「青の姫 The Blue Princess」第十章 通訳(創作大賞2026ファンタジー小説部門)
第十章 通訳 ー 橋を渡す人
そこは大きな港町でした。青は、いくつもの大陸や半島に囲まれた海をめぐる船に乗ろうとしていました。山の奥深くに生まれ育った青は、海を見たことも、船で旅をしたこともありませんでした。
自分の国から出るとき、小舟に乗りましたが、今、目の前に停まっている船と比べると、水の上を走るということをのぞいては、同じ「船」という言葉では呼べないくらいのちがいです。
この巨大な船は、それ自体がひとつの街のようでした。
青のふるさとの国の民ぜんぶを乗せられたかもしれません。そうしたら「動く国」と言えたかもしれません。
とうとうはしごが降ろされ、船は旅人たちを迎え入れました。
船員にきっぷを渡して、甲板の上に立つと― そこはもう、陸ではありません。
周囲を見渡せば、青白くすきとおった肌、黒真珠のようにつやつや光る肌、緑色をおびた象牙のような肌、金色、茶色、黒、何とも言いようのない髪の色、背高のっぽに小さい人、両方とも今までに見たことがない高さ、小ささです。さまざまな人々がぞくぞくと乗船し、船の上を行き交います。青は、こんなに異なるたくさんの人たちを一度に見たのは初めてでした。
船はとうとう出港しました。港からたくさんの人が見送っています。旅立つ人も大きく手をふって、叫んでいます。
最初は動いているのかわからないくらいゆっくり、しかしみるみる港から遠ざかっていきます。
青はすぐに甲板を歩いていき、船の先端、舳先に立ちました。
そここそ、ずっと夢見ていた場所だったのです。
もう、目の前をさえぎるものはまったくありません。限りなくひらかれた海、未知の世界が広がっています。
そこでは空と海がすべてであり、世界を天と地の二つに分け、異なる二つの青い世界だけが広がっています。その上をいっときも止まらず、前進しているのです。まさに船自体が「旅人」であり、旅人たちは「船」でした。
それは当時、世界最大の旅客船でした。
名高い都市の一番大きな建物よりも大きかったのです。
いく層にもなった船体から眺める海や街の景色は、その船からしか見られぬものとして、つとに有名でした。
青は船をすみずみまで見てやろうと歩き出しましたが、通路や階段、たくさんの部屋が入り組んでいて、たちまち迷子になっていました。
周りの人にたずねようにも、聞こえてくるのは知らない言葉の響きばかり。とほうにくれて立ちつくしていると、何か虹のようなものが、さっと目をかすめました。
それはあざやかな七色の羽根でした。目の前にとつぜんあらわれた人の帽子についていたのです。
その人は小鹿のようにかしこそうな、すんだ茶色の瞳をして、くちびるには人なつっこい笑みを浮かべています。
その口が開いて、明るい声で、何か言葉を発しました。しかし一言もわかりません。青が首をふると、その人はすぐにまた何か言いました。最初とはぜんぜんちがう響きです。青が答えられずにいると、しんぼう強く、ちがう言葉で話しつづけます。
「何か、お困りのことはありませんか?」
急にはっきりと聞こえました。
それは青が城にいたころ、年老いた教師からほんの少しだけ習った外国語でした。城を出ることもないのに、なぜその言葉を習わなくてはいけないのだろう、と思いながら、いやいや習っていたのです。それが今、こんなところで役に立つとは。
青は頭の中の小さな引き出しから、必死で言葉を引っぱり出しました。
「はい、私、道、迷って。」
茶色の瞳が輝き、遠い異国で友達に会ったようなあたたかい笑顔が広がりました。
「さあ、心配はいりません。ご案内しましょう。」
手足も小鹿のように細くてしなやかなその人は、前に立って、軽やかに歩き出しました。
「あなたは、だれですか?」
手ぶり身ぶりもつけて、その人にたずねました。
「私は通訳です。この船で、世界中からきた乗客の皆さんを助けています。」
この人が男なのか、女なのか、すぐにはわかりませんでした。着ている服も、青が着ているぴったりした、むだのない服と同じようなものです。
話すうちに、女の人であるとわかりましたが、通訳という仕事にはまったく関係がないようでした。
船の中にはあらゆるものがありました。
二段重ねの寝床がぎっしりつまった相部屋から、王侯貴族にふさわしい豪華な部屋まで、蜂の巣のようにたくさんの客室。海で取れるぴちぴちした魚や、停泊する街の土地から仕入れた材料で作っ最高の料理が食べられる食堂、劇や踊りが見られる舞台、金銀に彩られ、きらきらと輝く大広間、いろんな国の歌や音楽が流れ、人工の遊泳場、運動場、玉突きやら賭け事ができる娯楽場、甲板の上にある天体観察室、さまざまな魚が泳ぐ巨大な水槽、など。
