#3 認識汚染領域〜シンクロスフィア〜
第1章 春の後ろ姿(前編)
夜の部屋は、昨日と同じようでいて、もう別の場所みたいだった。昼間に斎場で吸い込んだ線香の匂いが、もう消えたはずなのに、まだ服のどこかに残っている気がする。
スマホの向こうで、理音が小さく息を吐いた。
『一人で先に開いてないよね』
「開いてない」
『ほんとに?』
「そこまで信用ない?」
『今日は特に』
少し間が空いて、それから理音が続ける。
『スクショは残してる?』
「残してる」
『メールも通知も?』
「全部」
『よし』
やたら細かく確認してくる。理音も緊張しているのかもしれない。
『……あの引用、やっぱり少し変なんだよね』
「わたしはかもめ、のとこ?」
『うん。でも今はそこより先を見よう。たぶん、順番がある』
その言い方が、理音らしかった。
何かに気づいていても、今それを広げるべきかどうかを先に考える。
俺はホーム画面の隅にある、淡い緑の四つ葉のアイコンを見た。
CLOVER。
かもめのメールの末尾に記載されていた招待リンクから入れたばかりのアプリだ。
「……開くぞ」
『うん』
タップすると、起動音もなく画面が切り替わった。真っ白だった。白、というより、光沢のない薄い霧みたいな色だった。
そこに細い灰色の線が何本か走っていて、読み込み中を示しているらしい。広告も通知もない。
親切そうな色も、注意を引く動きもない。
今どきのアプリとは違う、静的な画面構成。
数秒後、ログイン画面が開いた。
「入れた」
『本物だったわけね』
「IDとパスワード入れる」
メールに書かれていた文字列を、一文字ずつ打ち込む。
clover_45sh
0415spring
春。
四月十五日。小春の誕生日だ。二カ月ほど前。
小春と距離を置き始めた頃。
「あの日付、小春の誕生日でしょ? ちゃんとお祝いしたの?」
「――LINEでおめでとうと伝えて、通販サイトで買ったプレゼント贈った……」
「それだけ?」
「うん……」
「あんたね!」
理音の声にはっきりと怒気がこもった。
何も言い返せない。
俺は入力を完了すると、黙って確定ボタンをタップした。
半透明のウィンドウが静かに立ち上がり、その中央に人型のアバターが表示された。
二十代前半くらいにも見える、中性的な顔立ちだった。輪郭は柔らかいが印象は薄い。
髪色も服装も主張が弱い。白と淡い灰緑でまとめられた服。
アバターにしては主張の弱いビジュアルが、CLOVERのUIに溶け込んでいた。
『――はじめまして。ヨツハです』
音声が流れる。
声は若すぎず、落ち着いていた。耳に優しいように調整された、角のない声だった。
『アクセス権限を確認しました。沢渡小春さんの共有設定に基づき、記録領域の一部へ接続できます』
共有設定……。
つまり、あのIDとパスはアカウントの共同管理者として設定した相手に与えるものということか。
それにしても大げさな言い回しだ。いま時のAIエージェントといった趣。
だけど、そのトーンにどこか引っかかるものがあった。
『操作に不安があれば無理しなくて大丈夫。あなたのペースで進めてください』
「えっ?」
その言葉に指先が止まる。
『……誠司?』
「いや」
気のせいだろ、さすがに。
『どうしたの?』
「なんでもない」
そう返しながら、俺は画面から目を離せなかった。
ヨツハはただ、柔らかくこちらをみている。
AIエージェントが入力なしで動かないのは当たり前なのだが、まるで俺のことを待っているみたいな佇まいに思えた。
「アクセスできる画面開いて」
音声でどこまで対応できるかも兼ねて、呼びかけてみる。
『接続可能な領域を表示します』
ヨツハが答えた数秒後、背後の白い画面が静かにひらく。左側に小さくメニューが並んだ。
プロフィール
記録
共有メモ
参加スペース
ガイド
特におかしなところはない。
大学の業務ツールそのものだった。
洗練されたインターフェースで、どこを見ればいいか、迷う余地がなかった。
『現在の接続範囲では、沢渡小春さんの公開プロフィール、共有設定済み記録、共有メモ、参加スペースの概要を閲覧できます』
特に何か指示したわけでないのにヨツハが解説を行う。いちいち親切、というか先回りしてくる気がする。
