア人のDNAが含まれているとする説に対し、縄文人の遺伝子が15%程度と小さ過ぎるように思われます。
(11)弥生時代、古墳時代に渡来した非縄文人祖先は、人口増加の主要因を説明できる人数ではありません。加羅から亡命移住した新羅金氏朝、垂仁朝時代の秦氏の渡来、「DNA呉越系倭人」朴氏の第38代天智と中臣氏の渡来、「DNA縄文人」尾張氏の高句麗系第37代=第40代天武の亡命渡来、680年の統一新羅の「DNA縄文人」と「DNA呉越系倭人」朴氏の内乱敗北者の亡命渡来が挙げられます。最も多い垂仁朝時代の秦氏の渡来は、約2万人程度です。いずれも、弥生時代や古墳時代の人口増加分を説明できるものではありません。つまり、渡来人の根拠があいまいで、恣意的な分類にあります。日本人の祖先に関わる三つの源流(縄文系祖先、関西系祖先、東北系祖先)の定義、概念分類も同様な恣意的なものです。
(12)万世一系とする父系のY-DNA(A)は同系統のハプロタイプですが、母系が非父系のDNAハプロタイプ(B)が続いている場合の父系系統の縄文人度合い(ゲノムの混血割合)は、新渡来人の来島が全くなくても減少していきます(第一代:100%、第二代:50%、第三代:25%、第四代:12.5%、・・・・)。
(13)富山県埋蔵文化財センターの現日本人女性のミトコンドリアDNAハプログループの古い分類例は、[北方系渡来人]は、G(オホーツク人)、A(チュクチ・カムチャック系)、N9(約9%):N9a、N9b(縄文人)、B、FのミトコンドリアDNAハプログループであり、本土日本人女性の37%です。
また、[南方系渡来人]は、D4(35%以上。韓国29%)、D5、M7a(縄文人、7.6%)、M7bc、M8(ミャオ族)、M9a、M10、ZのミトコンドリアDNAハプログループであり、本土日本人女性の57%です。
したがって、この分類も「三重構造モデル」と同様なやり方で、本土日本人女性の渡来人系は、「母系DNA縄文人」も含んでおり、総計94%となり、奇妙な結果の説です。
つまり、「三重構造モデル」説の「渡来人」の定義は、古墳時代においてもいわゆる現中国南部系漢族と北部系漢族の渡来人を意味するものではなく、誤解を与えるものです。
率直に言って、「三重構造モデル」は、科学的な歴史的な考察によるものとは思われず、日本古代史の立場主義、官僚主義による先ずヤマト王朝説をゲノムでも証拠があるとする結論在りきの恣意的なモデルである疑いがあります。
4-1-12.日本と朝鮮・韓国の中核の民族
民族の源流カルチャは、その民族の基本的な感情・思考・行動様式の基盤です。
国の為政者の民族は、国のカルチャとアイデンティティの基盤となり、他の民族が従属します。
為政者が決める「公用言語」は、国のカルチャとアイデンティティの基盤となります。
日本と朝鮮・韓国は、古代に同じ為政民族であったものが、780年以降から朝鮮半島の為政民族が征服渡来人に変わったため、古代の日本と朝鮮半島の為政連合体が終焉します。かつ、朝鮮・韓国では、古代の為政民族が日本と同じであったので、現在の両国の関係は因縁が絡んで複雑なものになります。
(1)日本人の中核民族は「DNA呉越系倭人混血縄文人」と「DNA縄文人混血呉越系倭人」
日本の文化と言語は、万世一系の原住の「DNA縄文人」に基づく、「孤立」した多極性と柔軟性などの多元性カルチャが基盤です。
日本人は多民族からなりますが、現在日本人の民族の中核は、約40から50%の原住の「DNA呉越系倭人混血縄文人」・Y-DNA「D1a2系」と約30%の渡来人系の「DNA縄文人混血呉越系倭人」・Y-DNA「O1b2系」の二つの民族で、約75%を占めます。この二大民族は弥生時代初期から共存共生した緊密な関係にあります。
しかし、この二つのカルチャに「DNA呉越系倭人混血縄文人」尾張氏である実権をもつ藤原氏が疑似継承した異質な単元性カルチャの鮮卑族カルチャが併存します。
藤原氏は、出自と疑似継承を隠蔽するために、国の日常性までのカルチャの変質、つまり、論理性の喪失化に導く保身と立場主義の官僚機構を1300年に渡って定着させます。
