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イブ物語|判断寓話|エラとヨル|第二十一話 使徒様の正しい話


何も困らないはずだった。

あたたかい部屋も、ごはんも、やさしい人たちも、ちゃんとここにある。

それなのに、胸の奥だけが、うまく落ち着いてくれなかった。



エラとヨル 第二十一話
【使徒様の正しい話】


部屋の中は静かだった。

暖炉の火が、小さく薪をはぜさせている。
その音だけが、やけに遠く聞こえた。

私は机の前に座ったまま、紙を見つめていた。

“エラとヨル”

その文字は、もう何度も目でなぞった。
裏返して、また表に戻して。
意味もなく、指先で端を撫でる。

“エラのバカ”

そこだけ、どうしても胸に引っかかった。

変な言葉だ。

ここにいる人たちは、そんなふうに言わない。
もっと丁寧で、もっと優しくて、もっと私を傷つけないような言葉を選ぶ。

なのに、この文字だけは違った。

少し乱暴で。
少し近くて。
私を“使徒様”じゃなくて、ちゃんと誰かとして見ているみたいだった。

「……ヨル」

もう一度、口に出してみる。

静かな部屋の中で、その音だけが浮いた。

知らない名前のはずなのに、
その名前を呼ぶと、胸の奥が少しだけきしんだ。

こつ、こつ、と扉が叩かれる音がした。

私は慌てて紙を畳む。
なぜか見つかってはいけない気がして、近くにあった本の間へ差し込んだ。

「使徒様。お休みのところ失礼します」

ディアの声だった。

「起きてるよ」

扉が開く。
いつものように、きちんとした姿のディアが立っていた。

「主教様がお呼びです」

「主教?」

聞き返すと、ディアは小さく頷いた。

「この場の長です。使徒様に、ぜひお話したいことがあると」

「今から?」

「はい」

断れる雰囲気ではなかった。

私は立ち上がる。
包帯の巻かれた腕が、少しだけ目に入る。

小さな傷のはずなのに、まだ丁寧に巻かれたままだった。

「……行けばいいの?」

「ご案内します」

ディアはそれだけ言って、先に歩き出した。

廊下は夜の冷えを残していたけれど、ところどころに灯りが置かれていて暗くはなかった。
石の床を踏むたび、乾いた足音が返ってくる。

すれ違う人たちは皆、私を見ると立ち止まり、静かに頭を下げた。

「使徒様」

「使徒様、どうかご無理なさらず」

柔らかい声。
丁寧な視線。
乱暴なものは何ひとつない。

なのに、どうしてだろう。

今日の私は、それを優しいと思えなかった。

長い廊下を抜けると、広い部屋に出た。

礼拝堂のようにも見えた。

高い天井。
石の壁。
正面には、巨大な彫像が置かれている。

それは竜だった。

翼を広げ、空を睨むような姿。
口元には牙があり、全身は鱗に覆われている。
けれど、ただ恐ろしいだけじゃなかった。

どこか、人の手では届かないものを見るみたいな、遠い感じがあった。

彫像の前に、一人の老人が立っていた。

白い衣を身にまとい、長い杖を持っている。
髪も髭もすっかり白く、歳を取っているはずなのに、その目だけは妙に澄んでいた。

「おお……使徒様」

老人はゆっくりと私に向き直り、深く頭を垂れた。

「お会いできる日を、長く待ち望んでおりました」

私は少しだけ戸惑って、曖昧に会釈を返した。

「この方が主教様です」

ディアが言う。

「どうも……」

そう言うと、主教は穏やかに微笑んだ。

「どうか、こちらへ」

部屋の中央には椅子がひとつ置かれていた。
私が座るためのものらしい。

周囲には何人もの信者が控えていたが、誰も近づいてはこなかった。
少し離れたところで、静かに頭を垂れている。

私は促されるまま椅子に座る。

主教は、まるで語り聞かせるみたいに、ゆっくり口を開いた。

「使徒様。あなたには、知っていただかねばならぬことがあります」

知っていただかねばならぬこと。

