見出し画像

イブ物語|判断寓話|エラとヨル|第七十五話 エラとヨル


最初は一人旅だった。

気づけば、そこにいて当たり前の人が増えていた。

広げた地図には、何も書かれていない。

私はゆっくりとペンを取った。


エラとヨル 第七十五話
【エラとヨル】


巨大な亀が、地面を震わせながら一歩、また一歩と進んでいく。

眼下では、幅広い川が静かに流れていた。

甲羅の上で暮らす人々は、長い旅路の終わりを見届けようと、そこかしこから集まっている。

私たちも街の外苑から、その光景を見守っていた。

やがて大きな地鳴りとともに、街を載せた亀の巨体が川辺へ沈みはじめる。

水面が大きく割れ、白い波が外苑の低い場所まで押し寄せた。

エラはその様子を見つめ、小さく呟く。

「ありがとう……だって」

視線を落とすと、喉元門のある亀の頭は、すでに川の水へ浸かっていた。

まるで長い旅を終えた旅人が、ようやく水を飲むように。

亀は頭を川に沈めたまま、それきり動かなかった。

住人たちは門を開け、川岸へ向かって歩き始める。

川に駆け込み、笑いながら手ですくった水を口に運ぶ人々の足元には、初めて踏む土があった。

「これからが、問題です」

いつの間にか、隣にはディケが立っていた。

この数日でずいぶん痩せたようで、着ているLAGの制服も少し緩んで見える。

「まずは、水と食糧をどう暮らしへ繋ぐかだね」

ローズは口元に笑みを浮かべ、川を見つめた。

もう一度亀を見上げ、私はそっと頭を下げる。

――ありがとう。

隣に立つオトが、ゆっくりとリュートを奏で始めた。

〜♬

迷い道でも 空を見れば
ひとつ光る あの星がある

名前も知らず 歩いてきたけど
同じ夜を 見上げていた

遠くてもいい 届かなくても
消えないなら それでいい

ひとりで歌えば 揺れる声も
重ねれば 道になる

〜♬

スピカだ。

誰も、その名を口にはしない。

ただ耳を傾けながら、巨大な亀の最期を見送っていた。



次の日から、街の再建が本格的に始まった。

これまで狭い甲羅の上だけで暮らしてきた人々は、川から水を引くための水路を掘り、新しく得た土地を畑に変えていく。

川には魚をとる舟が浮かび、少しずつ生活の形が整い始めていた。

この騒乱で命を落とした人々は、ルーベントで初めて土に埋葬された。

川辺には、新しい墓碑が並ぶ。

私たちも復興に手を貸しながら、少しずつ日常を取り戻していった。

ひと月あまりが過ぎたころ、街のこれからを決める式典の日が訪れる。

中央殻都の大広場には多くの住人が集まり、固唾をのんで見守っていた。

広場に面した大きな建物のバルコニーへ、ニコが姿を現す。

大きな歓声が湧き上がり、それが収まると、広場には深い静けさが落ちた。

ニコは一歩前へ進み、手を上げてから口を開く。

「この街は……ルーベントは、辿り着きました」

「多くの犠牲を払い、多くの決断を重ねながら、ここまで来ました」

ニコは手を握り締め、それを胸に置いた。

「赤い瞳は、今日をもって解散します。ルーベント行政ギルドと、商会ギルド『砂漠の薔薇』も同じです」

「そして、その機能を一つにまとめ、新たにルーベント評議会を設立します」

宣言を受け、広場から大きな喝采が湧き上がった。

ニコはその声を受け止め、わずかに息を整える。

「私は、その初代議長として選出されました」

「これまで私が属してきた組織が行ってきたことについて、許しを乞うつもりはありません」

「けれど、その責任から目をそらすつもりもない」

ニコは広場に集まった人々を、まっすぐに見渡した。

「ルーベントを、誰かの意思だけが一方的に押しつけられる場所へ戻さないことを約束します」

「私の名はサーシャではありません。私は自分の名前を取り戻しました」

「私はニコ。ただのニコです。皆さんの力を、私に貸してください」

言葉を終えたニコは、深く頭を下げた。

広場に短い静寂が流れる。

