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「受験勉強は不要だ」という言葉を、誰が語っているのか

ロッシーです。

「受験勉強は不要だ」と語る人ほど、たいてい受験で勝ち抜いてきた人です。

近年、「AIが得意なことを人間がやる必要はない」「だから暗記は不要だ」という言説をよく目にするようになりました。

さらに一歩進んで、「受験勉強は時代遅れだ」「考える力だけを育てればよい」という主張にまで発展していることもあります。

一見すると、時代の変化を的確に捉えているようにも聞こえますが、私はこの議論にはかなりの飛躍があると感じています。

「考える力が大事だ」という点自体には異論はありません。ただ、その前提として見落とされがちなことがあります。それは、思考には材料が必要だという事実です。

人は、何も知らない状態で深く考えることはできません。思考とは、すでに頭の中にある知識や、内面化された言葉・概念を材料にして、それらを比較し、組み替え、仮説を立てる行為です。材料がなければ、思考は始まりようがありません。

この構造は、料理にたとえると非常に分かりやすいと思います。どれほど料理のセンスがあっても、冷蔵庫が空で、食材が一切ない状態では何も作れません。「レシピを考える力」や「アレンジ力」は、食材が揃って初めて意味を持つ能力です。学習や思考も同じで、暗記や基礎知識は思考の「敵」ではなく、思考を可能にするための「食材」のようなものです。

確かに、AIは事実の検索や定義の提示、情報の整理といった点では、人間よりも速く正確に仕事をします。しかし、ここで重要なのは、思考が起こるタイミングです。

ふとした違和感に気づく、「これはおかしいのではないか」と思う、別の可能性を連想する。こうした思考の芽は、AIに質問する前に生まれます。そしてそれを可能にしているのが、頭の中にすでに入っている知識やパターンです。覚えていないものは、疑問として立ち上がることすらありません。

ここまでの話は、主に仕事や学習における思考力を念頭に置いていますが、それだけにとどまりません。たとえば文学作品におけるフレーズなど、人生のある瞬間にふと思い出す言葉があります。それらは何かの役に立つために覚えたものではなく、検索して得た知識でもありません。しかし、感情が言葉にならないときや、自分を少し引いた位置から見つめたいとき、そうした言葉が内側から現れて、人生を豊かにしてくれることがあります。そして、そういう言葉が内側から現れるには、暗記していなければなりません。

そもそも、「受験勉強は不要だ」「暗記は意味がない」と強く主張している人たちの経歴を見ると、東大卒などの難関大学出身者であることが少なくありません。彼らは、大量の知識を覚え、厳しい受験競争をくぐり抜け、思考の基礎体力を鍛えたその後で、「受験勉強は不要だ」と語っているのです。これは、フルマラソンを完走した人が「基礎体力はいらない」と言っている状況に、どこか似ています。

もちろん、文脈のない丸暗記や、使われない知識の詰め込みは改善されるべきです。しかし、受験勉強の本質は、知識そのものではありません。一定量の知識を自分の頭の中に入れ、それを制限時間内に使い回す。この過程で鍛えられるのは、思考の基礎体力です。

この基礎体力は、後から「考える力だけ」を鍛えようとしても、簡単には身につくものではありません。逆に言えば、受験勉強に限らず、そういう訓練をくぐりぬけてきた人は、思考の基礎体力があるのです。


AI時代に問われているのは、「覚えるか、考えるか」という二者択一ではありません。問われているのは、何を覚え、どう内在化し、どう使うかです。思考の材料を持たない「考える力」は、空の鍋を前にした料理と同じです。

AIがどれほど進化しても、人間が自分の頭の中に何を持っているかの価値は、決してゼロにはならない。私はそう考えています。


教育とは、学校で学んだことをすべて忘れた後に残るものだ。 by アルベルト・アインシュタイン

最後までお読みいただきありがとうございます。

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