見出し画像

D/Gに巻き込まれる202-『千のプラトー』「2 1914年----狼はただ1匹か数匹か?」 2: 沈黙による革命は可能だ ! (たとえ失敗が必然であろうと)-

個人的な言表というものはない、そんなものは決して存在しないのだ。
あらゆる言表は、1つの機械状アレンジメントの、つまり言表行為の集団的な動作主の産物である (「集団的な動作主」といっても、民族や社会と解してはならない。
それは多様体なのだ)。
ところで、固有名というものは、一個人を指示するのではない。
----個人が自分の真の名を獲得するのは、逆に彼が、およそ最も過酷な非人称化の鍛錬の果てに、自己をすみずみまで貫く多様体に自己を開くときなのである。
固有名とは、1つの多様体の瞬間的な把握である。
固有名とは、1個の強度の場においてそのようなものとして理解〔包摂〕された純粋な不定法の主体なのだ。
プルーストが名前(プレノン)について述べていること----ジルベルトと口にいると、私は口の中に彼女の裸の全身を含んでいるような気がする。
<狼男>、真の固有名、非人称化され多様化された一個人の生成変化〔なること〕、不定法、強度を示す親密なファーストネーム。
だが、精神分析は多様化について何を理解しているだろうか?
ひとこぶラクダが、空の下でせせら笑う幾千ものひとこぶラクダになる砂漠の時。
幾千もの孔が大地の表面に穿たれる夕刻。
去勢、去勢、と精神分析の案山子(かかし)はわめく。
それは狼たちがいるところに、1つの孔、1人の父親、1匹の犬しか見てとったためしがなく、野生の多様体があるところに、飼い馴らされた一個人しか見てとったためしがないのだ。
われわれは、精神分析がひたすらオイディプス的言表を選別してきたことだけを非難しているのではない。
なぜならこれらの言表は、ある程度までやはり機械状アレンジメントの一部をなしており、このアレンジメントとの関係で、訂正すべて指標として役に立つこともあるからだ。
ちょうど計算ちがいのように、われわれは、精神分析がオイディプス的な言表を用いて、患者に、自分は人称的、個人的な言表を保持し、要するに自分の名において語ろうとしている、と信じ込ませたことを非難しているのである。
しかし、すべてが最初から罠にはまっている----<狼男>は決して語ることができないのだ。
彼が狼たちのことを語っても、狼のように叫んでも無駄だろう。
フロイトはそれを聴きさえしないで、自分の犬を眺めては「それはパパだ」と答えるのである。
これが続くかぎり、それは神経症であるとフロイトは言い、これが危うくなると、それは精神病であると言う。

ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ「1914----狼はただ1匹か数匹か?」(『千のプラトー』上巻 pp.88-89)

(※『千のプラトー』は1つのパラグラフが長いので、「D/Gに巻き込まれる」と題される一連の「落書き」では1文ずつ改行して引用している。なおパラグラフの区切りの場合は1行空けてある。)

移住して奇しくも50坪ほどの庭を持つことになり、日々「直根」(ラシーヌ)と「側根」(ラディセル)と「根茎」(リゾーム)に出会うようになった。土を掘り返して、目で見て手で触れる環境にいると、雑草にリゾームが多いのも実感できる。『千のプラトー』を読んで庭に出ると、庭という考え自体が人間側の権力に満たされた生の政治の場であることを痛感する。私自身が『千のプラトー』で批判される側に回るのだ。

雑踏を駆除し、種を蒔き、時折収穫する。庭という枠を外してこの作業を産業化してみる。すると、その収穫物は店に並び、貨幣と交換されて私の口に入り、身体を維持する滋養となり、生の継続を可能にする線が描ける。このような日常で「リゾーム」を受け入れるということは、この線を断つとき、または刷新するとき、どんなことを自らの生に起こすのか?という課題を自分の身体を通して生活そのもの、習慣そのものにセットする契機となる。身体と環境はセットとなってミクロ政治の舞台となった。

『千のプラトー』で「多様体」と訳されるla multiplicitéが現在叫ばれる異なるものの多様性 la diversité(英:diversity)と違うのは、同じもの自体が多様であることをこの語が示すからだろう。1人である私、1つである社会、1つである常識、1つである文化、1つである世界の中に多様性を見出そうとするのは、la multiplicitéの方である。la diversitéは異なるものの同一性をまだ維持したままだ、と語り手(トリックスター)なら罵倒するのかもしれない。

彼(彼ら)に罵倒されるのは「私」であり、罵倒は「私」と発話する「この私」との関係を浮かび上がらせる。「罵倒される私」は、少なくとも罵倒する語り手との関係を表し、1人の「私」であることをやめている。しかし、関係は対人関係のような狭い範囲に留まらない。罵倒はきっかけに過ぎない。機械とも、他の生命とも、気象とも、地形とも関係している多数の「この私」が「1人」の中にひしめいているからだ。

庭に出てしゃがんで雑草と同じ高さで世界を眺める「この私」は、感覚を開いて今を体感する「短い記憶」の作動の中にある。「この私」は、体験を過去データに変換し、未来を予測するような「長い記憶」に満たされた「私」とは違う。こう考えると、この本で頻出する多様体la multiplicitéという語は、紙面やモニター上に並ぶ文字で占められる哲学や思想が専門的に扱うような、日常から離れた稀有な事態には決してならない。今ここで私に起こっている出来事を指すことになるはずである。

さて、身体と環境とのそんな日常的な関わりを念頭に、「1914年----狼はただ1匹か数匹か?」の後半に巻き込まれていきたい。というのも、後半は多様体論の展開とともに、語りの方も多様体的な振る舞いを加速させるように思われるからだ。では、まず後半の冒頭を引用してみる。

