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ロンドンで出会った少年 第3話「空港」

時差ボケ

言ってみたかった言葉。「完全なる時差ボケだ」

14時間のフライトはきつかった。案の定トイレに立つこともなかった。隣に座っていた男性2人は広々と席を使っていて私は窓にひっつくようにしていて寝ていた。深夜の夜行バスは寝ていれば着くが、飛行機は何度寝ても、起きたら薄暗い機内とおじさんの「ググッ」という苦しそうないびきが響き渡るだけだった。

珍しく早起きしたもんだから機内では眠気がマックスだった。楽しみにしていた映画も何度つけても寝落ちしていた。寝ていると何度もCAさんが席にやってきた。1回目はクラッカーのおやつと飲み物を。2回目は昼ご飯、3回目は飲み物、4回目におしぼり、5回目に夜ご飯、6回目に飲み物。計6回もCAさんがやってくる。

その度に起きていなければいけないため、浅い眠りしかできなくなっていた。そんなに働かなくてもいいのに、と思ってしまう自分がいた。たくさん飲み物を飲んだらトイレにも行きたくなってしまう。「大丈夫です」と飲み物のおかわりを拒むと、失礼しました、と困り笑顔で返してくるCAさんに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

ロンドンのヒースロー空港にやっと着いたというのに、寝不足と時差ボケで体調はすこぶる悪く、頭の血管がドクドクと波打っている。このまま倒れて寝てしまいたかった。フラフラする頭を首に意識を込めて支えながらパスポートを握りしめた。

出国ゲートには縦長のモニターとパスポートの顔写真をスキャンする機械があった。自分の番になってモニターを見ると、そこには疲れ果てた私の顔が映し出された。目の下にはクマができて目も半分くらいしか開いていない。べたついた前髪、肌は余計な皮脂でテカテカと光っている。最悪のコンディション。これから1か月生活を共にするイギリス人のホストファミリーに会うというのに。

バッチリとメイクされたパスポートの顔とは全く別人のように見えたが、機械は正確に私の顔と判断しゲートが開いた。そのままキャリーケースを取りに歩く。案内板は全て英語だったが、英語を大学時代から専門で学んできた身としては特に不自由なく案内板が理解できた。スピーキング能力は皆無だが、学生時代に英単語帳を毎日電車で読んでいた自分が報われた気がして誇らしく思えた。

次々とキャリーケースが流れていく。海外ではここでキャリーケースを盗難されることもあるらしく、荷物が落とされるその入口で待つことにした。ここは海外だ。ボーっとする頭をフル回転して細心の注意を払う。私はショルダーバックの肩ひもをギュッと握った。

ロンドンは夕方の4時だった。日本は夜の12時だ。普通だったらもう歯磨きをしている時間なのに、あと少なくとも5時間は起きておく必要がある。だがもう眠気はピークに達していた。これが時差ボケというものか。

去年の12月を思い出した。私の大好きなイギリス人の俳優であるベネディクト・カンバーバッチがイベントで来日した時のことだ。彼は日本に来てすぐ次の日から3日間のファンイベントを笑顔でやり遂げた。時差ボケで辛いはずなのに、3日間朝から晩までファンと撮影してサインを書いて。彼に比べたら私の今の状況なんて、全然マシだった。

逆にそんな時差ボケの中で、一人ひとりに丁寧に接していたベネディクト・カンバーバッチは最高じゃないか、とも思った。私が行った2日目に彼とツーショットを撮った。会話する時間なんてないほど回転率が凄まじかったが、彼は「thank you」と青い目を私に向けて言ってくれた。それがどれだけすごいことなのか、今になってようやく分かった。

だから私も、今は時差ボケで体調も悪いけれど、これから会う送迎ドライバーとホストファミリーには明るく接しようと思った。第一印象大事だし。ベネディクト・カンバーバッチもきっとそうすると思う。体調の悪さなんて表に出さず、きっと相手の目を見て優しく笑いかけると思う。私も彼のように振る舞おう。私はベネディクト・カンバーバッチだ。

そんなことを考えていると、目の前に黒いキャリーケースがゴトッと音を立ててレーンに放たれた。これは間違いなく私のだった。すかさずキャリーケースを取り上げ、そういえばこんなに重かったな、と今朝の感覚を思い出した。

待ち合わせ

そのあとは送迎ドライバーとの待ち合わせだ。ホストファミリーの家まで送迎してくれる。留学エージェントが手配したドライバーで、アルマンドという男性だ。送られてきた顔写真からすると、南米系の40代くらいの人だ。