その言い方に、なぜか少しだけ嫌な感じがした。

「私たちは長く、あなたを探しておりました」

「……私を?」

「はい。竜なる人。人の身に、竜の理を宿す者。古い時代には、そのように呼ばれておりました」

竜なる人。

聞いたことのない言葉だった。

でも、ここにいる人たちは、その言葉を疑っていないらしい。
息を潜めるような空気が、部屋の中に広がっていた。

主教は背後の竜の彫像を振り返る。

「この世界には、かつて神々が存在しておりました。その中で、最後に作られたものこそ、真なるドラゴン」

その名を口にした時、周囲の信者たちが一斉に頭を下げた。

私は思わず、その様子を見回した。

信仰。

その光景は、そんな言葉がぴったりだった。

この世界に、そういうものはあまりない。
少なくとも、私の知っている範囲では、神様に祈るより先に、人は自分でなんとかするものだった気がする。

なのに、ここでは違う。

「真なるドラゴンは、神々が最後に生み出した最終の力。完璧であり、絶対であり、世界を焼き払うほどの力を持つ存在」

主教の声は、静かだった。
静かなのに、不思議とよく響いた。

「目覚めれば、いずれこの世界そのものが耐えられない。ゆえに神々は、それを眠らせ、遠ざけ、歴史の底へ埋めました」

私は黙って聞いていた。

難しい話だった。
けれど、主教は構わず続ける。

「後の時代に確認された竜たちは、その真なるドラゴンを妖精たちが模して作ったもの。強大ではありますが、あれらはあくまで劣化した模造にすぎません」

竜。
妖精。
神々。

どれも昔話みたいな言葉だった。

けれど主教の口ぶりには、昔話を語る軽さはなかった。
彼は本気で、これを現実の話として語っている。

「そして、竜なる人——使徒は、竜の力を人が制御するために生まれた」

主教の目が、まっすぐこちらを見る。

「強すぎる竜を、人の意志で導くための器。それがあなたです」

私は少しだけ眉を寄せた。

「……私が?」

「はい、使徒様」

その答えは、迷いがなかった。

「記録は断片的です。多くは失われ、歴史書の中に埋もれております。ですが、存在そのものは確かに記されていた。人と竜の間に立つ者。守られるべき者。目覚めを導く者」

守られるべき者。

その言葉に、少しだけ喉がつまる。

——使徒様は、そこにいてくださればいいのです。

昼間に聞いた声が、頭の中で重なった。

「私たちの祖先は、妖精より命を受けたヒューマンでした」

主教はゆっくりと杖をつく。

「竜なる人を見つけ、守り、その時が来るまで導けと」

その言葉に、周囲の信者たちの表情が一段と厳かになる。

なるほど、と思った。

だからこの人たちは、こんなに一生懸命なのか。
だから私を“使徒様”と呼ぶのか。
だから何もしなくていいと言うのか。

理由は分かった。

分かったのに、少しも安心しなかった。

むしろ、昼間より苦しかった。

「……その証拠が?」

自分でも、思ったより低い声が出た。

主教は頷く。

「竜石です」

その瞬間、ディアがわずかに顔を上げた。

「真なるドラゴンを制御し、使徒を見出すための石。私たちは代々、それを守ってきました」

「そんなものが、あるんだ」

「三つだけ」

その答えだけは、妙にはっきりしていた。

私は少しだけ引っかかった。

たくさんあるわけじゃない。
三つしかない。

それはむしろ、よほど特別なものだという響きだった。

主教は私の様子を見ながら、さらに続けた。

「リンブガルドで起きた事件も、その一つです」

その言葉に、私は思わず顔を上げた。

リンブガルド。

その名前は、どこか胸の奥にざらりと触れた。

「私たちは、あの街であなたの存在を掴みました。長い探索の末に、ようやく見つけたのです」

主教の声は落ち着いていた。
でも、その言葉の内容は静かじゃなかった。

「使徒様をここへお連れするため、信徒が動きました。ですが……竜石は強く反応しすぎた」

空気が少し張る。

