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ロンドンで出会った少年 第4話「ロンドンの生活」

朝の時間

ロンドンの朝は静かだ。
シンプルな白い机と、収納付きベッドと、黒い取っ手がついた薄茶色のタンスが置かれた5畳半の部屋。壁には大きなイギリスの地図とロンドンの電車の路線図が貼られている。場違いのように置かれた黒光りするキャリーケースと、その上にくしゃっと脱ぎ捨てられたGジャン。

ベッドの横にある縦長の窓からは家の庭が見下ろせる。朝から黒いトイプードルが走り回り、向かいの家の窓から白と茶色のぶくっと太った猫がそれをじっと見ている。
空にはキャンバスにのせたような真っ白な雲がもくもくと浮いている。4月の風はまだ強く吹き、庭の木々を揺らしていた。
時間がゆっくりと流れていく。空の雲のように。

私、本当にロンドンにいるんだ。
ロンドンに来て5日が過ぎた。未だに自分がロンドンにいることが信じられない時がある。流れる時間が、あまりに、ゆっくり過ぎて。

日本にいた頃、教員時代の朝は最悪なんて言葉では足りないほど絶望的だった。晩御飯の欠片が詰まった歯に汗臭い体。カッターシャツには皺がつき、前髪はクッションと擦れて変な方向に跳ねている。マスカラの黒いカスが目元に転々と落ち、ファンデーションの粉は吹き上げている。ソファのそばにスマホが落ちていて、拾い上げて画面を見ると時間は朝の5時。今日もやってしまったと悔いる間もなく、急いでお風呂場へ直行。髪を急いで洗い、乾かし、歯磨きをし、着替えて、メイクを落としたばかりの顔にまたメイクをして、駅まで走る。これが私の日常だった。

誰にも言えなかった。学校に着けばいつのもの時雨先生に変身する。朝の不潔さも寝不足も感じさせないよう、精一杯笑顔で振る舞う。「若くて綺麗な先生」でいたかった。生徒に可愛いと言われ、同僚にも若くていいねと言われ、そういう時雨先生を必死で保っていた。

とはいえ、23時帰宅からのソファで寝落ち生活は明らかに健康上良くなかった。イライラする頻度が増えて、仕事も何もやる気が起きなくなった。学校ではカタカタとタイピングの手を休めることはないのに、家に着くと空かした腹に牛丼を詰め込むとすぐに寝てしまい、明日の授業構想を考えようと持って帰ってきた教科書は1度も開かないままになった。

管理職から紹介されたカウンセラーには、「ベッドで寝ましょう」「睡眠時間を確保しましょう」「自分を褒めましょう」とアドバイスされた。そのどのアドバイスも遂行できなかった。根本の問題が解決されない事には何もする気が起きなかった。

その問題を「退職」という形でしか解決できなかったが、でもその選択は本当に正しかったと、ロンドンの空を見て思う。
ロンドンに来て、お風呂と歯磨きを済まし、1度も夜中に目覚めることなくぐっすりベッドで眠れて、朝は8時に家を出ればいい。そんな夢のような生活を送っていては逆にバチが当たるんじゃないかとさえ思う。それくらい、贅沢な時間を過ごせている。

部屋を出て1階に降りる。リビングに目をやると、さっきまで庭にいたトイプードルのサラは、ホストマザーのレイリーの膝に顎をのせてくつろいでいた。
「おはよう、メイ。」
「おはよう。サラ、可愛いね。庭で走ってるの見たよ」
「あぁ、毎朝運動しては私の膝に休憩しに来るのよ」
レイリーはそう言ってサラの頭をそっと撫でた。大きなテレビにはイギリスのドラマが流れている。レイリーはいつも、朝はソファに座りコーヒーを飲みながらドラマを見ている。忙しい朝のバタバタ感からはかけ離れた、ゆとりのある生活が羨ましかった。老後はこんな風に過ごしたい。

キッチンに向かい、パンをポップアップトースターにセットする。今日はびっくりしないからな、と誓いながらスマホを弄る。ロンドンが7時の時は、日本が15時。寝ている間に来たメッセージの返信を朝に返すのが日課だ。

友達へのLINEの返信を打っていると、トースターがガサッと大きな音を立てパンが勢いよくとび出した。その音に反応して私の肩も一瞬上がる。今日も驚いてしまった。ポップアップトースターに慣れてなくて最初使った時はえらくびっくりして心臓が止まるかと思った。5回目の今日さえも慣れない。

