SaaSじゃなくて"おぢさん is Dead"
AI時代に死ぬのはSaaSだけではない
前回、「SaaS is Dead」の話を書いた。正確には、SaaSという概念そのものが消えるという話ではない。業務アプリ、認証、データベース、監査ログ、ワークフロー、顧客管理、帳票、承認、チャット、メール、そういった機能は当然残る。企業活動がある限り、業務を支える仕組みは必要であり、そこにソフトウェアが入り続けることも変わらない。
ただし、それを高額な独立SaaSとして売り、画面とID課金で利益を出していた今の商売の形が、そのまま残るとは限らない。業務そのものの再設計によって、これまで「専用SaaS」として買っていたものは、より大きな基盤や、より軽い実装に吸収されていく可能性がある。
つまり、機能は残る。だが、今の形の商売が残るとは限らない。
では、次に何が死ぬのか。私は、SaaSより先に死ぬものがあると思っている。それは、知識更新できない「おぢさん」である。
念のために言っておくと、ここで言う「おぢさん」は実年齢の話ではない。20代にもおぢさんはいるし、30代にもいる。逆に、60代でもまったくおぢさんではない人はいる。問題は年齢ではなく、知識の更新速度であり、もっと言えば、更新し続ける意思の有無である。
2026年の現場では、IT知識、特にAIの賞味期限が極端に短くなっている。AIモデルは変わる。クラウドサービスは変わる。セキュリティ要件は変わる。開発手法は変わる。業務アプリの作り方も変わる。資料作成も、調査も、採用も、営業も、経営判断の材料の集め方も変わる。その中で、数年前の理解、あるいは十数年前の成功体験で止まっている人間が、組織の上のほうに座っていることがある。
おぢさんに問いたい。
レガシーな知識だけで仕事をしている。新しいものが頭に入らない。そもそも入れる気もない。少し前の最新技術のニュースで、もう分かった気になっている。昔のChatGPT初期のころに「走れメロス」を書かせて出来が悪かった。それで、「AIなんて大したことない」「日本語はまだまだだ」「結局、人間には勝てない」と決めつける。
さらに、「大企業では禁止令が出た」「どこかの自治体では使用禁止の通達が出た」といった断片的なニュースだけを拾って、AIをいまだにスカイネットか何かだと思っている。
そこで止まっている。
問題は、AIのリスクを考えることではない。リスクを理解することは必要である。機密情報、個人情報、著作権、ハルシネーション、責任分界、監査、ログ、運用設計。考えるべきことはいくらでもある。だが、リスクを理解しているふりをしながら、実際には数年前の印象とニュースの見出しだけで判断しているなら、それはリスク管理ではない。単なる思考停止である。
「最後は人間が決める」というおぢさんもいる。大体そういうやつはパソコンが使いこなせない。人間が決めるのはもちろんそれはそうである。AIは最終責任を取らない。事業リスクも取らない。社員の生活も背負わない。だから最後に人間が決めること自体は正しい。
しかし、その言葉を免罪符にして、判断の前段にある調査、比較、要約、仮説生成、検証、資料化、議論の整理を全部サボっていないか。AIで増幅できるはずの思考量を増やさず、昔の経験と役職と声量だけで決めていないか。そこが問題なのである。
「AIとの対話は楽でいいよな。本物の人間との対話は大変だぞ」というおぢさんもいる。これも半分は正しい。人間との対話は大変である。利害がある。感情がある。政治がある。面子がある。過去の経緯がある。正論だけでは動かないし、論理だけで片づかないことも多い。
だが、だから何なのか。
人間との対話が大変だからこそ、AIで事前に論点を整理する。反論を出させる。資料を作る。議事録を要約する。論点漏れを潰す。相手の立場をシミュレーションする。説明の順番を組み替える。自分の主張の弱点を検出する。それが2026年の普通である。
そこで「AIは楽でいいよな」「人間相手はそんなに簡単じゃないぞ」と言っているだけなら、それは現場感ではない。単なる更新停止である。
もう一つ、よくある言い方がある。
「現場を知らないくせに」
「基礎を知らないくせに」
「理論を分かっていないくせに」
もちろん、現場も基礎も理論も重要である。それを軽視していいとは思わない。だが、この言葉もまた、しばしば新しい道具を拒絶するための便利なおぢさんの棍棒として使われる。
だから、逆に聞きたい。
あなたは半導体を熟知してから、電卓で四則演算をしているのか。CPUの内部構造を理解してから、Excelを開いているのか。TCP/IPの詳細を説明できるようになってから、メールを送っているのか。暗号アルゴリズムを実装できるようになってから、インターネットバンキングを使っているのか。
そんなわけがない。