その巨大な船内を、通訳は魚がすいすい泳ぐように動いていました。
どこにいても、たくさんの人の中でも、その虹色の羽根はすぐに目につきました。
見たことのない服装や様子をした乗客と話してみたいと思っても、そういう人はたいてい言葉が通じません。そんなときは、通訳に頼んで話すことが出来ました。通訳が入ると、突然相手の顔がいろいろな表情を見せはじめ、その人の国や、何をしているのか、どこへ行くのか、などが、すぐにわかるのです。
「あなたは、なんてたくさんの言葉を上手にあやつるのでしょう!」
すっかり感嘆した青に、通訳は当たり前というように言いました。
「言葉というものは、学びさえすれば誰だって話せるのです。みんな、むずかしいと思いこんでいるだけです。」
それから、青をさとい眼でじっと見つめました。
「ところで。私たちが話しているのは、ずいぶん遠い地方の言葉ですよ。私も今までほとんど使ったことがなかった。しかもそれは、あなたの母国語ではない。ということは、あなたは本当に遠くから来たのですね。」
青はもう長い間、自分の国の言葉を話していませんでした。
「そうとうな長旅をされているようですが、どこまで行かれるのですか?」
そう聞かれても、青には答えられません。
「この船が行く、一番遠くまで。」
「それなら十分な時間があります。その間にぜひ、私にあなたの母国語を教えてください。私も教えましょう。きっと役に立ちますよ。お互いに、できるかぎり多くの言葉を身につけましょう。」
こうして、青は通訳と一緒に過ごすことになりました。時には船が停泊している間、街を二人で歩き回ることもありました。
船の仕組みや、泊る港や、その街の名所、食べ物、歴史、商い、住んでいる人々や、そこを治めている王や市長たち、また海やその生き物など、通訳は何でも知っていました。一日中、一緒にいれば、いろんな乗客や船員の会話を聞けるので、知識をえるにはこれ以上すばらしい案内人はいませんでした。
「ここにいると、朝から晩まで乗客から質問ぜめですからね。いやでも学ぶのです。まあ、私も負けずに彼らを質問ぜめにしますから、情報の物々交換のようなものです。」
通訳はそう言って、笑いました。
赤い帽子と虹色の羽根は、どこにいても目立つように、だれもが覚えられるようにと身につけているもので、羽根の色は、まるで肌や髪の色の異なるさまざまな乗客をあらわしているようでしたが、ある時、通訳はその秘密を話してくれました。
「この羽根は、ある乗客がくれたのです。その人が自分の国には七色の羽根をした鳥がいる、と言ったとき、私は『まさか!』と笑い飛ばしました。
世界から集まってくるこの船では、ほら話をする人もたくさんいますから。人の口は陸にいるときよりも自由に羽ばたきます。
さっきのお客さんですが、それから何年もたって、その人はまたこの船に乗ってきたのですが、再会するなり、私に黙ってこの羽根を差し出したのです。私はどんなことも、自分が見たことがないからといって決めつけてはいけない、と学びました。この羽根を見るたび、それを思いだします。」
ほとんどの人は通訳の名前を知らないままでしたが、みな、いつのまにか彼女を「虹の人」と呼んでいました。
「おおい、虹の人、ちょっと来てくれ。話が通じなくて困ってるんだ。この人に、ここはおれの寝床だからどいてほしい、と言ってくれんか。」といったように。
通訳は、さまざまな色のような言葉を使いわけて、人と人を結びつける虹の橋でした。
もう一つ、この人が肌身はなさず身につけているのは、肩からかけている、小さなかばんでした。その中には、世界地図、航路図、辞書が入っていました。手におさまる大きさの辞書はぼろぼろで、中にはいろんな言葉がびっしりと書きこまれています。
「これは私の道具であり宝物です。乗客から習い、覚えた言葉を書き足したり、直したりしています。私だけの生きた辞書で、買うことはできません。もっともこれをなくしたとしても、ほとんどはここに入っているけれどね。」
通訳はいたずらっぽく、指でとんとんと、自分の頭をつつきました。
通訳が教えてくれるのは、ただ言葉だけではありません。
「一番大切な言葉は、『こんにちは』と『ありがとう』です。ここからすべてがはじまります。この二つの言葉言えれば、人は生きのびられます。どの言語でも、この二つが一番美しい言葉です。目や声、表情やしぐさも大切です。それによって同じ言葉でも反対の意味にさえなります。今日出会う人と、今このしゅんかん、心を通じ合わせることに集中するのです。相手が困っていることを知り、それを解決する。この船で安全に航海し、目的地に着けるように。」
その眼が真剣になりました。唇からほほえみが消えるほどに。
