ロンドンで出会った少年 第7話「別れ」
夕方。
ロンドンの日が沈み始めるのは午後8時半過ぎ。遠くの空が少しオレンジ色に染まって、辺りはだんだんと薄暗くなってきた。まだ鮮やかな水色の空を、一機の飛行機が雲をかき分けながら飛んでいくのが見えた。
「ソフィア、帰っちゃったね」
ポツリと出てきた言葉は、意味なんて考えたくないほど感情もなく空へと溶けていった。
ヒースロー空港の帰り道、コウくんとちょっと遠くまで散歩しようと言ってグリニッジに来た。名前の通り緑が豊かで、テムズ川と大きな広場が開放的な空気を創り出している。
私たちはテムズ川沿いにあるベンチに腰掛けた。もう誰も人はいなかった。ただ風が木を撫でる音だけが鳴り響いていた。
「こんなに寂しくなると思わなかった。3週間しか一緒にいなかったのに・・・」
コウくんは「うん」とだけ頷いて飛行機雲を眺めていた。
コウくんは、ソフィアが帰国したことに何とも思っていないのだろうか?
「私、ソフィアだけが素の自分で居られる唯一の友達だったんだ。どんなに拙い私の英語でも嫌な顔なんて1度もせずに最後まで聞いてくれるし、ソフィアも私が聞き取りやすいようにゆっくり話してくれるし・・・。そんな人初めてだった。明るくて面白くて、こんな私にも優しくしてくれて。それなのにもうお別れとか、信じたくない。もう一生会えないかもしれないし。」
ソフィアの母国はブラジルだ。日本から行くには24時間もかかる。飛行機代も簡単に出せないほどで、死ぬまでにはブラジルに行くかもしれないが20代のうちに行くかどうかは限りなく0に近いだろう。「会いたい人には会っておけ」なんて最近よく言われるけど、そう簡単に会いたい時に会えるものでもない。
コウくんの方をちらっと見る。「そうですね」と共感して一緒に悲しんでくれるかと思ったけど、そうじゃなかった。コウくんは顔色一つ変えることなく、グリニッジの景色をただ眺めているだけだった。
「コウくんは、悲しくないの?」
思い切って聞いてみた。コウくんは「えっ」と小さな声で驚き、私の目を見た。ここに来てからやっと目が合った気がする。
「・・・もちろん、悲しいし寂しいです。でも、もう慣れたというか。語学学校に3ヶ月も通ってれば人はどんどん入れ替わって、仲良くなった人とも何度もお別れしてきました。最初は寂しかったけど、でも生きてればまたどっかで会えるし。一生のお別れじゃないと思うんです」
「でも、ブラジルだよ?簡単に会いに行けないじゃん」
コウくんは私を励まして言ってくれたはずで、それは心の底から分かっていたけれど、そんな美談で終らせたくないと思ってしまった。もっと現実的に考えて、同じ悲しみを分かち合いたかった。
コウくんは口角をきゅっと上げて、優しい目を私に向けた。
「ブラジルが難しかったら、またロンドンでもどこでも、会いやすいところで会ったらいいんです。ソフィアが日本に来たいって言うかもしれないし。そこはきっと、2人の強い意志があれば、どうにかなります。だから・・・」
「そんなに悲しまないでください」って言おうとしたんだろうなと思った。でもそれを言うと悲しんでいる私を否定する言葉にもなりかねないから、コウくんは口をつぐんだのだと思う。どこまで行っても、コウくんは優しい人だった。
コウくんと最初に出会った時、「どうにかなることだけ、どうにかしたらいいんです」と言っていた言葉を思い出した。コウくんは困難な状況でも、それが「どうにかなること」なのか、「どうにもならないことなのか」を判断して考えることができる人だ。それは何か過去に「どうにもならないこと」を経験したことが、あるからだろうか。
「コウくんって、なんで進学しなかったの?」
ずっと聞きたくても聞けなかったこと。今しかないと思った。もっとコウくんを知りたいと思った。