高度な機械は、利用者が内部構造を完全に理解していなくても使えるように設計されている。マニュアル通りに使えば動く。危険な操作にはガードがある。フールプルーフもある。もちろん限界はあるが、「仕組みを完全に理解していないなら使うな」という話にはならない。
もし人間の労働時間が無制限なら、基礎から理論まで全部教えればいい。コンピュータサイエンスも、統計も、情報セキュリティも、業務設計も、全部順番に学べばいい。だが、現実にはそんな時間はない。働き方改革で労働時間は制限されている。現場は人手不足である。業務は止まらない。顧客対応も、障害対応も、資料作成も、会議も、監査も、日々の運用もある。
その中で、「まず基礎をしないと」と言うのは、正論の顔をしたおぢさんのマウントとりの停止命令である。若者は「はあ?」となる。
実際には、多くの学びは逆順で起きる。先にビデオゲームをやる。あとからコンピュータサイエンスに興味を持つ。先にパソコンを使う。あとから計算論理を知る。先にExcelを使う。深堀してあとから関数やデータ構造を覚える。先にAIを使う。あとからプロンプト、確率モデル、学習データ、ハルシネーション、セキュリティ、著作権、業務設計を学ぶ。
それでいいのである。
むしろ、使ってみないと疑問は生まれない。疑問が生まれないところに、理論は入らない。「基礎を知らないくせに」と言って新しい道具を止める人間は、基礎を守っているのではない。自分が知らない道具を、おぢさんが基礎という言葉で止めているだけである。
昔、「パソコンが使えない管理職」という問題があった。メールが打てない。Excelが開けない。ファイルの場所が分からない。共有フォルダが分からない。それでも”役職”はあった。部下が印刷してくれた。秘書が代わりに送ってくれた。若手が資料を作ってくれた。それで何とかなっていた時代がある。
しかし、それは本当は何とかなっていたのではない。周囲が尻拭いしていただけである。
そして今、同じことがAIで起きている。AIを使えない。使わない。使う気もない。昔話を自慢する。「機械より心だ」と言う。高級料亭価格のコンサルを呼ぶ。そして現場に言う。
「ちゃんと仕事しろ」と。
これは地獄である。
古い判断者は、古い道具を選ぶ。古い組織は、古い取引先に安心する。古い管理職は、古い説明資料に納得する。古い現場は、古い業務フローを守る。GitHubがあるのにExcelVBAに固執する。その結果、AI時代に不必要なコストを払い続ける。
私は、テクノロジーの怖さを少しは知っているつもりである。小学生のころ、コンピュータオセロは激弱だった。子どもでも勝てた。「なんだ、コンピュータなんてこんなものか」と思った。ところが、大学1年のころには、もうオセロでは勝てなくなっていた。将棋はまだ勝てた。しかし社会人になるころには、勝てなくなった。
そして囲碁である。かつて囲碁は、コンピュータが人間に勝つには2030年を過ぎるだろうと言われていた。少なくとも当時の空気としては、「囲碁だけはAIには無理だ」という感覚があった。それが、ずっと早く来た。AlphaGoが李世ドルに勝ち、「囲碁はまだまだ人間の領域だ」と思っていた人間の時間感覚を、まとめて破壊した。それは学者ですら見誤った。
ここで学ぶべきことは一つである。
技術は、その時点の座標で見てはいけない。ベクトルで見なければならない。
今どこにいるかではない。どの角度で上がっているか。どれくらいの速度で進んでいるか。加速度はどれくらいか。そこを見ないと、テクノロジーを見誤る。
生成AIも同じである。「走れメロスを書かせたらひどかった」「前に話したことを覚えていない」「コードを出させたら間違っていた」「使いものにならない」。そう言って笑っていたのは、わずか数年、場合によっては、わずか数か月前である。にもかかわらず、その時点のネガティブ出力だけを見て、技術全体を評価してしまうことは危険である。生成AIの怖さは、ある時点の完成度ではなく、改善速度にあるからだ。昨日できなかったことが、今日できる。数か月前の不具合が昔話になる。にもかかわらず、人間の側だけが、昔の印象で止まっている。
かつて日本人は、中国のロボットを笑った。「中華キャノン」だの何だのと言って笑った。日本にはASIMOがある。日本のロボット技術はすごい。そう思っていた。たしかに、その時点では日本が強かった。ASIMOは未来の象徴だった。
だが、2026年の勢力図を見れば、話はそんなに単純ではない。中国勢は、製造力、量産力、資本力、速度で前に出てきている。アメリカ勢は、AI、ソフトウェア、クラウド、半導体、資本市場を握っている。では日本はどうか。昔すごかった。昔は笑う側だった。昔は勝っていた。それだけで、今も勝っていると言えるのか。
言えない。