『まずプロフィール見れば?』
スピーカーから理音の声が聞こえた。
『小春が大学で周りにどんな風だったか、少しわかるかも』
「そうだな……」
理音に言われた通り、プロフィールを開いた。
沢渡 小春
二年 / 文学部比較文化学科
接続状態:オフライン
オフライン。
悲しいようなホッとしたような複雑な気分だった。
しかしその下に並んだ表示が、その気持ちを一瞬で吹き飛ばした。
共有設定最終更新:6月7日 21:38
外部招待送信:6月7日 21:42
「理音」
『なに』
「共有設定の更新、昨日になってる……」
電話の向こうで一瞬だけ空気が止まる。
『……どこに出てる?』
「プロフィールの下。21時38分。その下に外部招待送信、21時42分」
『昨日って6月7日ってこと!?』
「そう」
一昨日、6月6日に死んだはずの小春のアカウントで、昨夜、共有設定が更新され、その数分後に俺への招待が送られたことになる。
『でも、それ……今あんたが開いたから出てるんじゃなくて?』
「いや、違う。ログイン時間じゃない。共有設定更新と招待送信って書いてある」
電話の向こうで、理音が息を呑む。
『……招待送信って、あのかもめのメールの時間?』
「そうなる」
俺は画面の時刻を見たまま答えた。
「21時42分。俺のところに届いたのと同じだ」
数秒、どちらも何も言えなかった。そこへ、ヨツハが間を置いて口を開く。
『時刻表示について不明点がある場合は、接続履歴の確認も可能です』
音声を拾って自動応答したのだろう。
「……なんだかな」
まただ。特に望んでいないのに、先回りされる感覚。
『はい』
ヨツハはそのつぶやきにさえ反応した。
『驚かせてしまったなら、すみません』
ヨツハはアバターとは思えないほど相手のちょっとした反応を受け止めて、気を害したのではないかと察して先んじて謝る。
「……」
『誠司?』と理音が呼ぶ。
「このチャットボットの話し方がなんか……」
『話し方?』
「なんか……」
うまく言えない。
似ているとは言いたくなかった。そんなはずがないからだ。
でも、腹の奥に引っかかるざらつきだけは消えなかった。
ログイン記録の下に続くプロフィール文は短かった。
ちゃんと話せる形になるまでの足跡を、ここに残しています。
その一文を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。
プロフィールの下には、いくつかの項目が並んでいた。
公開プロフィール
共有記事 215件
参加スペース 5件
下書き 6件
「結構記事を書いてたみたいだ。215件」
『公開されてるやつ?』
「うん、範囲はわからないけど共有記事ってなってる」
「それなら見ても大丈夫でしょ。特にあんたなら」
「……どうだろうな。でも見ないと始まらない」
俺は共有記事の一覧を開いた。
フィルターで範囲を今年の4月以降に限定する。
タイトルと日付だけが、白い画面に静かに並んだ。
72件。ほとんど毎日何かを書いて公開していたことになる。
新学期メモ
就活用下書き
比較文化演習ノート 1
共同認知モデルについて
ゼミ飲み会について
読書メモ/アンナ・カレーニナ
その一行で、指が止まった。
『どうしたの』
「いや……アンナ・カレーニナ読んでたんだなって」
『アンナ……。ああ、トルストイ? 本の感想?』
「うん」
小春が何を読んで、何を思っていたのか。
そういうことすら、俺はほとんど知らない。
タップすると、本文より先にメタ情報が出た。
共有元:沢渡小春
公開範囲:共有設定済みユーザー
最終更新:4月18日 22:11
俺はそのまま下へ送った。
読書メモ/アンナ・カレーニナ
罪深いアンナ。
カレーニンとヴロンスキーを惑わせる。
でもアンナはわかりやすいからまだいい。
人はたぶん、捨てられた瞬間より、
相手の気持ちがもう別のところに向いているとわかった瞬間のほうが傷つく。
何か決定的なことをされたからじゃなくて、
自分の知らないところで、もう遅かったんだと思い知らされるから。
そこまで読んだところで、指が止まった。
小春らしい、繊細な感想文だと思った。
