見出し画像

「青の姫 The Blue Princess」第七章 医者(創作大賞2026ファンタジー小説部門)

第七章 医者 ー いやす人

あるとき、青はうっかり、さびた釘をふんで、左足を傷つけてしまいました。
生まれつきすこやかな体に恵まれ、王女として大切に育てられた青は、体のしくみや病気について、ほとんど知りませんでした。今まで病気にもならずに旅をしてきたのは、運が良かったのだと、けがをして初めて気づいたのです。

そのうち治るだろう、と旅を続けているうちに、足はひどくはれて、青紫色に変わり、痛みのあまり、地面につけることもできなくなってしまいました。足を引きずりながら次の村を目指しましたが、いつもの十倍の時間がかかります。夕闇がせまってきました。最後の力をふりしぼって、ある村に入るやいなや、青は気を失ってしまいました。

青が目覚めたとき、真っ白な天井が見えました。
寝床に横たわっているようです。起き上がろうとすると、
「ああ、まだ動かないように。」
どこからか声がしました。
周りを見わたすと、少しはなれた机に座った老人が、何かを書いています。
書きものが終わると、その人は青のそばにやって来ました。
白髪頭に、白いうわっぱりを着た、小がらなその人は、やわらかなほほえみを浮かべています。
「あんな傷をかかえて歩き続けるなんて、むちゃなことを。その立派な足だけでなく、命までなくしかねませんでしたぞ。」
青は親切な村人によって、医者のところに運びこまれたのでした。

「どれ、傷の具合を見てみましょう。痛いかもしれませんが、ちょっとがまんですよ。」
医者が包帯をはずし、傷にふれたり、しらべている間、青は痛みにとびあがりそうになりました。本当にひどいことになっていたのです。

しかし痛みを小さくしてくれたのは、そのやさしい、こまやかな手でした。まるでこわれやすい大切な宝石をあつかうように、そっと。こんなにやさしくふれられたのは、いつのころだったでしょう。まるで母親が生まれたばかりの赤ん坊にふれるような手。ふわふわした羽根ぶとんか、やわらかな光に包まれているようです。
傷がいえるまでここで休んでいるように、と言われたものの、払うお金がない、と青は正直に言いました。
医者はしばらくだまって青を見つめていましたが、ほほえみを浮かべて静かに言いました。
「強い体とかしこい頭だけがあなたの財産なのは、見ればわかります。治るまでお金のことは心配しなくてよろしい。」

足が少しよくなると、青はお金の代わりに医者の助手を始めました。患者をむかえて、順番に呼んだり、医者に道具を持ってきたり、薬を探したり、といった仕事です。青は医術という世界を少しばかりのぞくことになり、それが旅を続けるための大きな力になったことは言うまでもありません。しかし青が、医者から学んだ最大のことは、けがや病気を治す方法ではありませんでした。

小さな診療所には、毎日さまざまな病をかかえた人々が訪れました。医者の評判をききつけて、はるか遠くから来る人もめずらしくはありません。
頭からつま先まで、見える病気、見えない病気、風邪のような当たり前のものから、見たこともない傷や病気まで、ありとあらゆる患者がやってきます。
彼らは医者にかかれば必ずよくなると信じて、やってくるのです。
医者はどんな人でも受け入れるのでした。

その日も、まだ夜も明けきらぬうちに赤ん坊を取り上げ、次の日に入ろうかという夜中に老人をみとった二人は、夕食なのか朝食なのかわからない食事をとっていました。皿をすくう、さじさえ持ち上げられないほど疲れています。青は思わず、問いました。
「先生、こんなことを聞く失礼をお許しください。どうしてこんなにさまざまな患者さんを受け入れられるのですか?先生はご自分が知らない病までみようとされているようです。そんな患者をみることが恐ろしくはないのですか?それに、最初から救えないとわかっている人をも。治せずに死んでいく人たちを見て、絶望したりしないのですか?」

医者はどんなにせっぱつまったときも、やわらかな笑みとおだやかさを失うことはありませんでした。手に持っていたさじをおくと、しばらくじっと目を伏せていました。やがて、静かに語りはじめました。

