荘子の『無用の用』って、実はけっこう難しい
ロッシーです。
「無用の用」という言葉を知っていますか?
世間で『役に立たない』とされるものにも、実はそれだからこそ果たせる役割がある、そんな逆説を表した言葉です。中国の思想家・荘子の教えで、役立たずの木だからこそ切り倒されずに長生きできた、という話に由来します。
確かに、現実社会を見ればその通りです。
例えば職場でもそう。仕事ができる人には仕事が集中します。しかし、激務、長時間労働、ストレスと引き換えに、得られるものは周囲よりも少しばかり高い賞与と、少し早い昇進くらいが関の山です。
そのような「努力と得られる成果物の非対称性」を間近で見ていると、
「確かにこの言葉の通りだな。下手に役に立つと、会社にこき使われるだけだ。」
と思うのも納得です。
しかし、だからといって無用の存在になれるか?というとこれがまた難しい。
そもそも、無用になろうとしても、そううまくいくものではありません。もともと仕事ができるような人は、放っておいても有用になろうとする方向に進んでしまうものです。だから、「私は無用になるんだ!」と頑張っても、それはそれでストレスになってしまうでしょう。
100メートルを9秒台で走れる人間が、ちんたらと12秒で走ろうとするようなものです。
もちろん、できなくはないでしょう。意図的に仕事の手を抜き、周囲からの依頼をすげなく断り、しばしば遅刻をして、メールに返事をせず、資料には誤字脱字と根拠不足のてんこ盛りをすれば、あなたの評価は下がるに違いありません。
しかし、「あなたはそういうことができますか?」ということです。
意図的にそういうことができるほど人間というものは器用ではないと思います。自分にあった能力をそのまま発揮するのは自然なことですが、無理にその能力の蛇口を締めることは、とても不自然です。だから、本能的にそういうことをすることに抵抗を覚えるはずです。なぜなら、人間は昔から、集団の中で何らかの役割を果たしながら生きてきたからです。そう考えると、私たちが「役に立ちたい」と思ってしまうのも、ある意味では自然なことなのかもしれません。それほど無用になるということは難しいのです。仮にFIREしたとしても、人間というものは、何かしら有用であろうとしてしまうものなのです。
私は、この「無用の用」という言葉を聞くと、いつもそう思います。
「いや、言っていることは分かるけど、けっこう難しいですよそれ。」と。
それに、人間社会は木とは異なります。
木なら、無用なら伐られずに生き延びられるでしょう。しかし、人間社会では、無用な人間は解雇まではされなくても、左遷されたり、重要度の低い部署に異動させられたりします。給与もあまり増えないでしょう。同僚からも冷たい視線が注がれるかもしれません。そういう風になりたい人は別ですが、多くの人はそうなりたくはないように思います。
つまり、人間社会というものは、有用であるべき圧力が強いのです。
じゃあどうすればよいのか?
無理をして無用になろうとする必要はありません。それに、そうしようとしても、前述したとおり、そもそも難しいですし。
それよりも、「有用であり過ぎようとしないこと」のほうが大事だと思います。
ついつい、有用な人ほど、もっともっと認められようとして頑張ってしまいます。そして、気が付いたら、もう引き下がれない状態に陥ってしまいます。その状態が続くと、精神や身体をやられてしまいます。
有用であること自体は、気持ちが良いはずです。それは私たちの奥底に眠る太古からの自然な欲求を満たすことでもあるからです。しかし、その欲求が独り歩きしてしまわないよう、一定のラインを超えないよう、自分自身の欲望を鷹の目のようにして見張っておく必要があるのだと思います。つまり老子の言う「足るを知る」ということです。
荘子の言葉は、人間社会で生きる私たちにとって、かなりハードルの高いことがちょくちょく出てきます。この「無用の用」もそのひとつです。世捨て人のような人ならそれでも適用可能かもしれませんが、そんな人はほぼいません。
有用であること自体を悪いことのように考える必要はありません。問題なのは、有用であることが目的になってしまうことです。
だから、有用であることを否定する必要はないのです。ただ、どこまで有用であれば十分なのか。それが問題なのではないでしょうか。
色々と「無用の用」について考えましたが、これだけ考えさせてくれるのだから、ものすごく有用な言葉なのではないでしょうか(笑)。
『無用の用』って、けっこう難しいですね。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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