あの多様体の物語に立ち戻ろう、このような実詞が産み出されたのは、実に重要な瞬間だったからだ、それはまさに多様なものと単一なものの抽象的な対立から逃れるため、弁証法から逃れるため、多様なものを純粋状態で思考するため、多様なものを、失われた<統一性>や<全体性>の数値的な断片に、あるいは偽薬に、来るべき<統一性>や<全体性>の有機的要素に仕立て上げるため----そしてむしろ、いろいろなタイプの多様体を弁別するためだった。
こうして、数学者で物理学者のリーマンにおいては、離散的多様体と連続的多様体の区別が見出される (後者の方はその計量の原理をそれ自体において作用する諸力の中にしか認めない)。
さらにマイノングとラッセルにおいては、外延的な、量または可分性の多様体と、より強度〔内包〕的なものに近い距離の多様体の区別が見出される。
あるいはまた、ベルクソンにおいては、数値的または延長的な多様体と、質的かつ持続的な多様体の区別がある。

われわれは、樹木状の多様体とリゾーム状の多様体を区別することによって、これとほとんど同じことをしている。
マクロな多様体とミクロな多様体。
一方には外延的で分割可能なモル状の、統一化可能、全体化可能、組織化可能な、意識的または前意識的な多様体----そして他方には、リビドー的、無意識的、分子的、強度〔内包〕的な、性質が変化することなしに分割されない粒子からなり、さまざまな距離からなる多様体。
これらの距離は、もう1つの多様体の中に入り込むとき、初めて変化し、1つの閾の内部で、あるいは向こう側で、あるいは手前で、互いに交流し移行し合いながら、たえず形成されては、解体されるのである。
この後の方の多様体の要素は様々な粒子である----つまり、それらの運動、ブラウン状態、それらの量、強度、強度の差異である。

(同上 pp.78-79)

多様体を数学(リーマン)と論理学(ラッセル、マイノング)から捉え直す語り手は、対立的に用いられた批判の用法そのものを変更する。リーマンなら点、辺、面で不連続(離散的)な構成要素から組織化される多様体と、曲線や曲面で連続的に構成される多様体のような区別である。語り手はこの区別を、代数多様体を援用した論理学での外延/内包の区別に見て、「外延的な、量または可分性の多様体」と「より強度〔内包〕的なものに近い距離の多様体」に重ねる。こうして、「序 リゾーム」で表面的には対立的だった「樹木」と「リゾーム」を多様体のバージョンとして捉え直そうとするのである。

『アンチ・オイディプス』で頻出したモル的/分子的という区別がここで再登場すると、「モル的」は離散的、外延的、可分的、「分子的」は連続的、内包的に接続される。こうすることで、語り手は精神医学的で政治的な自らの言語使用を数学や論理学と擦り合わせようとしているようだ。「一方には外延的で分割可能なモル状の、統一化可能、全体化可能、組織化可能な、意識的または前意識的な多様体----そして他方には、リビドー的、無意識的、分子的、強度〔内包〕的な、性質が変化することなしに分割されない粒子からなり、さまざまな距離からなる多様体。」

気になるのは語り手のこの擦り合わせによって意識・前意識的/無意識的という区別が与えられ、「分子的」という語がさらに「強度」的な性質を帯びて、「分割できない粒子分割されない粒子からなり、さまざまな距離からなる」とされる箇所である。この多様体を視覚化するなら、「ブラウン運動」を<濃度>のように濃い部分と淡い部分がランダムに混ざり合い変容する動態として捉えるようなイメージになる。

ここまで多様体が<変奏>されていくと、語り手は、集団の政治を語りたがっているようだな、とこちらも身構えたくなる。(ちなみに「変奏」は英語ではvariation:多様体はvarietyとも呼ばれる。)

数学から論理学へ、そして精神分析へと多様体の区別を重ね合わせ、擦り合わせながら、トリックスターはいつの間にか、「狼男」のドキュメンタリータッチの語りから、シュプレヒコールの口調に変わり始めている。いよいよ私たちの実際世界の社会と政治の話になりそうだな、とこちらも身構える。ここからは集団形成に関わる話になる。語り手は、離散的でモル的な多様体は「群集」、連続的で分子的な多様体は「群れ」と区別しながら、マクロとミクロを対立として捉えないように対比的に語ろうとする。

ここにはただ1つの論理的基盤があるのだ。
エリアス・カネッティは、あるときは対立し合い、あるときは浸透し合う2つのタイプの多様体を区別している。
群集 masse と群れ meure という2つのタイプである。
カネッティの言う意味での群集の特性のうち、特に注目しなければならないのは、大きな量、構成員の分割可能性および一様性、集中状態、総体の社会性、階級的な方向づけの単一性、領土性または領土化の組織、もろもろの記号の発信、といったことである。
群れの特性のうちで注目すべきことは、数量の乏しさまたは制約、散逸状態、分割不能で可変的な距離、さまざまな質的変容、残余または超過としての不等性、固定的な全体化や階層化が不可能なこと、さまざまな方向のブラウン運動的な変動、脱領土化線の数々、もろもろの粒子の放射、といったことである。
おそらく、群れにも群集にも一様性は存在せず、またどちらにも階層性が存在する。
しかしそれらは同じものではない。
群れや徒党のリーダーは、一手一手に勝負を賭ける、つまり彼は一手打つたびにすべてを新たに賭け直さねばならないのだ。
これに対して団体や群集のリーダーは、獲得したものを統合し、蓄積化=資本化するのである。
群れは、自分の場所にあるときでさえ、1つの逃走線あるいは脱領土化線の上に成立し、この線は群れそのものの一部をなし、群れはそれにある高度な肯定的価値を与えるのだ。
それに対して群集の方は、このような線の数々を切片化し、封じ込め、それらに否定的な符号(しるし)をつけるためにだけ統合するのだ。
カネッティは、群れの中で各人は、他のものたちと共にありながらも、やはり単独であるということを指摘している (例えば狼たち-猟師たち)。
1人1人が徒党に加わっていると同時に自分の関心事に集中するのである。
「群れのたえず変化する星座の中にあって、個体はつねにその縁(へり)に位置するだろう。
彼は内部にいるかと思うとたちまち縁に、縁にいるかと思うと、たちまち内部にいることだろう。
群れが自分たちの火のまわりに円陣を組めば、各人は右と左に隣人たちを持つこともできようが、背後は空いていて、背中は野生の自然に無防備にさらされているのだ。」
ここにも分裂症者の立場が認められている。
周辺にいること、片手か片足で接していること・・・・・・これには群集に属する主体のパラノイア的な立場が対置されるだろう。
この場合、いつも、個体はグループに、グループはリーダーに、リーダーはグループに同一化される。
群集の内部にしっかり拘束されていること、中心に向かうこと、命令にしたがっている場合を除いて決して周縁にとどまったりしないこと。