「言葉は何よりも強い武器になり、私たちを助け、守ってくれます。それはあなたが生きている限り、折れることも失くすこともない。だが忘れてはいけないのは、それは握手にもなるし、傷つける刃にもなるということ。とてつもない力を秘めた魔法の道具なのです。一つの言葉が、すべてを変えてしまうことがある。」
確かに通訳をしていると、気持ちの良いことばかりではありません。言葉も肌の色も、性別も年令も目的もちがう人々が集まり、いっとき同じ場所ですごすのです。ときにぶつかり合うことはあたりまえです。
あわや、殴り合いのけんかになるせとぎわに飛びこみ、二人から言い分を聞いて、最後は握手をさせる。通訳が来たことで、問題が解決するのは、本当に魔法のようでした。
この人は船の上の安全、平和のためにおおいに必要なのでした。
通訳は、言葉を使って「船」を動かす船乗りだったのです。
「私は女ですが、言葉という道具があるおかげで自由でいられます。みなから求められ、こうして自分の仕事をして生きていけます。それは何より大事なことです。ねえ、あなたにはわかるでしょう。」
青は深くうなずきました。
青は頼まれたとおり、通訳に自分の母国語を教えましたが、あるとき、思わず言ってしまいました。
「私の国はとても小さくて、この言葉を話す人は限られています。あなたがそこへ行くことはないでしょう。この言葉を話す乗客にはもう会わないかもしれない。時間のむだではないですか?」
通訳はきらりと光る小鹿のような眼で聞いていましたが、きっぱり言いました。
「では、なぜあなたはここにいるのですか?そんなに遠い、小さな国からあなたが来たように、この船に乗ってくる人がいないと、どうして言えるでしょう。あるいはあなたの国はいつか大きくなるかもしれない。領土のことを言っているのではありません。言葉と、それが伝えるものは定規でははかれないのです。どんな大きな船より遠くへ旅することもある。」
素晴らしく晴れた日、船がいきおいよく進んでいく舳先に立って、二人はその日だけの空と海の色を見ていました。
通訳は隣にいる青を、じっと見つめました。
「私は生まれたときから海と空が映す無数の青を見てきたけれど、あなたの瞳のような青色は見たことがない。それはなんという色なのですか?」
突然の問いにとまどいながら、青は答えました。
「青ですよ。」
通訳は首を振りました。
「いいえ、ただの青じゃない。」
青は、自分の国ですら、その色の瞳をした者はいなかったことを思い出しました。
だからこそ、「青姫」と呼ばれていたことを。
黙っていると、通訳は自分で答えを出しました。
「あなたの国には、まだその色をあらわす言葉がなかったのですね。惜しいことだ。」
船の帆柱のてっぺんには通訳の帽子の羽根と同じく、虹色をした大きな旗が風にたなびき、港に近づくたび、この特別な船の到着を人々にいち早く知らせるのでした。
その旗はどの国のものでもなく、「世界中のどんな人をも受け入れます」と言っているかのようでした。
青は、どんどん新しい言葉や文化を覚えていきました。この二人は、ちょうど同じような背格好や年齢でした。青を通訳だとまちがえて声をかける乗客も増えました。
毎日語りあう中で、通訳のことが少しずつ明かされました。
彼女はこの船で生まれ育ったのでした。
「私の母は、この船の停泊地のひとつ、いずれあなたもごらんになるでしょうが― ある街の貿易商人の娘でした。母の家は世界中から集められた不思議なものであふれていました。しかし女だからと、旅をするどころか一度も街を出ることを許されなかったのです。母が見たかったのは世界、そして自分とはちがう人々でした。この船の船員だった父は、たった一晩だけ、その街に降りてみたのです。そして、屋敷の窓から体を乗りだして、海と船をじっと見ていた母と目が合いました。二人は恋に落ちたのです。
母は潮の香りのする父についていくと決めました。まだ夜も明けぬうち、父といっしょに船に乗りました。
少年の頃にふるさとを出て、船乗りになってから、父は決して陸に住みませんでした。本当に船のような人だったのです。
二人は船の中でくらし、港から港へ旅しました。母は本当に幸せだったそうです。そして私が生まれました。海の真ん中で生まれたんですよ。(通訳はここでじまんげに片目をつぶりました)
しかし、船に持ちこまれた病がうつり、母は亡くなってしまいました。父は母を海にほうむりました。それから数年したある日、父は望遠鏡で沖を見ていて、島を発見したと言いました。確かめてくる、と船乗り仲間に言って、小舟を下ろして、それきり戻りませんでした。私は、船員たちに育てられたのです。数えきれない乗客たちにもね。本当に多くのことを学びました。そして毎日変わる自然が一番の先生です。学校に行ったことはありませんが、陸にある学校よりも、多くのこと学べたのではないか、と思っています。