出口には大勢の送迎ドライバーが待っていて、みんな送迎する人の名前をスマホやタブレットに書いてこちらに見せている。メルセデス、ダニエル、チョウ、、、一つずつ名前を横目で確認しながら進んでいく。

一通り全部見終わったが、私の名前を掲げたアルマンドは見つからなかった。「送迎ドライバーと会えなかった」という以前ネットで読んだ誰かの留学体験記を思い出した。まさか、自分もそのパターンなのか?もし会えなかったら?どうやってホストファミリーのところまで行く?電車も何もかも分からないのに自力でたどり着ける?急な不安が駆け巡り、冷や汗がぶわっと溢れ出した。

でも、大丈夫。こういう時のためにアルマンドの仕事用電話番号も送られてきていたから、電話すれば大丈夫。そう思ってスマホを開いた。が、私はスマホのSIMを入れ替えるのではなく、eSIMを使っていた。eSIMは専用のアプリをダウンロードするだけで海外で使うことができるお手軽SIMだ。

ただ、その代わり通話は使えなかったことを思い出した。LINEの通話は別だが、携帯番号にかける通話はできない。詰んだ。アルマンドに電話すらできない。

その時、カスタマーセンターが目に入った。困った時に駆けこむことのできるサービスカウンター。ここでスタッフの人に電話をかけてもらえばいいんだ。
よし、私冷静。大丈夫大丈夫。なんとかなる。とまるで組み分け帽子をかぶる前のハーマイオニーのように自分に言い聞かせた。

重いキャリーケースを引っ張ってカスタマーセンターに向かおうとした瞬間、入り口から1人のスーツ姿の男性が入ってきた。南米系の、40代くらいの男性。私たちの視線は1ミリもズレずに重なり合った。私も彼も、進む足を止めた。一瞬時が止まったかのような感覚。

彼はゆっくりと自分の持っていたタブレットを私に向けた。そこには「Mei Shigure」と私の名前が書かれていた。

「・・・アー、ユー・・・アルマンド?」
目の前にいるのは確実にアルマンドだと分かっているのに、どこか信じられなくて、日本人丸出しのカタカナ英語でアルマンドに尋ねた。彼は「イエス!」とパッと明るい笑顔で返してくれた。その瞬間緊張がふっと解けて、ガチガチの肩が緩んだのを感じた。安心した。これでホームステイ先まで連れて行ってもらえる。

「いやぁ、今着いたところだよ!グッドタイミングだね!」
確かにアルマンドがターミナルに足を踏み入れた瞬間に出くわしたのは、グッドタイミングすぎた。けれど、もっと早く来てくれてたらこんなに不安に駆られることもなく済んだのに!と少し怒りが沸々と込み上げてきたが、今の私はベネディクト・カンバーバッチだから!と思い込むとそんな怒りの感情はスッと引いていった。ベネディクト・カンバーバッチなら、こんなことで怒ったりしない。

アルマンドは私のキャリーケースを「疲れてるでしょ」と言って代わりに車までゴロゴロと引いてくれた。時間にルーズだったり、優しかったり、ネットで読んでいた通りの海外の人という感じだ。

私のキャリケースを重そうに抱きかかえ、ワゴン車の後ろに乗せた。「センキュー」と言うと、「どうぞ」と車の扉を開けてくれて私が乗るまで傍で待ってくれていた。なんだかお嬢様になった気分だった。

1人ではもったいないくらい広々とした車内で、ドライバーの前部分を除くと後ろは6人くらい座れそうだ。椅子の背もたれは全て倒されて寝転ぶこともできる。両サイドのポケットには水が入ったペットボトルが5本ずつと、金色の包み紙で丸く包まれたチョコレートが10個ずつ置いてあった。

「そのチョコは僕のお気に入りなんだ。好きに食べていいよ!お金は取らないから安心してね!」
アルマンドがシートベルトをしめながらミラー越しに私を見て言った。また私は「センキュー」と言ったが、もし水の中に睡眠薬が入っていたら?チョコレートの中に薬物が入っていたら?と最悪の事態を想像してしまうのであった。こういう時、普通の人なら素直にいただくのだろうか。

日本にいた時もそうだった。基本的に人は信用しない。警戒心が高いゆえに自分のこともあまり話さないし、必要以上は相手に干渉しないようにもしていた。「芽衣って心に土足で入られるの嫌でしょ」大学時代の友達に言われた言葉を思い出した。

