真田信繁はたいしたことなかった——後世の正統な再評価の真実
歴史上の英雄には、後世の創作がまとわりつきます。
実際には使っていなかった名前。
本人が言ったか分からない名言。
講談や小説によって作られた家臣や逸話。
その中でも再評価が求められているのが真田信繁でしょう。
真田幸村なんてその時代に存在した名ではない。
資料を精査すると話が盛られている。
だから本当はたいしたことがなかった。
彼の活躍は後世の捏造であり、徳川幕府に対する庶民のガス抜き、もしくは失態を隠すために持ち上げているだけ。
とても現代的で理性的な考察です。
さて、彼の生きた戦国時代には現代と違い、野蛮な荒くれ者が大勢いました。
その代表例が伊達政宗と島津義弘、そしてその息子島津忠恒です。
遅れてきた英雄
伊達政宗は、十八歳で家督を継ぎ、二十四歳で蘆名氏を滅ぼして南奥羽の覇者となった人物です。
彼もよく盛られていると言われがちですが、一代で東北の勢力図を塗り替えた手腕はやはり並大抵ではありません。
戦に次ぐ戦を勝ち残った、歴戦の大名です。
大坂の陣は、そんな政宗にとって最後の戦でした。
慶長二十年五月六日。
大坂夏の陣において、政宗を含む徳川方の部隊は、道明寺方面で豊臣方の後藤基次隊を壊滅させました。
その後、伊達隊は別の豊臣方部隊と交戦します。
伊達隊は反撃を受け、後退しました。
徳川方の先鋒大将だった水野勝成は、政宗に再攻撃を要求します。
一度ではありません。
再三、攻めるよう求めました。
しかし政宗は、弾薬の不足と兵の負傷を理由に拒否します。最後には自ら水野勝成の陣まで出向き、再攻撃を断ったと伝えられています。
水野勝成は家康の従兄弟であり、秀忠の乳兄弟です。限りなく政権中枢に近い人物と言えます。
ここで再攻撃をしなかった理由は定かではありません。弾薬が不足していたのかもしれない。朝からの戦闘で兵が疲弊していたのかもしれない。
すでに豊臣方の敗北はほぼ決まっており、無理に追撃する必要がないと考えた可能性もあります。
ただし一つだけ確かなことがあります。
後藤基次隊を壊滅させた直後の伊達政宗が、その部隊への再攻撃には慎重になった。
政宗は、戦を知らない人間ではありません。
その政宗が、攻撃によって得られる戦果より、失う兵のほうが大きいと判断したのです。
一説にはこの時の伊達家の兵力は約1万、相対した部隊の兵力は3千と言われています。
鬼島津を隣で見た男
島津義弘。
関ヶ原の敵中突破や朝鮮での戦いによって、「鬼島津」の名で知られる武将です。
もちろん、後世に膨らんだ逸話もあるでしょう。
それでも、義弘が戦国時代最高峰の実戦経験を持つ武将の一人だったことまで消えるわけではありません。
そして義弘の子、島津忠恒は、その父の武勇を昔話として聞いただけの人間ではありません。
忠恒自身も朝鮮へ渡り、父と同じ戦場に立っています。
泗川の戦いにおける島津父子の働きは、当時の書状で「数万騎被打捕 御父子御手柄」と称賛されました。
忠恒は、鬼島津の戦いを間近で見ただけでなく、自分もその武功の中にいた人物です。
そんな彼は、大坂城落城直後に、国元へ戦況を伝える文書を送っています。
その中で、彼は敵方であった一人の武将を称賛しました。
このとき、豊臣家はすでに滅びています。
戦死した敵将を褒めても、領地は増えません。
本人から恩を返されることもありません。
滅亡した豊臣方の生き残りに媚びる意味もありません。
何なら敵方を褒めるのは政治的リスクがあります。
また敵を褒めることで自分が戦がわかる男であることを示す意義もありません。
鬼島津の息子であり、自分も父と戦っているのですから。
誰が誰を評するか
伊達政宗が再攻撃を断った相手。
その部隊の殿軍を指揮していたのが、真田信繁でした。
そして大坂城落城の約一か月後、鬼島津の戦いを知る島津忠恒は、国元へ送った文書にこう記しました。
真田日本一之兵、古よりの物語にもこれなき由。
真田は日本一の兵である。
昔から伝わる物語にも、このような者はいない。
さて、ニャルは同時代に生き、戦場を知る人間の評価はそうでない人間より正確なのではないかと推論します。
あなたは彼らより戦とその人物に詳しいですか?