その静けさを破ったのは、ひとつの小さな拍手だった。

広場の中で、エラがニコを見上げながら拍手をしている。

私もそれにならって手を叩いた。

オトとサンも続き、拍手は輪のように広がりながら、広場の隅々を包んでいく。

ニコの後ろでは、ローズがわずかに肩をすくめた。

隣に座るディケは、相変わらず何かを紙へ書き留めていた。



ルーベント評議会が動き出すと、これまで分かれていた区域や法令は少しずつ統一されていった。

官憲の不正は摘発され、市場を縛っていた独占も緩和される。

ルーベントの復興は、まだ始まったばかりだと思う。

それでも私たちは、次の行き先を決めていた。

世界の果てだと思われていた砂漠の向こう。

川の先に何があるのか、自分たちの目で確かめに行く。

旅立ちを前に、私たちはニコから呼び出された。

中央殻都にある屋敷へ向かうと、玄関には執事姿のジャッジメントと、使用人の服を着たフォーチュンが待っていた。

「妙に似合ってますね」

オトが笑いを堪えながら、私の耳元で囁く。

スカートの裾を持ち上げ、綺麗な所作で挨拶するフォーチュンも、すっかり板についていた。

「これ、お土産です」

私が袋を取り出すと、フォーチュンが素早く受け取る。

その瞬間、ジャッジメントから一度だけ鋭い視線が飛んだ。

けれどフォーチュンは気にする様子もなく、袋の中からルーベントクッキー饅頭を取り出すと、高々と掲げて瞳を輝かせていた。

その姿を見たサンが笑いながら、ジャッジメントへ声をかける。

「じい。姉さんから話って?」

「ニコ様から、贈り物があるそうです」

そう答えると、ジャッジメントは静かに頭を下げ、私たちを屋敷の奥へ案内した。

通されたのは、大きな応接室だった。

窓からやわらかな光が差し込み、花瓶には色とりどりの花が生けられている。

部屋には、どこか落ち着いた空気が広がっていた。

ジャッジメントは一度席を外す。

しばらくすると短いノックが響き、扉が開いた。

ニコを先にして、ジャッジメントが部屋へ入ってくる。

エラは片手をひらひらと振り、気軽に挨拶をした。

私たちがソファへ腰を下ろすと、ニコはサンを見つめて口を開く。

「姉さん。旅に出たいって、本気?」

険しい表情を浮かべたニコを前に、サンの喉が小さく鳴った。

「ニコ。私はまだ、知らなきゃいけないことがあるの」

サンの赤い瞳と、ニコの赤い瞳が重なる。

「何を知りたいの?」

「えっと……美味しい食べ物とか……お酒とか……」

思わず、私は吹き出した。

隣にいたオトが、やわらかく口を開く。

「サンは、友達が欲しいんです」

サンの目が泳いだ。

「彼女には家族がいます。でも、一緒に過ごしてきた友達はいませんでした」

オトはサンを見つめ、穏やかに続ける。

「だから、友達と笑ったり、困ったりしながら、同じ時間を過ごしてみたいんです」

ニコは額に手を当て、大きく息を吐いた。

「姉さん。私は友達じゃないの?」

少しだけ拗ねたような声だった。

「ニコ。あなたは最初の友達で、最高の家族」

サンは慌てながらも、必死に言葉を続ける。

「でも、それだけじゃ足りないの」

「それだけじゃ、足りない……」

ニコはその言葉を繰り返し、どこか満足したように目を細めた。

「わかったわ。それが姉さんの望みなら、許してあげる」

ニコは立ち上がり、部屋の奥へ向かう。

しばらくして戻ってきた彼女の手には、一振りの剣があった。

サンの顔が固まる。

私も、その姿に言葉を失った。

――魔剣ケルベロスだ。

「姉さん。これは私からの餞別です」

ニコは剣を、サンへ差し出した。

「ニコ様。サーシャ様は戦争へ行かれるわけではありません」

隣に立つジャッジメントが、冷静な声で告げる。

うん。

いくら心配でも、決戦兵器を餞別に渡すのは違うと思う。

ただ、ニコの気持ちを思うと、私は何も言えなかった。

サンは小さく首を振り、差し出された剣を見つめる。

「ニコ。これは、あなたの元にこそ必要なもの」

