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ロンドンで出会った少年 第6話「優しさ」

「うわぁ、うわぁ、うわあ。」
開いた口が塞がらないとはこのことだ。私の視界に映っているのは、紛れもなくハリー・ポッターの映画のロケ地であり、数々のキャストがまさに私がいるこの地面の上に立っていた。10年以上夢見た世界に立っている。

「語彙3文字しかなくなってますよ」
何をそんなに感動しているのか分からないと言わんばかりの顔のコウくん。コウくんはハリー・ポッターを見たことがないらしい。
「コウくんも映画見たら語彙力3文字になるよ」

「写真撮ろう。私がハリーで、芽衣がハーマイオニー。コウがロンね!」
ソフィアが腕まくりをしながらスマホを内カメラにして構える。コウくんは「え?俺も?」と戸惑いながら私の隣に並んだ。
「ほら、驚いた顔して!」
ソフィアが指示しているのはハリーら3人がロンドンのピカデリーサーカスに姿くらましし、バスにぶつかりそうになった場面のこと。私はその場面が想像つくが、コウくんはまるでさっぱりという顔だ。でも、役になりきる私たちに合わせて全力で表情を作ってくれた。大きな目をさらに大きく見開いて、口もりんご一個分入りそうだ。おまけに両手を自分の顔の両サイドに持ってきて思い切りパーにしている。

「ねえ、ロン驚きすぎなんだけど」
割とシリアスなシーンなのに、まるでアニメのようにコミカルに演じるコウくんに笑いが込み上げてきた。
「笑わないでくださいよ!俺なりのロンです」
「見たことないのに?」
「想像力は大事です」
意地になってさらに大きく口を開けながら全力でロンを演じているコウくん。隣で思わず吹き出してしまった。

「私たち最高の俳優だわ」
ソフィアは撮った写真を満足そうに眺めた。写真を覗き込むと全力で驚いているコウくんと、それを横目で見ながら笑っている私が映っていた。
「芽衣さん!ちゃんとやってくださいよ!」
「コウくんがふざけるから!」
「はいはい2人とも、次のロケ地に行くよ」
口論する私たちを遮るようにソフィアが間に入り、スマホで地図を開いて歩き始めた。

今日はソフィアと私でハリー・ポッターのロケ地を巡る旅。私がツアープランを考え、ソフィアがガイド役。2人で行くつもりだったけど、授業後に2人で乗ったバスにたまたまコウくんも乗っていてソフィアが声をかけた。

コウくんは私やソフィアと違い、ロンドンの滞在期間が長い。私たちは1か月しかいないから毎日のように観光に出かける。ソフィアなんてもう今週帰国だ。でも、コウくんはいつでも行けるからとほとんど毎日直帰しているらしい。ハリー・ポッターも見たことないけど、暇だから行きますと返事してくれた。

「こんなに歩くと思わなかった・・・」
急斜面をずんずん歩く私とソフィアの少し後ろに息を上げたコウくんが続く。
「頑張れ、若者」
「頑張れ、20歳」
ソフィアに続いて私もコウくんを励ます。ソフィアは28歳で私は23歳。一番若いコウくんが遅れを取っていた。ハリー・ポッターのロケ地巡りが楽しい私たちは、きっとアドレナリンで疲労を感じないのだと思う。

「じゃあちょっと休憩しよっかー」
坂を上った先でソフィアが立ち並ぶお店を見ながらつぶやいた。コウくんの目が一瞬で輝きを取り戻すのが見えた。コウくんの嬉しそうな表情を見て、私もソフィアも笑った。

お店の扉を開けると、ドアについていた鈴が軽快に鳴った。薄ピンクの壁に個性的なアート作品の絵がいくつも飾ってある。店内は太陽光が差し込み、ショーケースの中にはクロワッサンやサンドイッチなど種類豊富なパンが並んでいた。

クロワッサンだけで5種類くらいはある。バタークロワッサン、アーモンドクロワッサン、チョコクロワッサン・・・ハムとチーズが挟まったクロワッサンまで。ロンドンのカフェには必ずと言っていいほどクロワッサンが売られているが、こんなに種類が揃っているのは初めて見た。

ソフィアは慣れた様子でアーモンドクロワッサンとコーヒーを注文した。私とコウくんも後に続いてバタークロワッサンを注文した。飲み物もつけると1000円以上かかってしまうため、水筒の水で我慢することにした。

「はあ~~~、足がやばい」
席に着くなりコウくんがうなだれた。足をさすりながらスマホを取り出し、アプリを見て「1万歩歩いてる!」と叫んだ。
「私なんて毎日1万歩歩いてるよ。もう靴底が破れてきちゃった」
「芽衣、新しいの買わなきゃ!」
「でもロンドンで買うと高いし・・・あと2週間我慢するよ」
ロンドンでたくさん歩くだろうからあえて安いスニーカーで来たけど、こんなにも早くガタが来るとは思わなかった。さすがに午後ずっと歩いていると安物の靴も限界だった。

「あと2週間か・・・いいなあ。今週で帰るとか早すぎるよ。もっとロンドンに居たいのに。」
ソフィアは寂しそうな顔をしながらコーヒーを喉に流し込んだ。
「寂しくなるね」
ソフィアは私の唯一の外国人の友達だった。帰国したら私は、もう誰かと出かけたりすることはないかもしれない。

「帰国したら速攻仕事だー!会社のプログラムで1か月留学させてもらってるから、会社に還元しないとだね」
語学学校にはソフィアのように会社の英語研修プログラムとして来ている社会人の留学生が多かった。どちらかと言うと日本人は休学中の大学生が多めで、仕事を辞めてワーホリに来る日本人は数人というところだ。