誰も口を挟まない。

「あなたの力は、想定を超えていたのです。石は制御を失い、力が暴走した。結果として、信徒たちは命を落としました」

私はしばらく、何も言えなかった。

信徒が死んだ。

その言葉が、遅れて胸に沈んでいく。

「……私が?」

「いいえ」

主教はすぐに首を振った。

「使徒様の責任ではありません。未熟な者が、正しく扱えなかっただけです」

その言い方は、私を責めていない。

責めていないはずなのに、
私の中には冷たいものだけが残った。

死んだ。
私を連れて行こうとして。
失敗して。
死んだ。

それを、この人は今、
ひどく静かな声で話している。

「ディアとシーズは、その石の回収に向かわせました」

主教が言う。

「失われれば、再び災いを生む。だからこそ急がねばならなかった」

ディアは何も言わない。
シーズの姿はここにはなかった。

「そして帰路で、使徒様と出会ったのです」

老人の視線が、私に戻る。

「竜石が反応した。それが何よりの証でした。あなたこそ、私たちが探し続けていた方だと」

出会った、という言い方に、私は少しだけ引っかかった。

あれは、出会った、だっただろうか。

山の中。
吹雪。
ぼんやりした意識。
誰かの顔。
誰かの声。

思い出せそうで、思い出せない。

でも少なくとも、
私の意思でここへ来たわけじゃない気がした。

「だから、保護したのです」

主教はそう言って、深く頭を下げた。

「二度と失うわけにはいかなかった」

保護。

その言葉が、妙に重かった。

昼間、子どもが木から落ちた時も、
この人たちは同じ顔をしていた気がする。

私が怪我をした時。
包帯を巻いた時。
果物を置いた時。
何もしなくていいと言った時。

全部、優しかった。

全部、保護だった。

でも、その優しさの中に、
私が自分で選ぶ場所がどこにもないことに、今さら気づいた。

「……その話、本当に全部、正しいの?」

気づけば、そんな言葉が口から出ていた。

部屋の空気が少しだけ揺れる。

ディアがこちらを見る。
周囲の信者たちも、小さく息を呑んだようだった。

けれど主教だけは、怒らなかった。

「正しさ、ですか」

老人は少しだけ目を細める。

「歴史とは常に欠けています。残るものもあれば、失われるものもある。ゆえに、すべてを断言することは難しいでしょう」

その返しは、少し意外だった。

もっと絶対みたいに言うかと思ったのに。

「ですが」

主教は杖を握る手に力を込めた。

「私たちは長い時をかけて、その欠片を繋いできた。失われた記録を集め、残った石を守り、ようやくあなたに辿り着いたのです」

その声には熱があった。

静かな熱だった。
何十年も、もしかしたら何百年も、
ずっと燃え続けてきたみたいな熱。

この人は本気だ。

本気で信じている。
本気で守ろうとしている。
本気で、私を私じゃない何かとして見ている。

それが分かってしまった。

それが、いちばん怖かった。

「使徒様」

主教が一歩だけ近づく。

「どうか、恐れないでください。あなたは選ばれた方です。ここにいてくださればよいのです。すべては私たちが整えます」

ここにいてくださればよい。

その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥で何かが急に冷えた。

整えられた部屋。
暖かい食事。
子どもたちの笑顔。
丁寧な言葉。
優しい視線。

それら全部が、
いきなり檻みたいに見えた。

「……私は」

声がうまく出ない。

「私は、本当に……何もしなくていいの?」

主教は迷わず頷いた。

「はい。使徒様は傷ついてはならぬ方です。働く必要も、迷う必要もありません。あなたはただ、正しい場所にいてくださればいい」

正しい場所。

その言葉を聞いた瞬間、
頭の中に、あの紙が浮かんだ。

少し折れた古い地図。
線の癖。
余白の取り方。
雑な字。

“エラとヨル”

“エラのバカ”