(同上 pp.79-80)

社会集団を2つのタイプにきれいに分けられないのはわかりきったことだが、ミクロ/マクロの区別が相互に独立していないことを考えれば、この区別によって両者の混淆から集団の動きを捉え直すことが可能になると考えることもできる。確かに、多様体の形成をすでに組織化されたマクロレベルから集団を捉えようとすれば、実体として捉えきれない動きや関係は対立物として括られ、排除されるのだが、マクロとミクロの相互浸透する関係として多様体を考えれば、まだ個体化しない関係の度合い(強度)から組織化の違いとして2つの多様体のタイプを区別することは可能だ。

エリアス・カネッティ『群衆と権力』は「群衆」から「群れ」へとテーマを展開する。ちなみにカネッティの邦訳では表題ドイツ語「Masse und Macht」のMasseは「群衆」、『千のプラトー』の邦訳では「群集」という2種の漢字が当てられている。前者の「衆」は人を単位とし、後者の「集」は動植物も含むと区別されるが、ドイツ語のMasseは英語のmass同様、計測可能な量を表し、mass media/Massenmedienのように一方的に操作される「大衆」の意味が強い。

一方、「群れ」に対応するドイツ語はHerdeやRudel等集まるものの種類に応じて異なり、そのつどの関係のあり方で語自体も変わるという特徴がある。それゆえ『群衆と権力』の第2章にあたる「群れ」の章では「群れと群れの種類」から始まり、狩猟の群れをはじめにいくつかの群れについて人類学的分析が続くのだが、「群れの特徴は群れが増大できないという事実にある」という点で共通するとカネッティはいう(『群衆と権力』上巻 p.127)。

「群れ」は量として計測し得ない質をその特徴に含む。量は「蓄積」できるが質はそれができない。それゆえ、「資本」を「蓄積」することに関しては、「群集」の側のリーダーが相応しい。というのもcapitalにはラテン語のcaput=頭のcap-が前半に位置しているからである。帽子のcap、リーダーとしてのcaptainも頭を指すcapがある。この頭capが植物の花を指すとも言われるのは、人体と顕花植物を重ねると頭の部分が花に当たるからだという。頭は知識を増殖させ、花は実を結んで種を増殖させる。頭には増殖というイメージがまとわりついているのだ。

こんなふうに言葉が意味から語源学の方にずれ込んで妄想してしまうのは、シュプレヒコールを聞くこちらも、群れの方に移り始めたからだろうか? 群れにあっては「1人1人が徒党に加わっていると同時に自分の関心事に集中するのである」というのなら・・・。

このような『群衆と権力』の「群れ」の章から「群集」/「群れ」の区別を取り出した語り手は、カネッティの考察を多様体から始め、樹木とリゾームを多様体の組織化の違いとして際立たせている。群集の「社会性」群れの「社交性」という対照は量的な範囲の意味でもイメージしやすいが、前者が抽象的で外側から規定されるのに対し、後者が具体的なグループ内でのそのつどの関係を想像させる点が異なる。「社交的な関係は決して社会的関係とは重なり合わない。両者は決して一致しないのだ。」

が、そう言い切ってしまうと、群集と群れは排他的で独立しているように捉えられかねない。そこで語り手はそんな二元論で言っているわけじゃない、と断って以下のように続ける。二元論を避けるにはどうするか? 自ら多様体をなぞる、または多様体になって、組織化の過程をなぞるに如くはない。トリックスターはそろそろ「地図作製」に取り掛かるのではないか? そんな語り手への期待も出てくる。少し長いが流れを追うためにそのまま引用したい。