ここに、日本のカルチャは、民族(「DNA呉越系倭人混血縄文人」と「DNA縄文人混血呉越系倭人」)と疑似民族(「DNA鮮卑族」)が拮抗した歴史上の歪をもちます。
(2)朝鮮・韓国人の中核民族は男系征服渡来系の「DNA鮮卑族」と被征服系の「DNA縄文人」と「DNA呉越系倭人」
現代朝鮮・韓国人の政事の中核民族は、李氏朝鮮王朝の王統である少数派の男性征服渡来系の「DNA鮮卑族卓抜部」・Y-DNA「O2a2b1a2b系」を基層としています。韓国は、戦後から完全に王朝制を廃止しましたが、社会の上流階層に潜在化して大きな勢力が存続していることは日本と同じです。韓国の族譜の伝統は変わっていませんが、DNA系統とかなり乖離しているかもしれません。
朝鮮・韓国人の文化の中核民族は、征服渡来系の「DNA鮮卑族卓抜部」と780年まで為政者であった「DNA縄文人」・Y-DNA「D1a2a1系」と「DNA呉越系倭人」・Y-DNA「O1b2系」です。
被征服者の文化が高いのと王妃は被征服者の「母系DNA呉越系倭人」・Y-DNA相当「O1b2系」とせざるをえないとで、朝鮮・韓国の言語系は、語彙と音韻は中世鮮卑族の漢語を基層とし、文法は先住の古代為政者の「DNA縄文人」の膠着語と語順の文法を引き継ぎました。
現代朝鮮・韓国は、政事の男性征服者系民族のカルチャと被征服者系民族のカルチャが対立的併存しています。かつ、男性征服者系民族は隣国の「現中国北部系漢族」が宗主であるため、国の歴史は臣下・属国的であるのが特徴です。更に、多数派の被征服者系は隣国の日本と同族でした。
これらにより、韓国のカルチャとアイデンティティは、複雑、不鮮明になります。
現代韓国人と現代日本人は、核ゲノム主成分分析より、「DNA縄文人」と「中国北部系漢族(倭人、匈奴、鮮卑族)」との同じ混血集団であることが明らかになりました。韓国人が、より「中国北部系漢族」の比率が高いのは、朝鮮が統一新羅外代の780年以降、中国北部系漢族の渡来征服者の王朝であったことに因ります。韓国と日本が「近くで遠い国」であるのは、朝鮮は日本と同族の古代為政者を征服渡来したことに由縁があるのかもしれません。
4-1-13.日本と朝鮮・韓国との源流アイデンティティの逆相似性への変容
日本と韓国・朝鮮は、「異父同母の関係」と例えられることがあります。日本と韓国・朝鮮は、源流カルチャを隠蔽するカルチャが同じであるだけでなく、異なる二つの源流カルチャの主客が全く逆のパターンの同存です。
それぞれの基軸となる為政者の源流カルチャは、日本が「DNA縄文人」の為政者の非集権・分散為政体制や共存共生等の多元性カルチャであり、朝鮮が「DNA鮮卑族」の為政者の唯一集権・覇権主義の単元性カルチャであり、全く異なります。
日本の為政者の基軸は「DNA縄文人」の多元性カルチャとであり、副カルチャは日本の藤原政権が疑似継承した「DNA鮮卑族」の単元性カルチャです。
朝鮮の為政者は「DNA鮮卑族」の単元性カルチャであり、副カルチャは被支配者となった元為政者の「DNA縄文人」の多元性カルチャです。
日本に渡来した和邇氏や匈奴金氏等は、現中国北部系漢族の祖と同系種族で、倭国時代初期から「DNA縄文人」とは日本列島および朝鮮半島で共存共生していた非征服渡来人です。
日本と朝鮮は、主客が真逆な相似的なカルチャ構造です。朝鮮の為政者は、日本と連枝した「DNA縄文人」の統一新羅為政者を渡来征服し、被征服者としました。そのうえ、日本と古代三韓の為政者は、世界に類がない超時代の一系の系譜の国であるのに対し、朝鮮は宗主が隣国の現中国北部系漢族(鮮卑族)との君臣関係で、属国性の由縁でした。両国の「近くて遠い国」である由縁の歴史経緯を理解すれば、少しは理性的な関係ができるのではないでしょうか。
642年、681年、780年の出来事は、日本の源流アイデンティティを変容化させた大きな出来事として、また、藤原氏の1300年にわたる隠蔽と「立場・保身主義」から脱するためにも、今後の詳細な検討が必要とされます。
(備考)多元性と多次元性との相違について