この家は、朝は何でもテキトーに食べてよし、夜は冷蔵庫に入れておくからレンジでチンして食べるスタイル。だから朝も夜もホストファミリー揃って一緒に食べることはない。ホームステイと言えばみんなで集まって食卓を囲むイメージだったが、ここの家は自由スタイルだった。家にはレイリーと夫のベンと犬のサラだけで、レイリーもベンも必要以上に私に干渉しない。私にはそれが合っていた。話したいときに話しかけ、食べたい時に食べる。気疲れしがちな私には過ごしやすい家だった。

1人と自由

5日目となれば通学路も慣れた。最初は通り魔に銃で撃たれないか心配だったが、そんな心配をして臆病になりながら歩いているのは私だけだった。人が普通に住んでいるということは、そういうことだ。日常があるということは、均衡が保たれているということだと気づいた。

電車にはアジア人は私だけだった。やっぱり電車に乗るたび色んな人の視線を感じる。日本では外国人が電車に乗ってくると目で追うことがあったが、ここでは私が「外国人」だった。

学校までは2つの電車を乗り継いで1時間かかる。東から北へと向かう道中の景色は飽きない。街中に急に古い教会が現れたり、赤いバスが次から次へと走ったり、ロンドンの中学生の制服がアイドルみたいで羨ましかったり。何をとっても面白い。新鮮。ロンドンは私の心をすぐ虜にした。

語学学校は午前中の3時間半。午後からはフリー。私は英語教師だったにも関わらず中級レベルのクラスに入れられた。クラスメイトには元英語教師だと先生から紹介され、少し恥ずかしかった。でも、誰も私の経歴なんか気にしてなかった。クラスメイトはごく普通に私を私として受け入れてくれた。

「メイ、今度ハリー・ポッターのロケ地巡らない?」
教室に入ってコの字型に並べられた席のうちの1つに荷物を置くと、隣の席のソフィアが話しかけてきた。ソフィアは私と同じハリー・ポッターオタクで、留学先をロンドンにしたのも同じ理由だった。
「ロケ地行きたいと思ってた!」
「行かなきゃロンドンに来た意味がないしね。来週の月曜にでも行こう!」
海外の人と友達になるのは早い。約束もすぐに決まる。ご飯に行くとなるとそれぞれが友達を誘い、大人数になる時もある。でも私には、ヨッ友はたくさんいるものの固定の友達がいなかった。ロンドンに来てからも1度も友達と観光したことはない。でもソフィアとは授業中のペア活動で一緒になった時に意気投合し、毎日話すようになった。

私にとってソフィアは唯一の友達だけど、ソフィアにとっては私は大勢の友達の中の1人にしか過ぎない。だから今日だってソフィアは他の友達とお昼ご飯を食べて観光に出かけるけど、私は1人でマクドナルドでチーズハンバーガーを食べ、1人で観光する。寂しい。でも、それで良いとも思う。

1人の方が気楽だ。誰にも気を遣わなくていいし、美術館も自分のペースで周れる。友達の話す英語が聞き取れなかった時に聞き返すか、聞き取れたフリをして当たり障りのない返事をするか迷う辛さを味わうこともない。

でも、あの映画良かったよねとか、これ美味しいねとか、そう言える相手がいたらと思うときもある。矛盾していると分かってはいる。結局は1人の時間とそうでない時間をバランスよく持てたら一番良いのかもしれない。

2日目にクラスの飲み会があった時はなじめなくて居心地の悪い時間に耐えるのに必死だった。周囲の英語は早くて聞き取れないし会話にもついていけない。話をフラれないと話せない。騒いで盛り上がっている人たちを席に座りながら作り笑顔で見ている。そんな自分がたまらなく嫌いでもあり、でもどうしようもなかった。

海外に来たら、ロンドンに来たら、そんな人見知りで猫かぶりな自分を変えられるかもしれないと思っていた。大学時代の友達が日本では着たこともないようなノースリーブス1枚で出かけたり、海外の友達と肩を組んでお酒を飲んでいたり、そういう「殻を破った」人を見ると自分もそうなれるかもしれないと思えた。

全ては自分次第。頭では分かっているけど、それを実行できるかできないかは別だ。私が私を引き留めるものは何なのか、分からなかった。




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