海外に来た私はその警戒心が2倍にも増した。到着してからずっとそうだ。周りの人が全員悪い人に見える。スマホをすられるかもしれない。キャリーケースを盗られるかもしれない。事前に予習した海外で気を付けることリストを暗記し、24時間常にバリアをはっているような感覚だった。

アルマンドが良い人なのか分からない。もしかしたらこのままホームステイ先には向かわず、山奥に連れていかれるかもしれない。今ここでいきなり銃を突きつけてくるかもしれない。

一度そう思ってしまうと、アルマンドが悪い人にしか見えなくなってしまった。いつでも外と連絡が取れるようにスマホをつけて、LINEの画面を開きながら握りしめた。

そんな警戒心激高の私を気にすることもなく、アルマンドは車を少し速めに走らせた。
空港を出て、初めて海外の道路を見た。隣にはイギリスの車が何台も走っていて、車のナンバーは英語と数字が混ざって何を示しているのかも分からないけれど、ああ、本当にイギリスに来たんだと実感できた。

「どこ出身なの?」
アルマンドがミラー越しに目を合わせて話しかけた。
「日本です。」
「日本かー。日本好きだよ。行ったことはないけど、人も場所も素敵だよね。日本語もちょっと知ってるよ。まいどまいど!おおきに!」
ふふっ、と思わず笑みがこぼれた。日本語の中でも特にローカルな関西の言葉を話していることに驚きと嬉しさが込み上げてきた。

「なんでそんな日本語知ってるの?」
「今まで送迎してきた日本人に教えてもらったんだ。日本人は車も綺麗に扱ってくれるし、礼儀正しいし、日本人って本当に素敵だよ」
アルマンドが出会ってきた歴代の日本人が、アルマンドの日本に対するイメージを作ってくれたんだなと思うと、私もそのイメージを崩さないようにと使命感に駆られた。次にアルマンドと出会う日本人に繋げるために。

「アルマンドはイギリス出身?それとも引っ越してきたの?」
「ブラジルだよ。もうかれこれ20年前になるかな、移住したのは。」
「20年?すごい長いね。イギリスはどう?住みやすい?」
「まあ~治安は良くないけど、でも人はみんな優しいね。」

チョコレートも美味しいし、とアルマンドは自分の座席に置いていた開封済みのチョコレートをつまんだ。アルマンドは私のカタコトの英語でも優しい笑顔で聞いてくれていた。アルマンドの英語は少しブラジル訛りが入っていて聞き取れないこともあったが、会話は続けることができた。私、イギリスで英語で喋ってる!と今更ながら感動が走った。

ロンドンの街

1時間くらい経ったかな。私はいつの間にか寝てしまっていた。
今日初めて出会った人の車内で眠るなんて驚いた。私の警戒心はすでに解けていた。そうさせたのは、アルマンドの優しい人柄だろう。私は気づかぬうちにアルマンドに気を許していたのだ。

「よく寝てたね~。もうすぐ着くよ」
窓に目をやると、そこはイギリスらしい赤茶色のレンガ造りの建物が並ぶ街だった。
「すごい・・・」
思わず日本語で感想がこぼれた。私、本当にイギリスに来たんだ、と本日何度目か分からない”イギリスに来た実感”を得た。

緑色の建物はカフェで、外にはテラス席もある。サングラスをかけた男女がアイスコーヒーを手にしながら談笑している。大型犬を連れて歩いている紫色のカーディガンを羽織ったおばあさん。買ったばかりであろう黄色や水色の花束を手に抱えた若い女性。イヤホンをしながら白いキャップをかぶってランニングしている男性。全てが、まるで映画の中に入り込んだかのようなカラフルな世界だった。

胸が高鳴った。
ここで1か月生活するんだ。夢にまでみたロンドンで、夢のような生活ができるんだ。変われるかもしれない。新しい自分になれるかもしれない。もう一度、人生をやり直せるかもしれない。

ここで頑張ろう。1か月、死ぬ気で頑張ろう。英語も友達作りも頑張ろう。

少なくともここ1年では湧き上がってこなかった意欲が湧いた。私の口角は上がりっぱなしで、眠そうな目は開ききっていた。

車は一軒家の前で止まった。アルマンドは「着いたよ」と声をかけ、車を降りてキャリーケースを出してくれた。
「楽しんでね、ロンドン」
アルマンドは笑顔で私の目を見て言った。私も「センキューソーマッチ!」と笑顔で返す。アルマンドはウインクをして、再び車に乗った。ロンドンで初めて出会った人が、アルマンドで良かったな。

アルマンドを見送り、後ろを振り向くとそこには小さな2階建ての家があった。

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