イブ物語|判断寓話|エラとヨル|第四十話 紅き瞳の仮面① 奈落の底から見上げた夜空
*本作には、暴力・支配・監禁を想起させる描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。
私の赤い瞳に、紫色の髪が映る。
「ニコ……」
私に向かって投げかけられたその言葉が、わずかに心を揺らした。
遠い昔の記憶。
忘れたはずの思い出。
それなのに、すべてが鮮明によみがえっていた。

エラとヨル 第四十話
【紅き瞳の仮面①】
【奈落の底から見上げた夜空】
薄暗い牢獄に、私は横たわっていた。
体には無数のあざがあり、鈍い痛みで動くこともできない。
遠くから、悲鳴に似た声が聞こえる。
どこかで咳き込む音。
すすり泣く声が、静かな牢獄に響いていた。
ここに連れて来られてから、何日経ったのだろう。
もう思い出せない。
私は、パンを盗んだ罪で捕まった。
友達と分けるためだった。
だめなことだと、わかっていた。
――でも、あの日くらいは。
二人で分けたパンの味も、もう思い出せない。
切れた口の中に残っていたのは、血の味だけだった。
次の日には、憲兵にここへ連れて来られた。
取り調べなんてものはなかった。
「違う」と言えば殴られた。
黙っていても殴られた。
最後には、うなずくことしかできなかった。
罰として与えられたのは、餌場の片付けだった。
この街は、大きな生き物の上に築かれている。
餌場は、その生き物に食わせるものを集める場所。
そこを片付けるのが、私の仕事だ。
毎日、荷車に積まれた大量のゴミを集めては、袋に詰める。
街で生まれたゴミは、すべてここに届く。
ゴミという言葉でまとめられているだけで、その中身はひどいものだ。
糞尿。
ネズミや家畜の死骸。
ときには、人の死体まで混じっていた。
この街には、墓場がない。
街で死んだ者は、この街を支える生き物の餌になる。
そう、昔から決まっていた。
腐臭の漂う場所で、ぼろ布を口に巻き、ゴミの山からそれらを拾い集めては袋に詰める。
日も当たらない薄暗い場所で、子供だった私は、言われたことをただ繰り返した。
食事は、薄いスープとコップ一杯の水だけ。
手のひらの豆は、潰れてはでき、できては潰れた。
それでも生きるために、私はなんでもした。
ゴミの中から食べられるものを見つければ、ためらわず口に入れた。
味なんて、どうでもよかった。
空腹のまま眠れないより、ずっとましだ。
壁に刻んでいた日付も、途中で数えるのをやめた。
諦めたわけじゃない。
ただ、うまく手が動かなくなっただけだ。
夜になると、格子のはまった小さな空を見上げた。
その向こうに、仲の良かった友達の姿を思い出す。
「エラ……」
口にしたら消えてしまいそうな思い出が、瞬く星空の中に、かすかに浮かんでいた。
涙は、とっくに枯れていた。
それでも、私は生きることをやめなかった。
隣の牢の女が死んだ日、私は仕事の時間でもないのに、その死体を運ばされた。
拾って食べたものが悪かったのか、その日は何度も吐いた。
熱もあって、意識はずっとぼんやりしていた。
それでも看守は気にもしない。
にやにや笑いながら、私を叩いて命じるだけだ。
ここへ来た時には、私より年上で、髪も綺麗だった女。
けれど今は、見る影もなくやつれた躯になっていた。
私は死体を乗せた台車を引き、いつもの餌場まで歩いた。
足がもつれて、まっすぐ進むことさえ難しい。
虚ろな目で前を見ると、一人の男が立っている。
整った黒髪に、上等な服。
細く切れ長の目が、笑っているように見えた。
男は真っ白なハンカチを鼻に当て、こちらを見ている。
こんな場所には、あまりにも似つかわしくない姿。
それなのに、目が離せなかった。
いつもは傲慢な看守たちが、その男に頭を下げている。
「ブルースの旦那、どうなさいましたか」
その時、看守の一人が私の姿に気づいて怒鳴った。
「お前! こんなところで何してる!」
そう言うと、腰の棒を抜いて私に迫る。
熱にうなされ、体が動かない。
――あぁ、ここで終わりか。
そう思って立ち尽くした、その時だ。
棒が振り下ろされる寸前、声がした。
「やめろ」
低いのに、よく通る声。
それが、私とブルースが出会った最初の日だ。
次に私が目を開けた時には、違う場所にいた。
上等なベッド。
綺麗なシーツ。
狭い部屋だったが、簡素な家具が並んでいた。
「やっと目を覚ましたか」
ブルースは私を見て呟いた。
「……ここは……」
声が出ない。
ほとんど話してこなかったせいで、舌がうまく動かなかった。
「お前を拾った。だから、お前は俺の物だ。勝手に喋るな」
ブルースの目は、私を見ていなかった。
ただ、私の青い髪と赤い瞳を見ていた。
「名前は?」
「ニコ……」
「親は?」
「いま……せん……」
「何をした?」
「パン……盗み……ました……」
感情のない質問が続く。
まるで、品定めをされているようだ。
「くだらん」
ブルースは吐き捨てるように言う。
「お前は生きたいか?」
刺すような視線が、私に向けられる。
「生き……たい……」
私はシーツを握り、絞り出すように答えた。
ブルースは初めて人間らしい顔になり、口元を少しだけ上げた。
「俺がお前を使ってやる」
それは、救いの言葉には聞こえなかった。
「俺の言うことを守れば、食事も着るものも寝る場所も、すべて揃えてやろう」
「どう……して……」
私は彼の言葉の意味がわからなかった。
けれど、その言葉を口に出した瞬間、空気が変わった。
「お前はバカか?」
冷たい声。
「俺の許可なく聞くな。喋るな。考えるな」
その言葉だけで、息が止まりそうになった。
――助かったんじゃない。
ただ、別の檻に移された。
それだけだった。

創作大賞2026 ファンタジー小説部門 投稿作