剣には手を伸ばさず、花瓶に生けられた赤い花を一輪だけ手に取った。

「この花、覚えてくれてたんだ。私の好きな花」

花の香りを吸い込み、サンは静かに笑う。

「私、これをもらうわ」

胸元へ赤い花を挿すと、ニコは少し困ったように眉を寄せた。

「姉さん。それじゃあ……」

サンは片手を上げ、ニコの言葉を止める。

「私はサーシャ。でもね、これからはサンと呼んで」

「これが、今の私だから」

そう言って、サンはニコの肩へ手を置いた。

ニコもその手に、自分の手を重ねる。

「いってらっしゃい」

ニコがそう言うと、サンは笑顔を浮かべた。

「いってきます!」



屋敷を後にすると、ニコたちは私たちの姿が見えなくなるまで見送っていた。

外門へ続く道を歩いていると、ある建物の前で足を止める。

赤い髪の女性が、小さな子供たちを叱っていた。

ディアだ。

竜祀教は今回の一件について調べを受けたものの、街の復興へ尽くしたことも考慮され、自由の身になったと聞いていた。

オトが言う。

「竜祀教の皆さんが、身寄りのない子供たちを受け入れるための小さな冒険者ギルドを作ったらしいです」

噂には聞いていた。

ルース団長がギルドマスターとなり、ディアとシーズは教官として子供たちと暮らしているらしい。

ディアとエラの視線が合う。

ディアは少しだけエラを見つめたあと、静かに頭を下げた。

言葉は交わさない。

エラはそのまま歩き出し、私たちもあとを追う。

「そういえば、竜石って」

川辺に着いてからは日々の忙しさに追われ、大切なことをすっかり忘れていた。

「割ったよ」

エラは両手を頭の後ろで組んだまま、気軽に答える。

「えっ!?」

私は慌ててエラを見た。

「だって、危ないじゃん。あんな石」

それはそうだけど、一言くらい言ってほしい。

複雑な気持ちのまま黙っていると、オトが申し訳なさそうに口を開いた。

「ヨルさんには、内緒にしてって言われました」

隣にいたサンも、少しだけ居心地悪そうにしている。

「ヨルさんに言ったら、たぶん悩みそうだからって」

オトは前を歩くエラへ目を向け、それから軽く頭を下げた。

私はため息をつき、また歩き出す。

やがて街の門が見えてきた。

かつての喉元門は川に浸かり、代わりに桟橋と船着場が作られている。

そこでは大きな船が建造され始めており、その中心でローズが大声を上げていた。

私たちに気づくと、ローズは勢いよく手を振る。

もともと眼帯に海賊めいた服装だったけれど、今では海賊帽まで被っていた。

「あれで商人って言われても……」

私は独り言のように呟いた。

「おう。あんたたち、今日だったか。旅立つのは?」

ローズは笑いながら、私の背中をバシバシと叩く。

――痛いです。

挨拶を返しながら頭を下げると、エラが口を開いた。

「ちょっと、世界を見てくるよ」

「世界の端まで来たのに、まだ先が見たいって?」

ローズが笑う。

「まだ、見つかってないだけかも?」

エラはとぼけたように答えた。

「ああ、そうさね。だったら何か見つかったら、私に話しな。良い情報なら金は払う」

ローズは一瞬だけ真剣な顔になったあと、すぐに人夫たちへ怒鳴り声を飛ばしていた。

私たちはその姿を見ながら、街の外へ進む。

外へ出ると、エラが大きな白地図を広げた。

ペンを取り出し、何かを書き込んでいる。

私が覗き込むと、そこには一本の川と、そのほとりに小さな印があった。

エラはその印に、『ルーベント』と書き入れる。

地図に載らなかった街が、初めて地図に記された。

私は真っ白な地図を眺めて言う。

「でも、これじゃどっちが上かわからないじゃない」

エラは笑い、地図の右下に小さく文字を書き入れた。

『エラ&  』

「ほら」

そう言って、私へペンを渡す。

空欄を見つめ、ひと息吐いてから書き入れた。

『エラ&ヨル』


第一部 完


🔙第七十四話



いいなと思ったら応援しよう!