あの文字は、こんなふうに整っていなかった。
正しくもなかった。
丁寧でもなかった。

でも、あれは生きていた。

ちゃんと、人の手で書かれた感じがした。

私は無意識に、自分の指先を握っていた。

「使徒様?」

主教の声が遠く聞こえる。

私は少しだけ顔を上げる。

背後の竜の彫像は、大きくて、立派で、
きっとこの人たちにとっては救いの形なんだろうと思った。

でも私には、それが少しも救いに見えなかった。

「……エラ」

気づけば、そんな声が漏れていた。

部屋の空気が止まる。

「今、何と……?」

主教が問う。

私は自分でも驚きながら、もう一度だけ口を開いた。

「エラ……って」

その名前を言うと、胸が少しだけ痛んだ。

でも同時に、ほんの少しだけ息がしやすくなった。

「それが、私の名前……かもしれない」

ざわり、と周囲が揺れた。

信者たちの間に、押し殺したようなざわめきが広がる。
ディアの目がわずかに細くなる。

主教はしばらく黙っていた。

それから、ひどく穏やかな声で言った。

「昔の名に、意味はありません」

その言葉は優しかった。

優しいのに、刃みたいだった。

「使徒様。あなたはもう、ひとりの人として生きる必要はないのです」

私はその言葉を聞いて、何も返せなかった。

暖かいはずの礼拝堂で、
急に身体の芯だけが冷えていく。

ひとりの人として生きる必要はない。

そんなことを、
こんなに静かに言えるんだ。

私はゆっくり立ち上がった。

ディアが一歩前へ出かける。
でも主教が手で制した。

「……少し、部屋に戻ってもいい?」

そう聞くと、主教はすぐに頷いた。

「もちろんです。今夜はたくさんのことを聞かれた。お疲れでしょう」

また、優しい声だった。

私は小さく頭を下げて、踵を返した。

帰りの廊下は行きより静かだった。
ディアは何も言わず、ただ少し後ろを歩いている。

監視みたいだ、と思った。
でもその言葉すら、声に出せなかった。

部屋に戻ると、扉が閉まる音がした。

私はしばらく、その場から動けなかった。

暖炉。
寝台。
果物。
本棚。

何も変わっていない。

なのに、さっきまでと全部違って見える。

私はまっすぐ本棚へ向かい、隠していた紙を引き抜いた。

折れた古い地図。
震える指で広げる。

“エラとヨル”

その文字を見た瞬間、
さっき主教に言われた言葉が胸の中でぶつかった。

昔の名に、意味はありません。
ひとりの人として生きる必要はない。

違う、と思った。

理由は説明できない。
何も思い出していない。
顔も声も知らない。

それでも、違う気がした。

この紙を書いた誰かは、
私を“使徒様”にしようとはしていなかった。

雑で。
少し乱暴で。
でもちゃんと、私が誰かとしてそこにいた。

私は紙の端を強く握りしめる。

裏返す。

“エラのバカ”

その文字を見た瞬間、
なぜか少しだけ笑いそうになった。

笑いたいわけじゃない。
むしろ泣きたいような気もする。

でも、この言葉だけは、
きれいな部屋の中でひどく浮いていた。

「……バカって、なに」

小さく呟く。

声は少し震えていた。

その向こうにいる誰かは、私にそんなことを言った。
たぶん、怒って。
たぶん、呆れて。
たぶん、ちゃんと困った顔をしながら。

そんなふうに思ったら、
胸の奥に、初めてはっきりとした痛みが走った。

寂しい、と思った。

名前も知らない誰かが。
知らないはずの“ヨル”が。
今ここにいないことが、急に苦しくなった。

私は紙を抱えるように胸元へ引き寄せる。

「……ヨル」

静かな部屋の中で、その名前を呼ぶ。

今度は前より少しだけ、はっきりと。

すると、胸の奥で何かが小さく揺れた。

思い出したわけじゃない。

でも、ひとつだけ分かった。

ここで“使徒様”と呼ばれている私は、
たぶん、本当の私じゃない。

暖炉の火が、ぱちりと鳴る。

私はその音を聞きながら、
紙の上の名前を、もう一度だけなぞった。

“エラとヨル”

指先はまだ、少し震えていた。


🔙第二十話   第二十二話🔜



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