完全敗北とは言わないまでも、笑う側ではない。むしろ、笑っていた相手の速度に追いつけなくなっている。
技術の世界では、昔の優位は免罪符にならない。昨日の勝者が、今日の観客になる。今日の観客が、明日の敗者になる。問題は、それが企業の意思決定レベルに来ていることである。
現場のエンジニアが技術を見誤るだけなら、まだ修正できる。しかし、経営者が見誤ると、組織全体が間違った方向に進む。AIを見誤る。クラウドを見誤る。セキュリティを見誤る。SaaSを見誤る。内製化を見誤る。人材を見誤る。市場を見誤る。そして、見誤ったまま意思決定する。
これが怖い。
部下には、悪いジョークとしてこう言っている。「将来、人間はAIに支配される」と言うと、多くの人はターミネーターのスカイネットみたいなものを想像する。だが、少なくともAnthropicやOpenAIがやっていることは、そういう話ではない。むしろ怖いのは、聡明なAIに使われる未来ではない。AIより明らかに知識更新速度の遅い経営者に、現在進行形で使われていることである。
おバカな経営者と、聡明なAI。どちらかに使われるしかないなら、後者のほうがまだ幸せではないか。
これは冗談である。だが、冗談で済まない部分もある。多くの領域で、すでにAIの知識量、比較能力、要約能力、論点整理能力は、平均的な人間の能力をかなり補完し、場合によっては上回っている。もちろんAIは万能ではないし、間違うし、責任も取らない。だからこそ、使う側の人間には、AIの限界を理解したうえで使いこなすだけの知性が必要になる。
問題は、その知性を持たない人間が、AIを拒絶したまま意思決定権を握っていることである。
知性を持たないまま声だけ大きく、役職だけ高い。そして低摩擦・好き好き人事で、周囲には反論しない人間だけが残る。そういう経営者が、AIの提案を聞くはずがない。
AIが「その判断は危険です」と言っても、「いや、俺の経験では大丈夫だ」「昔からこれでやってきた」「銀行のキャッシュカードだって暗証番号は4桁だろ。だったら社内システムも数字4桁でいい」みたいな決定をする。
誰がそんな経営判断を信じるのか。
銀行のキャッシュカードの4桁暗証番号は、カード本体、ATM、試行回数制限、不正検知、補償制度、運用監視、法制度とセットで成立している。単に「4桁だから安全」なのではない。
脅威モデルが違う。運用設計が違う。責任の所在が違う。
それを理解せずに、表面だけ真似る。これが本当に怖い。
AIが人間を支配するのが怖いのではない。AIより劣った認識能力の人間が、AIを拒絶したまま組織を支配するのが怖い。経営者は、AIが出てきたから初めて「自分より賢い存在」を拒絶したのではない。おそらく、上り詰める前からずっとそうだった。
自分より賢い部下を遠ざける。耳の痛いことを言う人間を冷遇する。反論する人間を「扱いづらい」と評価する。正しいことを言う人間より、気持ちよく頷く人間を近くに置く。そうやって、自分より賢い人間を拒絶したまま、組織を支配してきた。
だから、AIを拒絶するのは不思議でも何でもない。AIは、彼らにとって新しい脅威なのではない。昔から嫌ってきた「自分より賢いもの」が、たまたま機械の形をして現れただけである。
さらに悪いのは、組織トップの周辺である。トップが低摩擦な人間だけを周囲に置く。耳の痛いことを言う人間を遠ざける。反論しない人間を重用する。好きな人間を引き上げる。分かりやすく言えば、好き好き人事である。その結果、トップの周囲には、トップにとって気持ちのいい人間だけが残る。
現場から見ると、かなりきつい。
「この人たち、本当に外の敵と戦えるのか」と思う。
ここで言う敵とは、単なる同業他社ではない。新規参入、代替品、買い手の交渉力、売り手の交渉力、既存競争。いわゆるファイブフォース全部である。
AI時代は、この五つの力が一気に強くなる。新規参入のコストは下がる。代替品はAIで増える。買い手は比較しやすくなる。売り手もプラットフォーム化する。既存競争は価格と速度で殴り合いになる。その環境で、知識更新できない取り巻きだけを固めた組織が勝てるのか。
かなり疑わしい。
知識更新できない人間が、現場の上に乗っている。パソコンを使えなかった世代の延長で、ガラパゴス的意思決定をしている。昔のChatGPTの揚げ足取りで、今のAIを判断している。昔の感覚で、今の業務システム使い続けている。昔の成功体験で、今の若手と現場を評価している。
それはもう、おぢさんの老害問題ではない。組織リスクである。
SaaS is Dead。
その話はたしかに面白い。しかし、もっと先に見ておくべきものがある。
おぢさんの組織 is Dead。
知識更新できないおぢさんの組織は、AIに殺されるのではない。AIを使う人間や組織に、静かに置き換えられてしまうのだ。
