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「青の姫 The Blue Princess」第五章 パン職人(創作大賞2026ファンタジー小説部門)

第五章 パン職人 ー 養う人

城を出るときに母君が持たせてくれたお金は、とっくに使い果たしていました。それほど遠くまでやってきたのです。今や、青はその日その日を自分の力で生きていかなければなりませんでした。
城では、日に三度の食事にお菓子まで出て、「空腹」という言葉の意味が分からなかった青が、今では飲まず食わずでいることにもなれて、逆に「満腹」という言葉を忘れかけていました。父王の財産だと思っていたものは本当は誰のお金だったのだろう、と考えることもありました。食べ物も服もすべて、あって当たり前、「ない」ということを知らなかったのです。
時々自分が「旅人」なのか、「浮浪者」なのか、わからないときがありました。

ほとんど食べられない日が続いたある日、もう一歩も歩けない、と、青は一本の樹の根元にへたりこんでしまいました。
ぐったりしていると、どこからか風にのって、なんともいえない香ばしい匂いがただよってきます。
それはパンが焼ける匂いでした。青はただその匂いのするほうへ、ふらふらと引き寄せられていきました。
はたして、それは一軒のパン屋でした。
中をのぞきこむと、もう若くはないものの、がっしりと筋骨たくましい腕をむきだしにして、白い前かけをつけた、かっぷくのいい男が、先にへらがついた長い棒を器用に使って、石がまからパンを取り出し、いきおいよく台の上に並べているところでした。
見るからにおいしそうな焼き立てのパンをながめていると、口の中が甘酸っぱくなってきて、思わず唾を飲みこみました。
だんだん気が遠くなって、その場にくずれるように座りこみ、眼を閉じました。そのとき、パンの香りがいっそう強くぷん、と香りました。顔を上げると、鼻の先に、パンがあるではありませんか。先ほどのパンを引き出す棒が差しだされて、その向こうにあのたくましいパン職人が立って、青を見下ろしていました。しわの深く刻まれた、きびしい顔です。
「お前さん、腹ぺこの野良犬よりひどいな。さっき、おれの店をのぞいていただろう。パンがほしいのか。」
パンから眼が離せないまま、青は弱々しく答えました。
「お金がないのです。私には買えません。」
「ふん、これは失敗したやつだ。どうせ犬にでもやろうと思ってたから、ちょうどいい。」
そう言って、青の胸元にパンを押しこみました。失敗どころか完ぺきなパンでした。
急に眼の中が熱くなって、鼻の奥がつんとしました。もう何も言わずにパンに手をのばすと、かぶりつきました。その様子は犬だって同情したでしょう。
こんがり焼けたぱりぱりとした皮、中はまだあたたかくて、やわらかで、かすかにバターと塩の味がして、かみごたえがあります。一口食べるたびに、体に元気が戻ってくるのがはっきりわかります。
城に暮らしていたころ、どんなに小さくとも王族は王族、国で一番のごちそうを食べることができました。しかし、たったひとつのパンをこれほどおいしくと感じたことはありませんでした。これ以外には何もいらない、と青は思いました。
「なんておいしいパンでしょう!」
食べ終わると、青は祈るようにパン屋に手を合わせて、叫びました。
岩のような顔をしたおやじは口の片はしをちょっとゆがめました。それがこの人の笑いのようでした。
「ふん、今のあんたには何だって、王さまの食事のようだろうよ。」
立ち上がると、店のほうへ戻っていきます。
青はあわてて追いかけ、パンのお礼に店の仕事を手伝うと申し出ました。
パン屋は、青のやせっぽちの体にちらっと目をやると、笑いました。
「パン屋の仕事がどんなもんだか知ってるのか?」
それで引き下がるような青ではありません。さっと店を見わたすと、あちこちにちらばった道具を片づけたり、台の上にあるパンを店のたなに並べたり、自分なりに動き始めました。

パン屋はちょっと眼を見開いて、その様子を見ていましたが、肩をすくめて「いつまでつづくやら。」とつぶやきました。
青を止めることもなく、物置にしていた場所をあけて、眠る場所を作ってくれました。
そういうわけで、青はパン屋の弟子になったのです。