とはいえ問題は、多様体の2つのタイプ、モル状の機械と分子状の機械を、一と多の二元論よりもましなわけではない二元論によって対立させることではない。
1つの同じアレンジメントを形成し、同じアレンジメントにおいて互いに作用しあう多様体の多様体があるだけである。
つまり群集の内部にも群れがあり、そしてその逆もある。
樹木はさまざまなリゾーム状の線をそなえているし、反対にリゾームの方もさまざまな樹木状の点をそなえている。
乱流状態の粒子を産み出すには、巨大なサイクロトロンがどうして必要でないはずがあろう?
領土性の回路の外で、脱領土化線はどうして指定可能であろうか?
大きな延長においてこそ、またこの延長の内部に生じる大規模な攪乱にかわってこそ、1つの新たな強度を孕んだ微小な流れが一挙に溢れ出すのではないか?
1つの新たな音を響かせるためにしてはならないのはどんなことか?
動物になること、分子的になること、非人間的になることは、あるモル的な外延、ある人間的な超集中化を経由し、あるいはそれらを準備する。
カフカにおいて、1個の巨大なパラノイア的官僚機構の屹立と、<犬になること>、<甲虫になること>の微小な分裂症的機械を分離することはできない。
<狼男>において、夢で狼になることと、もろもろの強迫観念の宗教的および軍隊的組織化を分離することはできない。
軍人が狼を産み、軍人が犬を産むのだ。
2つの多様体、2つの機械があるのではなく、ただ1つの同じ機械状アレンジメントがあって、それがすべてを、つまり「複合体(コンプレックス)」に対応する諸言表の総体を、生産しかつ分配する。
こうしたことすべてにおいて、精神分析はわれわれに何を言おうとするのか?
オイディプス、ただただオイディプスと言うだけだ。
精神分析は何も、誰も聴こうとしない。
それはすべてを、つまり群集と群れ、モル状機械と分子的機械、あらゆる種類の多様体を、押し潰してしまうのだ。
<狼男>の第2の夢を取り上げてみよう。
精神病的であるとされる挿間性疾患の時期のものだ。
ある道、壁があって、閉じた扉がついている。
扉の左側には空の衣裳箪笥、患者は衣裳箪笥の前にいる。
顔に小さな傷痕のある大柄な女がいて、彼女は壁の向こう側に廻ろうとしているようだ。
そして壁の向こう側には、扉の方へ向かってひしめき合う狼の一群がいる。
ブルンスヴィック女史ですら思い違いをしようがない。
たとえ大柄な女とは自分のことだと思ってしまうにせよ、彼女にはよくわかっている。
この場合狼たちはボルシェヴィキ、つまり衣裳箪笥を空にし、<狼男>の財産を没収した革命集団であるということが、準安定状態で、狼たちは巨大な社会機械の側に移行したのだ
だが精神分析はこうしたことすべてについて語るべき何も持っていない。
フロイトがすでに繰り返し語っていたことをいうだけだ。
つまり、こうしたことはみんな、またしてもパパに逆戻りするのだ (なるほど彼は帝政ロシアの自由党の幹部の1人だったが、そんなことはあまり重要ではなく、革命が「患者の罪責感を償った」と言えば十分というわけだ)。
リビドーというものが、その備給と逆-備給の過程において、群集の動揺、群れの動き、集団的記号、そして欲望の粒子などとは何の関係も持たないと本当に信じこまされてしまいそうになる。

(同上 pp.81-83)

長く引用したのは、その領域横断的な、否、領域跳躍的とも呼びたくなるほどの目まぐるしい展開である。確かに、目まぐるしいのはここが渦巻き世界だからかもしれない。が、「アレンジメント」という語を発話した途端に、語り手(トリックスター)は速度を上げて群集/群れから樹木/リゾームへ、そして自らの言葉を「サイクロトロン」に投げ入れるようにして、言葉に「乱流状態」を発生させ、速度ベクトル(脱領土化の線)に変えていくかのようだ。

速度を与えられた言葉が「動物になること、分子的になること、非人間的になること」に始まり「〜になること」(生成変化)を連呼すると、地図作成の過程も多様体に最接近しているような緊迫感が漂う。語り手自身が速度の中に消えてしまうのだろうか、と思っていると、この渦巻くような言葉の氾濫が速度を落とし始める。その時語り手は「狼男」の話題に戻り、精神分析という批判対象を攻撃し始めている。

「こうしたことすべてにおいて、精神分析はわれわれに何を言おうとするのか? オイディプス、ただただオイディプスと言うだけだ。」トリックスターの「地図作製」は、速度を上げて多様体を分子状にまで高め、さらに速度を落として「狼男」の第2の夢へと移りながら、モル状に組織化していく過程を、言葉の強度(速度)で訴えかけてくるかのようである。

「1つの同じアレンジメントを形成し、同じアレンジメントにおいて互いに作用しあう多様体の多様体があるだけである。」 多様体はモル的/分子的がセットになってユニットをなしていることを、トリックスター(語り手)は言葉の身振りで伝えようとしている・・・そんなふうに言葉の外にメッセージを見出してしまうのだ。言葉も速度を持つことでコミュニケーションも複数性・多数性、多様性(multiplicite)に開いていくのだろう。

確かに、このこの渦巻き世界では、言葉は静止状態でも速度(ベクトル)を持つ線なのだった。

そんなことをボーッと考えていると、語り手(トリックスター)はどんどん言葉の速度を上げてくる。「狼男」の第2の夢がまだ続いているかのように、精神分析の用語に速度が与えられ、語にも「リビドー」(心的エネルギー)が浸透してくる。速度を与えられた語があらゆる領域を経巡って行くと渦巻き世界の地図が作られる。対立するための対象も流れるように曖昧になって消え、個々の領域に属していた語がただ連鎖していく。語り手はこのような語を脱領域化した線と呼び、その連鎖をアレンジメントと呼ぶのだろう。

したがって、前意識にモル状多様体あるいは群集機械を帰属させ、無意識の方には、別の種類の機械や多様体をあてるだけでは十分ではない。
なぜなら、いずれにしても無意識に属するものは、2つのアレンジメントであり、前者が後者を条件づける仕方、また後者が前者を準備し、あるいはそこから逃れ、あるいはそこに復帰する仕方だからである。
リビドーはあらゆるものに浸透しているのだ。
あらゆるものを同時に考慮に入れること----1つの社会機械あるいは組織された群集が分子的無意識を有し、この無意識がそれらの解体の傾向を示すだけでなく、それらの実践と組織そのものの現実的個性要素を決定する仕方。
群集に拘束された何らかの個体そのものが、自分の所属する群集の群れに必ずしも似ていない、ある群れの無意識を有する仕方。
1つは個体または群集が、その無意識において、別の群集や個体に属する群集と群れを生きようとする仕方。
誰かを愛することは、いったいどんなことを意味するだろう?
それは、つねにその人を1個の群集の中で把握すること、その人が加わっている1つのグループから、たとえ家族などのようにかぎられた狭いグループからでもその人を抽出することだ。
----それから、その人に固有の群れを、つまりその人が自分の中に閉じ込めている、おそらくまったく別の性質をそなえたさまざまな多様体を探すこと。
それらを自己の多様体と合体させること。
それらに入り込むこと。
天上的な婚礼、多様体の多様体。
1つの形成すべき器官なき身体の上での非人称化の実戦でないような愛は存在しない----そして、この非人称化の至高点においてこそ、誰かが名づけられ、自分の姓あるいは名を受け取り、その人に属しかつその人が属するもろもろの<多>を瞬間的に把握して、最高の強度を孕んだ識別可能性を獲得するのだ。
顔の上のそばかすの群れ、女の声で話す少年たちの群れ、ド・シャルリュス氏の声の中に雛のように集まる少女たち、誰かの喉の中に狼たちの群れ、肛門の中に肛門の多様体、人がその上に身をかがめる口あるいは目。
各人が各人のうちのたくさんの身体を通過するのだ。
アルベルチーヌは、独自の数、組織、コード、階層をもつ少女たちのグループからゆるやかに引き離される----そして、ただ単に1つの無意識全体がこのグループと、この限定された狭い集団に浸透しているだけでなく、アルベルチーヌは彼女に固有のさまざまな多様体をもっており、語り手は、彼女を孤立させつつ、彼女の身体に、また彼女の嘘の数々に、彼女の多様体を発見するのだ----愛の終わりが彼女を再び識別不可能にするときまで。