コウくんは驚きも戸惑いもせず、少し黙った。私に話そうか話さまいか考えているのだろうか。
「暗い話になっちゃうんですけど」
コウくんはそう前置きして、暗くならないように少し声のトーンを上げた。前のめりになって両膝にひじをついて、両手を組んだ。
「高3の時、姉が病気になったんです。4つ年上で、新卒で大手企業に入って半年経った頃でした。上司からひどいパワハラを受け続けていて、心を壊してしまったんです。
1人暮らしだったから家族誰も姉の状況に気づけなくて、たまに帰ってきても明るくていつもの姉だったので。でもその時、やけに痩せたなって思ってたんです。それがストレスで何度も吐いていたからだって分かったのは、姉が鬱になったのを聞いてからでした。」
想像するだけでコウくんとご家族の苦しい思いが手に取るように分かった。一番辛いのはコウくんのお姉さんだけど、それに気づけなかったのも相当辛かったと思う。
「姉は学生時代から成績優秀で、大学も有名な国立に入れて。理系で研究が好きで、でも早く働いてお金を稼ぎたいからって大学院には行かず企業に就職しました。両親も親戚も『将来は安定だな』ってすごく喜んでて。俺も姉みたいに真っ当な人生を歩もうと思って、周囲に喜んでもらいたくて、姉と同じ大学に入ろうと受験勉強を頑張っていた時でした。
でも、姉が病気になって実家に戻ってきてからは両親の期待が俺の方に向いてきて。『コウだけが頼りだからね』、『コウは普通の人生を歩んでね』って・・・。
なんか俺、それが信じられなくて。普通の人生って何だよって。姉は鬱になりたくてなったんじゃない。心が弱いからじゃない。鬱病は誰にだってなる可能性があるし、なんならパワハラしてた上司が一番悪いのにそれに負けた姉が悪いみたいに両親も会社も思ってるし、そんなめちゃくちゃなことあるかよって思ったんです」
コウくんの声が震えていた。
いつもは冷静で感情的になんてならないのに、手も震えて、それを必死に隠そうと強く両手を握りしめていた。こんなコウくん初めてだった。
「だから、辞めました。受験勉強も、周りのために一流大学に入るのもなんか馬鹿らしくなったんです。俺は俺のやりたいことを、自分のためにやろうって思ったんです。
ロンドンには小さい頃一回来たこともあって、あんまり覚えてはないんですけど、でもこの雰囲気がすごく好きで。もう一度ロンドンに来ることが夢だったんです。だから進学せずに、ロンドンに来たんです。」
コウくんは「長々と聞いてくださってありがとうございます」と落ち着きさを取り戻して私に会釈をした。もう声も手も震えていないし、優しい目のコウくんに戻っていた。
「そんなことがあったなんて・・・無神経な質問してごめんね。」
「いいんです。芽衣さんになら、話そうって思えました。今まで誰にも話したことなかったんで、なんか、変な感じです。でも全然、同情とかして欲しいわけじゃなくて。芽衣さんも色々話してくれたので、なんか俺のことも知って欲しいって思ったんです」
コウくんの冷静さと、時々何か諦めたような顔をするところ。20歳で社会の残酷さを知るには、早すぎる。周りのプレッシャーや期待に応えようとするたび、自分がどんどんすり減っていく感覚。それをこんな優しいコウくんに、味合わせたくなかった。
周りじゃなくて、「自分が」どうしたいのかが大切だと気づいたコウくんだからこそ、考え方が大人でいつも冷静なのかもしれない。
教員時代も、学校の成績が下がったから塾に入れさせられたという子や、塾の成績順のクラスが下がって泣いている子を見てきた。夜遅くまで塾に通って学校の休み時間は寝ていたり、授業中に塾の宿題をやったり。
なんかもっと、伸び伸びと、できないのだろうか。と思っていた。
塾に入りたくて入っている子は、どれだけいるのだろうか?と。