翌朝、まだ夜と言っていい時間に、青は親方にたたき起こされました。パンのしこみが始めるのです。
とてつもない量の小麦粉、パンだね、砂糖、塩、水。これらを組み合わせて、パン生地を作ります。部屋の中には白い粉が舞っています。丸太のようなたくましい腕がどったんばったん、と、まぜた生地を広い台にたたきつけます。こねてはたたき、重く規則正しい拍子で繰り返します。おでこから汗がしたたり落ちます。たいへんな力仕事です。そのたくましい体全体がパンを焼く「道具」でした。
さらさらの粉が、ねっとりした重い固まりになり、やがては倍にもふくらむ。それをちぎったり、平らにしたり、伸ばしたり、ねじったりして形を作ります。しばらく置いておくと、またふくらみ、それを熱い石がまの中に入れると、しばらくしてあの何とも言えない香ばしい香りがたちのぼってきます。とうとう、出てきたのは、こんがりと色づき、ふっくら焼けたパンです。なんという魔法でしょう!
丸いのや四角いのや、ねじられたのや、木の実が入ったのや、砂糖が雪のようにつもっているのやら、さまざまなパンが、かまどからどんどん出てきます。
親方がパンを焼き上げるようすは、見ても見ても見あきません。そんなことは当たり前になっているパン屋も、にやりと笑いました。
「おもしろいか?」
「不思議でしかたがありません。どうしてこんなことが起きるのでしょう!」
「さあな、ほんとのところはおれにもわからん。きっと神さまのおかげだろうよ。」

外が明るくなるころには、たくさんのパンが焼きあがって店先に並び、村人たちが次々に買いにやってきます。
皆、お気に入りのパンを手にすると、ほっとしたように笑顔になり、足取りも軽く出ていきます。
パンがあらかた売れて、空になったかごを片付けながら、青はパン屋に話しかけました。
「みんな、うれしそうですね。」
親方は、次のパンを焼くための小麦粉を用意しながら、口元にかすかに笑みを浮かべて、言いました。
「誰だって、パンがないと一日が始まらん。おとっつぁんは畑や大工仕事、おっかさんは、家のこと、子どもらの世話。みんな、仕事がきついからな。力をつけるにはパンが必要だ。」
その言葉には、誇りがにじんでいました。

親方と青は、こうして毎日毎日、たくさんのパンを焼きつづけました。一日が終わるころには、体じゅう、粉だらけ、やけどをすることもあります。手足はふらふら、腰も痛み、くたくたになって寝床に入れば、すぐにしこみの時間です。
焼いたパンはあっというまに売れてなくなり、すぐにまた次のパンの用意、また一から同じことをくりかえします。
作業の合間のわずかな時間に食事をとっているときに、青は思わずぐちをこぼしました。
「毎日朝から晩までこんなに働いて、一日の終わりには何も残らない。いやになることはないのですか?」
親方はゆっくりとパンを口の中でかみながら、だまっていました。青が失礼なことを言った、と思い、あやまろうとしたそのとき、親方は古いパンがまや、こね台や、からっぽの棚を見つめながら、低い声ではっきりと言いました。
「パンが売れて、何も残らないって?それこそ、おれの望みなのさ。毎日パンがなくなることこそ、いいパン屋のあかしなんだ。何も残らないだって?(親方はくりかえしました)とんでもない!パンは人の口に入って、その人の一部になるんだ。その人の生きる力になって、いろんなことができるんだ。パンを食べて、大人は働く、子供は大きくなる、病人は元気になる。もっと言うとーパンはみんなの毎日を、この世界を、すべてを作ってるのさ。」

たしかに村人たちは健康で、顔色もよく、働き者で、村には活気がありました。みんな、ここにパンを買いに来るのです。
青はさとりました。
この人こそ、ほんもののパン職人だ。

パン屋は少し気恥ずかしくなったらしく、ごまかすようにぶっきらぼうにつぶやきました。
「やれやれ、こんなこと話したのは、お前さんが初めてだ。おれが村のすべてを動かしているなんて、うぬぼれちゃいない。だが、パン屋にはパン屋なりの考え方ってやつがあるってことだ。誰でも、どんな仕事でも、そいつをもっていなきゃ、本当の仕事はできないんだ。自分さえ、わかっていりゃいいことだがね。」

働いているうちに、青はある奇妙なことに気づきました。
あるとき一日の最後に来たお客に、親方は言いました。
「すまんが、今日はもう売り切れだ。」
青は、店のすみにまだパンがいくつか残っているのを知っていました。そしてそれは毎日のことなのです。
なぜあのパンを売らないのだろう?
その理由を聞けずにいるうちに、日が過ぎました。
もう夕暮れの空に星が浮かび始める時間のこと、パン屋が珍しく遠出して買い物へ行き、青は留守番をしていました。
すると突然、店の外から小さな声がしました。それは五つか、六つくらいの、やせこけた少年でした。
暗がりでも、ぼろ服に裸足の姿から、少年がとても貧しいのが見てとれました。今まで見たことがない客でした。走ってきたらしく、まだ息を切らしています。
汚れた顔の瞳はきらきらと星のようで、うれしくて仕方がないようです。
澄んだきれいな声で言いました。
「パンをください。」
小さな手をめいっぱい広げると、小銭がのっています。
青が、もう売り切れだよ、と告げると、少年はたちまちひどく悲しく、困りはてた顔になり、今にも泣き出しそうです。
「あるよ。」
突然、野太い声がしました。青の後ろから、ぬっと体を乗り出し、少年の前にパンの入った袋を差し出し、大きな手で、小さな手の中の小銭をしっかりと受けとったのは、帰ってきた親方でした。
少年の顔は、ふたたび、ぱっとかがやき、袋の中をのぞきこんで、パンの匂いを思い切り吸いこむと、この世にこれほど幸せな顔はあるまい、と思われる笑顔を浮かべました。次のしゅんかん、風のようにもと来た暗闇の中に走っていきました。
青は、あっけにとられていましたが、残っていたパンがなくなっているのに気づきました。
親方は何事もなかったように、買ってきたものを片づけていました。