(同上 pp.83-84)

「リビドー」は「愛」へ、群集から取り出され、私と「群れ」を作る愛するひとへ、そして、オデットとの愛と嫉妬を重ね合わせ、関係それ自体を多数多様なネットワークへと高めたスワンとアルベルチーヌの関係を描いた『失われた時を求めて』を横断しながら、「狼男」の夢、「喉の中の狼たち」「肛門の中の肛門」に連鎖していく・・・これら経巡る語の群れは、意味には固定されず、異質な諸要素が続くアレンジメントを作り出している。

こうして、「リビドー」はオイディプス的な実体概念に対応する性的領域から離れて、関係概念へと変容していく。「アルベルチーヌは、独自の数、組織、コード、階層をもつ少女たちのグループからゆるやかに引き離される」という語り手は、意識とは異なる領域として対象化されていた「無意識」を、言葉に速度を与えながら、対象化し固定する場から多数・多重・多様性へと開いていくのである。

ユングによればこの語り手(トリックスター)は無意識への導き手であり、かつ無意識であるという一見矛盾する不思議な本質を持っていた。「私は無意識である」とトリックスターが言わないのはこの本質に従うからだろうか? 人物として対象化されながらも二色(複数)の声によって無意識へ導く彼(彼ら)自身が、多様体(multiplicite)という本質においては「無意識」と呼ばれるということなのだろうか?

ここでカフカの名がここで突然出てくる。多様体を言葉に通すと矛盾と捉えがちのこちら側の解釈を「倒錯」によって「機械」として描くことを可能にした諸作品とその登場人物に語り手の注意が向けられる。語り手は、速度を与えられ、線(流線=速度ベクトル)となった作品や登場人物をシフター(指示詞)のように扱い、様々な「機械」との繋がりの方に聞く者の注意を向ける。

とりわけ抱いてはならないのは、誰かが参加または帰属しているもろもろの外的な群集やグループと、その人が自己のうちに包みこんでいるかもしれないもろもろの内的な集合体を区別すればこと足りるなどという考えである。
区別があるとすればそれは、つねに相対的で変化する入れ替え可能な外部と内部のあいだの区別ではまったくなく、共存し互いに浸透し場所を変える多様体のタイプの区別なのである----つまり、さまざまな機械、歯車、モーターおよび諸要素であって、それらが、ある瞬間に介入して言表の生産装置としてのアレンジメントを形成するのだ----私はお前を愛する、というような (あるいはまた別の) 言表を。
再びカフカについて言えば、彼にとってフェリーツェは、1個の社会機械と、また彼女が代表している商社のインタフォン装置と切り離せない。商取引と官庁組織に魅惑されたカフカの眼から見て、彼女がこの組織に属していないわけがあろうか?
けれども同時に、フェリーツェの歯、大きな食肉獣じみた歯は、彼女をさまざまな線に沿って走らせるのだ。
<犬になること>、<ジャッカルになること>などの分子的多様体の中を。
フェリーツェは、彼女のものでありカフカのものでもある (それぞれ同じではない) 現代的な社会機械の表徴と切り離すことができないし、またもろもろの粒子、小さな分子的機械、異様な「生成変化」(なること) のすべて、カフカがその倒錯的エクリチュール装置を通してたどることになり彼女にもたどらせる行程と、切り離せないのだ。

(同上 pp.84-85)

(※官僚機械とカフカの主人公とカフカ自身とフェリーツェが織りなす「機械」については以上の本を参照。)

すべてが----もちろん静止の状態でも----運動の中にあるというのはわかる。が、語り手が強調するのは、とりわけ個においても速度ベクトルが犇いているという点である。「けれども同時に、フェリーツェの歯、大きな食肉獣じみた歯は、彼女をさまざまな線に沿って走らせるのだ。<犬になること>、<ジャッカルになること>などの分子的多様体の中を。」 多様性に関して、語り手が異なる者同士の共存としてのdiversitéではなく同一なものの多様性multipliciteを強調する理由だろう。

「機械」をグラフ理論が描くネットワークと仮定してみる。すると、「機械」ではすべてがエッジ(関係の線)であり、エッジが交差して重なり合うノード(結び目、節)もまた点として捉えることはない。もしノードとみなすとしたらそれはエッジとの度合いの違いでしかなくなる。実体概念を徹底して退け、関係概念のみからなる世界を語り手は無意識と呼ぶのだが、それは彼(彼ら)なりの自己紹介でもあるのだろう。

トリックスターがもし個人として自己紹介をするなら、禅の「即非の論理」を使うかもしれない。「私は私ではない。ゆえに私である」、または「無意識は無意識ではない。ゆえに無意識である」というような・・・。だが、彼(彼ら)はこのような矛盾として現れる言表を個人という枠から軽やかに外してしまう。すると、個人は点として解釈されたモル的多様体のフィルタがかかった諸関係の網の目の交差部分であることがわかる。