ある時、気づきました。船に乗る、海を渡る人たちと言うのは、何か特別なものを持っています。彼らは、どこかへ行こうとしている。何かをするために危険をしょうちで、海を渡る。自由で勇かんな人たちです。だから彼らと一緒にいると楽しく、たくさんのことを学ぶのです。」
二人で夜空に輝く無数の星をながめていたとき、通訳が波の音の中で静かにつぶやきました。
「父も母も今もこの海のどこかにいます。だから海が私の家であり、両親なのです。私もいつかそこに溶けこむ。たくさんの命を産み、また受け取る海に。
あなた方は死んだら土に還るのでしょう。私たちは海に還るのです。」
通訳の語る声は、海から聞こえるようでした。
「命は、あの星のどれかになるような気もします。」
通訳がそう言って見上げた時、流れ星が一つ、すっと夜空を渡りました。
青はある時、ふと思いついて、通訳に問いました。
「あなたはどこの国にぞくすのですか?国籍はどこですか?」
通訳はきらきらと光がまたたく水面を見つめました。
「『国』とは何でしょう?私にはよくわからない。この船にはいろんな人々が入れ替わり立ち替わり自由にやってきて、去っていく。海の上に国境線は引けない。船は常に動いている。陸だって、目に見える線を引いているわけではないでしょう。私には人々が心の中に作った壁のように思えます。
人間が海とか空の持ち主になれるでしょうか?私たちは海を泳いでいる魚のようなもの。魚に国籍をつけられますか?世界は空と海でつながっていて、そこから陸にあがることができる。海や空は自由。だから私はここにいたいんです。陸だって本当は同じ自由のはずだけれど、とてもきゅうくつです―
私は何人にでも何色にもなれます。また、何人でも何色でもないとも言えます。
一生、この船に乗って世界中の人々と旅をしていたい。そうすれば私には世界は一つの国で、みな仲間なのです。」
どんな旅も終わります。
とうとう、船が最後の港に到着する前の夜でした。二人はいつものように乗客たちを助け、甲板で簡単な夕食を取りながら、その日あった出来事について話し、新しい言葉を教えあい、ゆったりと夜の海のおだやかな波音に身をまかせていました。
「虹の人」は静かにほほえんで青姫を見つめていました。やがてとつぜん問いました。
「あなたは私が誰だか知っていますね。私は通訳です。では、あなたは誰ですか?」
あれほどいろんな言葉を習ったのに、青は何も言うことができません。
口を開いては閉じ、また開いて、やっと小さな声でつぶやきました。
「『旅人』です。今はそれだけしか言えません。以前はある人の娘であり、妹でしたが、今は何の意味もない。自分がどこへ行こうとしているのか、旅していればわかるかもしれないと思っていますが、まだわからない。」
その声は細く、たよりなく、夜の海の中に消えていきました。
自分が何かもわからない、旅の目的地も知らない旅人なんて、なんてまぬけなんだろうと、恥ずかしかったのです。
耳なれたあたたかい声が返ってきました。
「あなたはとても少ない、本当の旅人です。とても勇気がある。目的を知らないのに、旅に出て、今もそこへ向かって長い旅をしている。」
光り輝く朝日を受けながら、船は最後の港に到着しました。この後は、もと来た航路を戻っていくのです。
最初に乗り込んだ港町とはまるでことなる色や形の家、見たことのない植物、忙しく働く人々、店からおいしい匂いがただよってきます。出迎えの人々が船に向かって笑顔で叫んでいます。
このすぐれた旅の案内人に別れのあいさつを言おうとしましたが、「言葉の魔法使い」に、なんと言ったらいいのでしょう。
青が口を開きかけると、通訳は自分の唇に指を当てました。
「私が決して使わない言葉に気づいていましたか。『さよなら』です。生きているかぎり、再会する可能性は必ずあるのだから、それは言わないでください。もし会えなくても、心が忘れなければ別れは永久にありません。だから言ってください、あなたの国の言葉で。『また、いつか』と。」
それはまだ教えていなかった言葉でした。
青い瞳が大きく見開かれ、太陽の光を受けて鮮やかに澄みわたりました。海や空よりもはるかに青い青。
青は陸に降りると、船の上の小さな姿を見上げました。頭の上の虹色の羽が見えます。出せるかぎりの大きな声で叫びました。
「また、いつか。」
今や、新しい旅人たちが続々と列をなして、乗船してきます。
一つの街のような、世界中の人が住む一つの星のような巨大な船は、その虹の旗を風にそよがせて、たくさんの旅人をのせると、大海原に向かって出航しました。