それからも、あの不思議な少年は、ときおり、夕暮れの星がまたたくころに小さな手に小銭をにぎりしめて、あらわれて、パンを買っていきました。
少年が来た日は、取っておいたパンがなくなり、来ない日はそのまま売らないのでした。

「あの子は、いったいどこから来るのですか?」
ある日、また少年がパンを買って、どこへともなく去ったあと、二人が遅い夕飯の席についたとき、青はとうとうがまんできず、親方に問いました。
パン屋はその日の夕飯である、皿の中のパンを見つめていましたが、静かに語りだしました。
「あれは、森の奥に住んでいる、この村で一番貧しい家の子どもだ。父親は木こりだったが、木から落ちて大けがをしてから、ろくに働けなくなった。母親も病気がちでな。子どもらはまだ小さい。あの子は一番上の子だが、まだまだ体もできちゃいない。一家にわずかな金が入ったときだけ、ああしてパンを買いに来るのだ。」
青は、少年がけっして落とすまいとにぎりしめていた小銭を思い出しました。
「あのパンを家族みんなでわけるんだ。大事に大事に、できるだけ長くもたせてな。」
匂いを胸いっぱいに吸いこんで、あれほど幸せそうだった少年。本当はその場で一人でかぶりつきたいはずなのに、大切に家に持って帰るのです。

「俺はこの村のすべての人のためにパンを焼いている。どの家が、いつどれだけ、どのパンを食べているか知っている。たまにゃ、立派なお屋敷に住んでいる領主さまからお声がかかり、晴れの宴のために、とびきりいい小麦粉やバター、卵、砂糖をたっぷり入れた、ぜいたくなパンも作るさ。作れと言われれば、『パンの城』だって作る自信がある。」
「だがな」と言って言葉を切ると、青の方をふりむきました。青は、親方がそれほど真剣な眼をしているのを見たことがありませんでした。
「俺が、一番心をくだいて焼くパンを知っているか?それはあの坊ずが買っていくやつだ。」
この店で一番安い、何もついていないパンです。バターや砂糖、くるみもぶどうも何も入っていない、少し塩の味のするだけの、たいへん日持ちのするかたい皮のパン。

「おれにはかかあも子どももいない。だがこの村のみんなの親父のつもりだ。あのちび、あいつをちゃんと大人にしてやらなきゃ、おれはパン屋とは言えん。」

そのとき、青は気づきました。自分が空腹でふらふらになって、木の根元に倒れこんでいたときに、親方が差し出してくれたパン。今まで食べた中でこれほどおいしいパンはない、と思ったパンがそれだったことに。

風の向きが変わり、日差しが一段と強くなりました。時が来たようです。
パン屋の前でへたりこんだ頃のやせっぽちの体は、いつの間にかがっちりと筋肉がつき、健康になっていました。毎日親方と一緒に焼いたパンを食べ、親方と朝から晩まで働く中で、重いものも持てるようになり、大きなパンだねをこねられるようになりました。長い時間働いても、疲れることはありません。

店じまいした後、青は親方のところにいとまごいをしに行きました。
親方はだまって、大きな袋をとり、あの少年が買うのと同じパンをたくさんつめこんでいきます。今朝はやけにたくさん焼くな、と思っていたのです。
これ以上入らないほどパンのつまった袋の口をぐっとしめると、青に差し出しました。
「俺のパンを食えば、ふつうのパンの二倍は遠くまで行けるぞ。」
そして、ぽん、と青の肩をその分厚い手でたたきました。
「お前はいい弟子だった。店をついでもらいたいぐらいだ。だがお前がパン屋ではなく、旅人だってことは、おれにもわかる。旅人は旅をするのが仕事だ。」
二人は固く握手をかわしました。
翌朝まだ夜も明け切らぬころ、青はパン袋を背中にしょって、歩きだしました。かまどから立ちのぼるパンが香ばしいパンの香りを、最後に胸いっぱいに吸い込んで。


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