個人的な用語で、例で説明します 「空間」は、一つの「単元」で、「一次元」は直線、「二次元」は平面、「三次元。は立体です。「時間」と「空間」は、別な「単元」です。例えば、複素数z=x+iyは、「2元」で、「2次元」ではありません。量子力学のシュレディンガー方程式は、空間の実数部と時間の虚数部からなる「2元」です。
4-1-14.渡来人系神社の多数存在の不思議
神社は、初詣、宮参り、七五三、合格祈願、神前結婚等と日本人の生活とは切っても切り離せません。自分の信仰する宗派を越えて、日本人は神社が好きです。しかし、神社の祭神について、歴史と由緒、特徴をみると、多くが日本人の源流民族を反映しているとは言い難いです。この事実について、まだ合理的な理解ができていませんが、藤原氏の統治法や新興勢力の為政機構への食い込みや不遇者を表にした反体制勢力、等と関係がありそうです。
現在でも渡来人系神社が多数存在し、日本の二大民族の「DNA縄文人」や「DNA呉系倭人」以外の渡来人勢力が日本の源流カルチャに大きく寄与しているようにされていますが、民族の構成比率からみて、不自然です。
神社の総元締めである神社本庁が、傘下の7万9355社の神社を対象に、平成2(1990)年から7(1995)年にかけて行った「全国神社祭祀祭礼総合調査」による社数の上位は以下です。
・第一位・八幡信仰系(八幡神社、八幡宮、若宮神社):7817社。
秦氏が普及に大きな貢献をした。
・第二位・伊勢信仰系(神明社、神明宮、皇大神社、伊勢神宮など): 4425社
「DNA越系倭人」の戸売系統の日本の祖である宇賀御魂や大和王朝の創始者の第二代大国主・大歳=饒速日(ニギハヤヒ)[=新羅太子・郁部=新羅葛文(カツブン)王骨正]を祭祀した神社系。明治時代以前には天皇が伊勢神宮に行幸したことがなく、明治政府の政治的意図が大きい。
・第三位・天神信仰 (天満宮、天神社、北野神社など):3953社
敗者の菅原道真の怨霊を鎮めるための神社 。
・第四位・稲荷信仰(稲荷神社、宇賀神社、稲荷社など): 2970社
秦氏が普及に大きな貢献をした。
・第五位・熊野信仰(熊野神社、王子神社、十二所神社、若一王子神社など): 2693社
渡来人源流の「DNA呉系倭人」熊族と「DNA匈奴」野族の信仰。
・第六位・諏訪信仰(諏訪神社、諏訪社、南方神社など): 2616社
敗者の第3代大国主・事代主命=新羅第11代助賁(ジョフン)尼師今(在位:230~247年)の信仰。
・第七位・祇園信仰 (八坂神社、須賀神社、八雲神社、津島神社、須佐神社など):2299社
敗者の匈奴金氏の初代大国主スサノオ[=新羅第9代伐休尼師今(在位:184~196年)=加羅国初代金首露王]の信仰。
・第八位・白山信仰(白山神社、白山社、白山比咩大神(菊理媛神)、白山姫神社など): 1893社
敗者の高句麗姫・菊理(ククリ)媛の信仰。
・第九位・日吉信仰(日吉神社、日枝神社、山王社など): 1724社
鮮卑族和邇氏の祖神の大山咋神の信仰。
・第十位・山神信仰 (山神社など):1571社
超古代の始祖の信仰。
この後には、出雲・オオナムチ系、春日信仰、三島・大山祇信仰、鹿島信仰、金毘羅信仰と続いています。
少なくとも、日本の万世一系の天皇、および、最大功臣の民族を祭祀している神社は上位にありません。
神社は、民族・部族の源流カルチャ、祖先を祭祀するためとは限らず、別な意図による祖先祭祀形態であると推定されます。多くの神主は、藤原氏系であり、裏統治を担っています。
計約25%の「DNA匈奴」と「DNA鮮卑族」は、聖徳太子同様に、足跡が誇大化されています。「DNA匈奴」と「DNA鮮卑族」は、「DNA縄文人」の尾張氏、「DNA匈奴」のスサノオ、「DNA匈奴」の秦氏の身代わりとして脚色されていると思われます。神社は、明治時代以降の国策により興隆し、国民の論理思考を停止させています。神社、神主は、天皇制を支える日本の特権を与えられ、裏統治の役割をもしています。そのために、改ざんされてはいるものの多くの古代の史実が現在まで伝えられています。
朝鮮・韓国では、神社の役割を「族譜」が担っているかもしれません。各族譜」のDNA系統が明らかになることは、当分なさそうです。
(以上)