(※金剛般若経にある即非の論理を西洋論理学を通して日本文化の生活でこの論理が見出されることを述べた上の本で述べている。)

グラフ理論に再び喩えてみると、この操作によって、個人というノードもエッジ(関係性の線)の動きが作る度合いの差異の、一時的で不確かなある状態の継続に過ぎなくなる。これらエッジの絡まり合いや繋がり合いを語り手は「アレンジメント」と呼ぶのだろう。以下の引用にはフロイトの精神分析への批判とともに、モル的多様体から漏出する分子的な多様体をも含んだ関係のみでできたネットワーク世界に面した言葉自身への試練も課せられているかのようである。

個人的な言表などというものはなく、言表を生産するもろもろの機械状アレンジメントがあるのだ。
われわれはこう言おう、アレンジメントは根本的にリビドー的なものであり、無意識的なものである、と。
それは無意識そのものなのだ。
さしあたってわれわれはそこにいろいろな種類の要素 (または多様体) を見てとることができる。
人間的な、社会的かつ技術的な、組織されたモル状の諸機械、<非人間的になること>の粒子をそなえた、分子状諸機械、オイディプス的諸機械 (こう言うのは、そう、確かに、もろもろのオイディプス的言表が、たくさんげんに存在するからだ)、可変的な様相と機能をもつ反オイディプス的諸装置。
後にわれわれは検討することになるだろう。
われわれはもはや互いに区別されたもろもろの機械について話すことすらできず、ただ、互いに貫入し合い、一定の瞬間にただ1つの同じ機械状アレンジメントを形作り、顔を持たないリビドーの継承を形作る、いろいろなタイプの多様体について語ることができるだけだ。
われわれ1人ひとりがこのようなアレンジメントの中に捕えられており、まさに自分の名において語っていると信ずるとき、各人はその言表を再生産している。
あるいはむしろ、その言表を生産するとき、まさに各人は自分の名において語るのである。
これらの言表はなんと奇妙であり、正真正銘の狂人の言説であることか。
われわれはカフカを語った。
同じように<狼男>を語ることもできる。
フロイトが強迫神経症に賦与する1個の宗教的軍隊的機械----群れの、あるいは<狼になること>の、そしてまた雀蜂や蝶になることの肛門機械、これはフロイトがヒステリー的性格に賦与するものだ----オイディプス的装置、フロイトは、これをいたるところに再び見出すべき唯一の原動力、不動の原動力に仕立て上げる----かたや反-オイディプス的装置 (姉妹との近親相姦、近親相姦-分裂症、あるいは「哀れな境遇の者たち」との愛、あるいは肛門性、同性愛?)、こうしたものすべてに、フロイトは、もろもろのオイディプスの代理、退行、派生しか見ないのだ。
実際フロイトは何一つ見ていないし、何一つ理解していない。
あらゆる作動中の機械仕掛け、あらゆる多様な愛とともにある1つのアレンジメントが何か、彼はまるでわかっていないのだ。

(同上 pp.85-87)

「オイディプス的装置」に全てを還元するフロイトの分析が痛烈に批判されているのは確かだろう。だが、「(オイディプス的言表がたくさんげんに存在するからだ)」と括弧付きで太字で強調される時、フロイトに限ったことではない点が仄めかされているのではないか? この流体世界ではフロイトという語もシフターなのだ。そのように考えると、語り手は、言語を使う側が還元主義と実体論を逃れるような言語行為の困難を、シュプレヒコールを聞いている者自身の言語使用にも課そうとしていることになるだろう。

すると、「フロイトは何一つ見ていないし、何一つ理解していない。あらゆる作動中の機械仕掛け、あらゆる多様な愛とともにある1つのアレンジメントが何か、彼はまるでわかっていないのだ」という批判は、「フロイト」という固有名詞をシフター(指示詞)として聞く側に向けられていることにもなるだろう。語り手がトリックスターなのは、語を意味へ向かわせる一方でシフターとして使うその二枚舌的な言語使用にある。

ここで注目したいのは、「機械」「機械状アレンジメント」に組み込まれるように見える点だ。「われわれはもはや互いに区別されたもろもろの機械について話すことすらできず、ただ、互いに貫入し合い、一定の瞬間にただ1つの同じ機械状アレンジメントを形作り、顔を持たないリビドーの継承を形作る、いろいろなタイプの多様体について語ることができるだけだ」という語り手は、「機械」をある領域の関係を生み出す過程やシステムと捉え、「機械状アレンジメント」の連鎖の一部としてに「機械」を配置している。「機械」もまた「機械状アレンジメント」を指示するシフターのように思えてくるのだ。

すると、「区別された機械について話すことができ」ないようなネットワークは、カフカにも、語り手にも、そして聞く者自身にも「互いに貫入し合い、一定の瞬間にただ1つの機械状アレンジメントを形作」る多様体へと開いているということになるのだろう。それゆえ、まだ個別的な「機械」について、つまり対象として扱える「機械」を語るだけでは不十分だという語り手と私は、同じ多様体世界にいると考えていいことになる。(だからこそ、『千のプラトー』という本の文字が語り手と聞き手が場を同じにする街頭演説に思えたのかもしれない。)

多様体が作り出す機械状アレンジメントが関係の度合いの継続によってできた状態を「機械」と呼ぶなら、それら関係の度合いから「オイディプス的諸機械」の「地図作製」が可能になる。語り手はカフカの『ジャッカルとアラブ人』から始めて、地名が張りついたマクロな「地図」から、父親-母親との関係の強度に関わる社会化(去勢)の様々なバリエーションを伝える物語装置が表す地図へ、さらにその中で捉えきれないものたちも含めたミクロの地図を「作製」してみせる。