コウくんも、周りのプレッシャーなしに受験勉強を続けられたら良かったのに。でも、ロンドンに来ることがコウくんにとっての幸せなら、それで良かったとも思う。他人の幸せを勝手に他人軸でジャッジしてはいけない。
「コウくん、ロンドンに来て良かったと思う?」
「それは本当に思います。みんな自由で、好きなことをやって、生き生きしてて。お互い認め合って受け入れ合ってる。こんなに心地いい場所他にないと思います。」
コウくんははっきりと断言した。
大卒じゃないと給料も低くなるかもしれないし、就職先も大卒よりかは減るかもしれない。それでもコウくんが覚悟を決めてやったことに誇りを持って、喜びを感じているのなら、こんな幸せなことはないと思った。
「良かった。」
「もちろん姉のことは心配なんですけど。でも、今は実家暮らしで週3でバイトをできるくらいには回復することができて。ロンドンに行かせてくれた両親にも感謝しなきゃですね」
「・・・きっと、ご両親も今のコウくん見ると誇りに思うと思うよ。コウくんの優しさに私何度も救われたもん」
「本当ですか?俺なんもしてないですよ」
コウくんははにかんで笑ってみせた。無邪気な表情に、少し子どもらしさを感じた。
「芽衣さん、ソフィアが唯一の友達って言ってましたけど、俺は友達じゃないんですか?」
少し間をおいて、コウくんは少し寂し気なトーンで話し始めた。
「え?そりゃもちろん友達だよ!」
「でも、こないだもソフィアが帰国したら1人になる~って嘆いてましたよね。俺は透明人間かなんかですか?」
少し怒ったようにぶっきらぼうな言い方をしたコウくん。なんだか拗ねた子どもみたいに見えた。
「違うよ!なんていうのかな・・・ソフィアは外国人の、唯一の友達で・・・ロンドンに来なかったら会えなかったわけで・・・そのちょっと特別というか・・・あ、でもコウくんが特別じゃないとかじゃなくて・・・」
ダメだ。何を言ってもコウくんを傷つける言い方になってしまう。
何ていえばいいのかと迷っていると、コウくんは吹き出して笑った。
「芽衣さんって本当に面白い。からかいたくなっちゃいます」
「え?からかってたの?ひどい!」
「いやでも、なんでソフィアだけ?って思ってたのは本当です。もちろん、ソフィアが特別な存在なのは俺も一緒ですけど、でも芽衣さんも俺にとっては特別です。だってロンドンに来てなかったら一生出会うことなかったかもしれないんですよ?」
確かにそうだ、と思った。ソフィアや他の留学生も、国が違うっていうだけでロンドンで出会えたことが奇跡のように思えたけど、それは日本人にも言えることだ。
コウくんも、クラスメイトの他の日本人も、ロンドンに来て同じ語学学校を選ばなければ会えなかったかもしれない。日本ですれ違うくらいはあるかもしれないけれど、それだって可能性は限りなくゼロに近い。日本人の子たちだって、今出会えていることが奇跡で、特別なんだ。
「・・・うん。うん、確かにそうだね。今この時期にロンドンに来なかったら、コウくんにも出会えなかったかもしれないよね。すごい、何で気づけなかったんだろう」
恥ずかしさで熱が顔に込み上げてきた。留学したての頃、日本語を話したくないから日本人とは関わらないように避けていた自分が恥ずかしい。上手く話せないくらいで他の外国人のクラスメイトとも距離を置いたのも、未熟で、弱虫で、臆病だからだ。ここで出会えたことをもっと幸せなことだと思えていれば・・・。
「はぁ・・・もっと早く気づければよかった。もうあと1週間で帰国だよ」
「まだ1週間もある、ですよ!まだ時間はあります。ロンドンでやり残したこと、あるんですか?」
やり残したこと。ロンドンに来たらやりたかったこと。行きたい場所には、ほとんど行った・・・あとやりたかったことと言えば・・・
「うん。ある。コウくん、協力してくれない?」