私みたいに仕事を辞めて来た人たちは、日本に帰ると職探しが始まる。でもソフィアには帰る場所がある。それがとてつもなく羨ましく見えた。

「芽衣は2週間後に帰るんだよね?帰ったら何するの?」
何の悪意もない純粋なソフィアの目。ソフィアはいつもこの目を向ける。「芽衣の選ぶ答えはいつも正しい」「芽衣は賢いね」「芽衣なら何でもなれるよ」と、授業中のペア活動で何度もソフィアに言われた。教科書の問題を解いてペアで答え合わせをする時、文法が苦手なソフィアはいつも数問間違っていた。逆に文法は生徒に教えてきたから得意な私は、いつもソフィアに感心されていた。

帰国後はノープラン、なんて言ってしまうとソフィアにガッカリされそうで怖かった。ソフィアの目から光りが消えるのを見るのが、怖かった。

「芽衣さんハリー・ポッターのスタジオで働いたら一生『うわぁ』って言ってそう。ほら、ロンドンにもあるやつ。日本にもできたし!」
私が返事をする前に、コウくんが明るい声で沈黙を吹き飛ばした。
「あー!日本にあるの羨ましい。ロンドンのはもちろん行ったよ」

ソフィアはスマホをカバンから取り出して、ロンドンにあるハリー・ポッターのスタジオツアーで撮った写真をスクロールしながらたくさん見せてくれた。実際に使われた衣装や生徒が集まるホール。ソフィアは写真を見せるうちに私に質問していたことを忘れてしまっていた。



「今日はありがとう!帰国前に良い思い出ができた。また学校でね~!」
ソフィアはそう言いながら私たちに投げキッスをして帰って行った。私とコウくんはソフィアに手を振ってバス停に向かった。

「コウくん、さっきありがとね」
「え?何がですか?」
コウくんはとぼけた顔をした。でも、私が何に対してお礼を言っているのかコウくんは分かっていると思う。あれは完全に優しさだった。

「帰国後に何するかソフィアに聞かれた時、私なんて言っていいか分からなくて。話逸らしてくれてありがと。
帰国後のことなんて考えたくもなくてさ。でもそんなこと言ったら空気ぶち壊しちゃうし、それにソフィアにどんな顔されるか怖くて。」
「分かります」
コウくんはゆっくりと頷いた。

「ソフィアに限らず、みんな『帰国したら何するの?』ってよく聞くけど、あの質問困りますよね。みんなは帰ったら仕事があったり大学に戻ったりできるけど、でも俺は仕事も学校もない。だからといってやりたいことも決まってないし、でも正直にそれ言っちゃうと『フラフラしてる奴』って思われそうで。だから芽衣さんの気持ちめちゃくちゃ分かります。」

そうだった。コウくんは他の留学しに来ている日本人とは違った。20歳で語学学校に通っている人たちはみんな大学生だったけど、唯一コウくんだけが学生ではなく、留学前にバイトを辞めて来たんだった。

「まあ、そういう俺もこないだ芽衣さんに『帰ったら教師に戻るんですか?』なんて聞いちゃいましたけど」
すみません、と会釈しながら申し訳なさそうな顔をした。
「次やることって、そんなに早く決めらんないよね。もっとゆっくり考えたい。下手に焦って決めて失敗したくないんだー。」

教師になる時もそうだった。やりたいことが見つからなくて、たまたま友達に教員採用試験の対策講座を一緒に受けないかと誘われて行ったら受験する流れになって。他に進む道もなかったからそうしたけど、結局は考えることを放棄したかっただけなんだと思う。だから今回は、じっくり自分と向き合う充電期間が欲しかった。そう言ってただ目の前のことから逃げているだけだと分かっていながら。

「でも、どれだけ先延ばしにしてももう2週間後には帰って決断しなくちゃならない。そろそろ次のこと考えないとね」
”次のこと”と言いながらも、全く帰国後の自分がイメージできなかった。何がしたいかも分からない。今はただただロンドンで、時間がゆっくり流れていくのを肌で感じていたい。

「2週間後か・・・寂しくなりますね」
「ほんとに思ってる?」
コウくんの棒読み感が否めず、思わずツッコんでしまった。
「思ってますよ!俺、芽衣さんともっと早く話しておけば良かったって思ってます」
「あ~それは私もそうかも。コウくんって意外と優しくて、考え方も大人びてるというか。もっと話してみたかったなって」
「意外とって!・・・でも、そう言ってもらえて嬉しいです」
コウくんは恥ずかしそうに笑った。

「俺こんな見た目で人見知りもするから最初はみんなから距離置かれがちで。頑張って話しかけると仲良くなれたりするんですけど、それまでが長いっていうか」
「たしかに、最初は怖かったイメージ。いつもダボッとした黒い服着てて、前髪で表情もよく見えなかったし」
「そうなんですよね、俺ロンドン来てから髪切ってなくて。海外で髪切るの怖くないですか?」
コウくんは前髪をくしゃくしゃと手でかき分けた。前髪を人差し指と中指で挟んで伸ばしたり、横に流したりセンター分けにしたり前髪のやり場に困っているコウくんを見ていると、なんだか愛おしく思えた。

「コウくんって可愛いよね」
「急になんですか」
「いや、可愛いなあと思って」
「生徒じゃないんですから、そんな目で見ないでください」

近寄りがたい雰囲気があるのに、どこか愛らしくて、でも大人っぽくて。掴めそうで掴めないコウくんを、まるで思春期の中学生を見るかのように微笑ましく見つめた。

赤い2階建てのバスがやってきた。前に並んでいた人が大きく手を振り、止まるよう合図した。その人の後に続いて、私とコウくんは一緒に東行きのバスに乗り込んだ。


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