もちろん、さまざまなオイディプス的言表が存在する。
カフカの短編、例えば『ジャッカルとアラブ人』を次のように読むのはたやすいことだ----つねに可能なことで、そうすれば何の危険もなく、いつまでもうまく行く。
ただし何一つ理解できない羽目になるのだ。
アラブ人たちは明らかに父親に結びついているし、ジャッカルは母親に結びついている----両者のあいだに、錆びついた鋏によって表象される、まさに1個の去勢の物語が成立する。
けれども、アラブ人たちは、組織され、武装しており、外延的であって、砂漠全域に広がる群集であり、ジャッカルたちの方は、さまざまな逃走線や脱領土化線に沿って砂漠の中に絶えず奥深く進んでいく、強度の群れであることがわかる (「連中は狂人、正真正銘の狂人なのです」)。
両者のあいだ、辺境に、北から来た男、ジャッカルの人がいる。
そして大きな鋏とは、粒子=ジャッカルたちを導き、あるいは解き放つアラブ人の合図であり、それらを群集から切り離すことによって、狂気じみた疾走を加速する一方、それらをこの群集に連れ戻し、手なずけ、鞭で打ち、思い通りに動かすためのものではないだろうか?
餌というオイディプス的装置、ラクダの屍体、腐肉という反-オイディプス的装置----喰うために動物を殺すこと、あるいは腐肉をきれいに片づけるために喰うこと。
ジャッカルたちは適切に問いを提出している----これは去勢の問題などではなく、「潔癖さ」の問題であり、砂漠-欲望の試練なのだ。
どちらが勝ちをおさめるのか、群集の領土せいか、あるいは群れの脱領土化か、つまりドラマが演じられる器官なき身体にほかならない砂漠の全域をひたすリビドーか?

(同上 pp.87-88)

マクロからミクロへと地図のフェーズが変わるにつれて、集団から離脱する群れの流れが見えてくる。言葉が「群れ」を作り始めたのだ。「餌というオイディプス的装置、ラクダの屍体、腐肉という反-オイディプス的装置----喰うために動物を殺すこと、あるいは腐肉をきれいに片づけるために喰うこと。」 語り手は、これらは例外ではなく地図の重要な要素であり、地図が平面に閉じられていないこと、多様体に開かれていることを示唆したいのだろう。

アラブ人からジャッカルへ視点を変えさせるのは、「大きな鋏」が現れて、両者が一つ場から分岐したことを示され、両者の中間にある「北から来た男」が現れる時だと語り手はいう。この複数で中間的な男はシフターそのものである。繋げること、連鎖させること、「・・・と・・・」の役割は多様体自身の徴なのだろう。私の目の前にある二色の声で語るトリックスターもきっとそうなのだ。ならば、私は常に兆しの前に立っていたのである、まるで『掟の門前』の主人公のように・・・。

以下はエピグラフに挙げた引用である。このコンテクストに当て嵌め直してみる。

個人的な言表というものはない、そんなものは決して存在しないのだ。
あらゆる言表は、1つの機械状アレンジメントの、つまり言表行為の集団的な動作主の産物である (「集団的な動作主」といっても、民族や社会と解してはならない。
それは多様体なのだ)。
ところで、固有名というものは、一個人を指示するのではない。
----個人が自分の真の名を獲得するのは、逆に彼が、およそ最も過酷な非人称化の鍛錬の果てに、自己をすみずみまで貫く多様体に自己を開くときなのである。
固有名とは、1つの多様体の瞬間的な把握である。
固有名とは、1個の強度の場においてそのようなものとして理解〔包摂〕された純粋な不定法の主体なのだ。
プルーストが名前(プレノン)について述べていること----ジルベルトと口にいると、私は口の中に彼女の裸の全身を含んでいるような気がする。
<狼男>、真の固有名、非人称化され多様化された一個人の生成変化〔なること〕、不定法、強度を示す親密なファーストネーム。
だが、精神分析は多様化について何を理解しているだろうか?
ひとこぶラクダが、空の下でせせら笑う幾千ものひとこぶラクダになる砂漠の時。
幾千もの孔が大地の表面に穿たれる夕刻。
去勢、去勢、と精神分析の案山子(かかし)はわめく。
それは狼たちがいるところに、1つの孔、1人の父親、1匹の犬しか見てとったためしがなく、野生の多様体があるところに、飼い馴らされた一個人しか見てとったためしがないのだ。
われわれは、精神分析がひたすらオイディプス的言表を選別してきたことだけを非難しているのではない。
なぜならこれらの言表は、ある程度までやはり機械状アレンジメントの一部をなしており、このアレンジメントとの関係で、訂正すべて指標として役に立つこともあるからだ。
ちょうど計算ちがいのように、われわれは、精神分析がオイディプス的な言表を用いて、患者に、自分は人称的、個人的な言表を保持し、要するに自分の名において語ろうとしている、と信じ込ませたことを非難しているのである。
しかし、すべてが最初から罠にはまっている----<狼男>は決して語ることができないのだ。
彼が狼たちのことを語っても、狼のように叫んでも無駄だろう。

(同上 pp.88-89)

「<狼男>、真の固有名、非人称化され多様化された一個人の生成変化〔なること〕、不定法、強度を示す親密なファーストネーム。」 語の群れがゾロゾロと出てくる。体言止めが多くなる。多様体世界が急接近する気配が満ちてくる。けれどもそれは言葉には現れない。「・・・と・・・」ととりあえず言葉したが、それは句読点や空白に充溢し、言葉の文法をチグハグにするときにこそ気づかれるような気配だからだ。

フロイトは----そしてこの落書きを描いている私も----文法に従順すぎたのだろう。「個人的な言表というものはない、そんなものは決して存在しないのだ」というトリックスターの二色の声の主張を、1人の語り手の発話として聞くのは、私を主語とする文法に馴化された者の習慣でしかないのである。