「今でも思い出す患者さんがいます。一人の父親です。若くもなく、老いてもいない働きざかりで、妻と幼い子供たち、老いた母親を抱えて、働きづくめで、自分の体のことなど考えるひまもなく、医者に行ったこともない人でした。これは一家を支える人によくあることです。
だが、彼はここへ来たとき、すでに手のほどこしようもありませんでした。初めて、私が何もできない病人でした。
私は頭をたれて、正直に言うしかありませんでした、私にできることは何ひとつありません、と。それは医者が決して言いたくない言葉なのです。その人の顔を見るのがどれほどこわかったことでしょう!ついに私が頭を上げると・・・父親は横たわったまま、かなしい、やさしい眼で私を見ていました。まるであちらが医者で、私が患者のようでした。
「へえ、そうですか。お医者が何もできねえというんだから、あきらめもつきまさあ。だがこれだけは教えてくんなせえ。先生、わしにはあとどれくらい時間があるのかね?」
とてもつらいことでしたが、あと数日、いや今そのときが来てもおかしくない、と答えました。
彼はひとつ、ゆっくりと呼吸してしばらく目をつむっていましたが、やがて家族を呼びいれ、ひとりひとりに、言うべきことを言いました。自分がいなくなった後のこと、家や仕事のこと、できるかぎりのことを考え、別れを告げ、数日のちに亡くなりました。彼はしっかりと死を受け入れて、いきました。

私はね、自分がどんな病気も治せるなどと、思っていません。
若造だったころは、思い上がったこともありましたがね。じっさい毎日病人と向かい合えばわかります。人間ができることは限られている。
だが、できることはしなければならない。
私はよくいにしえの医者たちのことを思います。太古の人たちは今よりはるかに少ない知識や道具で病とたたかっていた。何と勇気ある人たちだったでしょう。彼らがあきらめなかったからこそ、今、私たちがいる。この仕事は毎日、かならず新しいことを学びます。医学の道においては一人の人間の一生など燐寸マッチの火のようなものでしょう。けれど私に自分のすべてをあずけてくれる患者さんたちの命をむだにはしません。
そして忘れてはいけないのは、病気を治すのは医者ではなく、患者自身だということ。その人が生きたいと願うこと。それが治るために絶対に必要な力なのです。それがなかったら、どんな素晴らしい医者や薬も治せません。」

青は、医者がまったくの銀髪なのに、その顔が若々しく、どんなに疲れきっても、翌日には明るく、笑顔である理由を知ったのでした。

「そして、どんな病気でも、絶対にできる治療がひとつだけあるのです。」
医者は指を一本たてて、いたずらっぽく笑いました。でもその目は笑っていませんでした。
「その人を大切な存在として、心からうやまうことです。大人でも子供でも男でも女でも人が本当に求めているのは、それなのです。それだけで痛みはやわらぎます。傷ついた心はいやされます。これが私の最大の、そして最後の治療です。」

青が特に忘れられなかったのは、一人の婦人でした。その人は、とてもおずおずしていて、困ったようすです。青が、どこが悪いのですか、と聞いても、何も答えようとしませんでした。しまいには帰るそぶり。医者があらわれると、女の人は泣きそうな、弱りはてた顔で医者を見ました。医者は一目で何かをさっしたようでした。
そして婦人の腕にそっとふれて、
「さあ、もう大丈夫ですよ。」と言って、青に部屋の奥の寝台のまわりを布でおおわせ、小さな「部屋」を作りました。
「私がいいと言うまで、入らないでください。また外から話をきかないように。」とめずらしく厳しい声で命じました。婦人は、ほっと救われた顔になり、医者の言うままに、その中に入りました。
二人が仕切られたおおいの中に入って、どれぐらいがすぎたでしょう。とうとうとう女の人が出てきました。すっかり落ちついて、明るい笑顔さえうかべていました。
その背中には、医者の手がやさしくそえられていました。

婦人は、来たときとは別人のように軽い足取りで帰ってきました。
「あの方はどこが悪かったのですか?」と青が聞くと、医者は静かに、きっぱりと言いました。
「それは言えません。私とあの人だけの秘密なのです。ここに来るのにどれだけ勇気がいったことでしょう。」
またこんなことも言いました・
「医者に会いに来る人々は、体だけでなく、心も傷ついているのです。心の傷が体の傷より大きいこともある。それにはできるだけそっとふれなければならない。傷ついているのは自分自身だと思って。」

医者の「手」― そこには何か特別な力が宿っているようでした。その手にふれられると、患者はみな、ふっと苦痛が和らいだように穏やかな顔になり、安心するのでした。まるで何かの薬が効いたようでした。
青自身が最初に足の傷を手当してもらったときに、そう感じたのです。

それは自分が「大切な存在」だと気づかせてくれる手でした。

ある日、青の足をあの手でふれてみて、医者はうなずきました。
「いいでしょう。旅立つ準備ができましたよ。」

それは本当に小さな診療所でした。けれど、誰もが入りやすいように、布切れ一枚だけがかかっている入り口を入れば、誰も入れないその人だけの部屋もあるのでした。その入り口で、布をめくって、医者は青を見送りました。
その手のぬくもりを、青の心と体は生涯忘れることがありませんでした。


いいなと思ったら応援しよう!