「フロイトはそれを聴きさえしないで、自分の犬を眺めては「それはパパだ」と答えるのである」と語り手が罵倒するとき、その表情に嘲りの笑いが浮かんでいるように思えるなら、「「フロイト」というシフターはお前自身を指しているのだ」と言われているように感じられるからだろう。(被害妄想がすぎるのかもしれないが。)

「<狼男>は決して語ることができないのだ」と言いながら、「フロイトはそれを聴きさえしない」というトリックスターの言葉に矛盾を見出す時こそ、多様体の入り口にいるように思える。こちらも、渦巻き世界のルールを少しずつ体に染み渡らせて、何を聴くかという姿勢自体が問われていることは実感できる気がしてきた。

ふと気づけば、語り手はドキュメンタリータッチの口調に変わって「狼男」のエピソードを語り始めている。多様体はスウっと引いていってしまったのだろうか? 語り手も文法に沿った物語に言葉を乗せて皮肉たっぷりにフロイト側の分析を演じている。

<狼男>は、大義のためにした数々の貢献によって精神分析の勲章を受け取ることになるだろう。
そして傷痍軍人に支給される扶養年金でさえ受けるだろう。
彼のうちでしかじかの言表を生産していた機械状アレンジメントが明るみに出されたときはじめて、彼は自分の名において語ることができたのだ。
しかし、精神分析はそんなことを問題にしない----およそ最も個人的な言表を口にしていいと言うことを患者(シュジェ)に納得させるときですら、人はあらゆる言表行為の条件を患者から取り上げてしまう。
口をふさぐこと、話すのを妨害すること、そしてとりわけ、人が話してもまるで何も話さなかったかのようにふるまうこと----これがかの名高い精神分析の中立性というやつなのだ。
<狼男>は叫び続ける----6匹や7匹の狼なのです!
するとフロイトが応じる----なんだって?
仔山羊のことかな?
それは面白い、仔山羊たちをのけてみよう、狼が1匹残る、つまりそれはきみの父である・・・・・・。
そういうわけで、<狼男>はあんなにも疲れ果てているのだ。
彼は、喉の中の彼の狼たちすべて、鼻の上の小さな孔のすべて、彼の器官なき身体の上のあのリビドー的な効果のすべてとともに横たわったままでいる。
間もなく戦争がやってくる。
狼たちはボルシェヴィキになる。
<狼男>は彼が言おうとしていたことすべてのせいで、喉を詰まらせたままだ。
人はわれわれにこう告げるだろう、彼は再び行儀良く、ていねいでおとなしくなった、「誠実で細心に」なった。
要するに彼は治癒したと。
彼といえば、精神分析というものが真に動物学的な洞察力に欠いていることに注意を促して、しっぺ返しするのだ。
----「1人の若者にとって、自然への愛と自然科学、特に動物学の理解ほどに価値を持つものはありません。」

(同上 pp.89-90)

冒頭のドキュメンタリータッチの言葉は「狼男」側からだった。一方、最後「フロイト」側のドキュメンタリーに変わると、むしろ「狼男」の無言の抗議の方が聞き手に聞こえてくるように思える。もちろんそのコトバは、語り手の情調として、トーン、身振り、声にならない余白としてなのだが。他方、歴史はオイディプス装置の側にある。1914年の戦争の始まりにオイディプス装置は「狼男」の狼たちをボルシェヴィキ----レーニンの主導する組織に----に結びつける。

「狼たちはボルシェヴィキになる。」 だが、そこにこそ語りえない多様体の入り口があるのかもしれない。フロイトの精神分析の解説者で自身も精神分析医であるローランド・ジャッカードの「狼男」に関する言葉「1人の若者にとって、自然への愛と自然科学、特に動物学の理解ほどに価値を持つものはありません」でこのプラトーが締めくくられるとき、語り手は人間主義すぎるフロイトの分析を「動物学」へシフトする必要を強調する。「動物になること」は文法をチグハグにし、叫びへ近づくことだろうか? 否、文法のチグハグさは沈黙へ私たちを促そうとしているように思える。

身振りや雰囲気という関係のコミュニケーションへ示唆する言葉の「群れ」は、そのチグハグさから関係を示唆するシフターになっているのだろう。

第2プラトー「1914年----狼はただ1匹か数匹か?」の冒頭にある狼の足跡の画像。キャプションには「足跡のある野原あるいは狼の線」とある。ここには目に見えるという意味では狼は<いない>のだが、線(速度ベクトル)として、<いる>のである。

「間もなく戦争がやってくる」と語り手は吐き出すように呟いたかに聞こえた。第1次大戦が勃発する1914年、レーニンはオーストリー=ハンガリー帝国領のガラツィアに滞在していたという。「ドイツの侵略」に対して戦争を訴え戦争参加を訴える欧州の社会主義者に抗して、レーニンは戦争反対を訴えた。帝国主義国家が戦争によって成長を続けるなら、国家を廃絶するには戦争反対のムーブメントを起こし、社会主義へと移行するために国家を分断して内戦を起こす必要がある、という戦略を採ったからだという。(いわゆる「内戦転化論」については『社会主義と戦争』1915を参照。)

レーニンは、資本主義を国家レベルで廃絶する段階の契機としてこの戦争を捉えたという。外側に向かうのではなく<今そのもの>を作る土台を変える、というその革命戦略は、このプラトーのモチーフにも響いているように思える。ただし、それはシュプレヒコールのような叫び声によってではなく、「狼男」の沈黙によって、という明確な違いはあるのだが。

トリックスターのシュプレヒコールがドキュメンタリー調に始まって最後にまた同様のスタイルに戻り、フロイト側の外に「狼男」の声ならぬメッセージをたっぷり含ませる終わり方になったのはそのためだろうか、と思う。



※見出し画像はチャールズ・マリオン・ラッセル『バッファローの群れ』(1895)。各々が別々の関心を持ちながらも集まって草原を移動する一時的で不確かな共同性。。。(画像は以下のサイトを参照した。)


いいなと思ったら応援しよう!