画面の白さが、急にまぶしく感じる。
『……何て書いてあった?』
俺は読み上げた。
読み上げ始めてから最後まで、理音は一言も口を挟まなかった。
「……理音?」
問いかけたが、理音は黙ったままだった。
「小春、こういう書き方するんだな。アンナにかなり感情移入してる感じというか」
なんとなく気まずくなって、俺はわざとらしく感想を伝える。
電波の向こうから、答えは返ってこない。
「理音――さん?」
『……うん』
恐る恐る問いかけると、やっと返事がきた。
「どうしたんだ?」
『なんでもない。気にしないで』
そう言ったきり、理音はまた黙った。
どうしていいか分からなくなった俺は、もう一度画面を見る。
アンナ・カレーニナは確か主人公のアンナが浮気する話だったよな……。
えっ……まさか。
「理音! 小春に限ってそんなことないよな!?」
思わず大声を出した俺に、電話口から聞こえるくらい理音は大きなため息をついた。
『あるわけないでしょ。小春に限って』
俺の愚かさを切り捨てるような鋭い理音の言葉に、だけど俺は安心した。
大きく息を吐くと、プロフィール画面へ戻る。
公開ログには、夕方の中庭の写真が一枚あった。花壇の端だけが少し写っている。風が強い日だった。でも、そのぶん桜がきれいに散っていた。
「散る桜か……」
ちょうど距離を置き始めた時期だ。
つい意図を読み取ろうとしてしまう。
その頃はきちんと考えようとしてなかったのに我ながら勝手なものだ。
『きれいだったから撮っただけよ』
理音が俺の内心を読んだかのようにそんなことを言った。
「そうかもな」
俺は曖昧な返事をすると、先を読み始める。
プロフィールのいちばん下に、小さなリンクがあった。
参加スペース一覧(概要のみ)
開くと、カードが五つ並ぶ。
比較文化演習A
就活共有 / 文学部
読書会:近代戯曲
生活メモ・共有なし
春のあと
最後の一つで、目が止まった。
『何?』
「“春のあと”」
『……個人スペースっぽいね』
説明を開くと、共有者が限定した小規模記録スペースとだけ出た。中には入れない。概要だけ。それでも、その名前だけで胸の奥がざらついた。
春のあと。春先に疎遠になった俺。春に送らなかった言葉。
読もうと思えば、いくらでも読めてしまう。
『――誠司』
「うん」
『今日は、ここまでにしよう』
意外だった。理音の方が先に止めるとは思わなかった。
「もう少し見たいんだけど」
『もう12時回ってるよ。昨日から気を張り詰めっぱなしで疲れてるでしょ。休まないと』
ヨツハが静かに口を開く。
『必要であれば、閲覧済みの範囲を簡易に整理して保存できます』
少し迷ったが、機能テストも兼ねて保存することにした。
「保存しといて」
『承知しました』
ヨツハとのやりとりを聞いていた理音が口を挟んだ。
『それすごいね。AIってそんな先回りするっけ?』
「しない気がしたけど……」
基本的にこちらからの指示がないと動かないのがAIだ。
しかしヨツハは妙に気が効く。
たまたま音声を拾って最適な提案をしているだけなのだろうけど、まるで意思があるかのように思えてくる。
見た目は小春に似ていない。しかしその佇まいと「気の利かせ方」はどこか小春に似ている気がした。
「気のせいだろ……」
俺はそう呟くと、アプリを落とした。
そうしてベッドに寝転がった。
目を瞑る。
疲れてるはずなのに、なかなか寝付けなかった。
翌朝、大学に着いても、世界は昨日までと同じ顔をしていた。正門の前を学生が行き交い、サークル勧誘の立て看板が風に揺れている。
空は妙に明るかった。
昨日、遺影の前に立ったことも、夜中に死んだはずの小春の記録を見たことも、その全部がこちらの頭の中だけに閉じ込められているみたいだった。
「顔、終わってるよ」
横から声がして、振り向く。
理音だった。いつもの地味な色のシャツに細身のパンツ。そんな簡素な服装なのに、ひときわ目を引く佇まい。
目元が少しだけ赤いように見える。
「お前もそうじゃないか?」
「わたしはちょっと終わってるくらいでないと不公平でしょ」
「それ、自分で言うかな」
「昨日、ちゃんと寝た?」
理音はまるで俺のツッコミなどなかったかのように話を続ける。
「ちゃんとじゃないけど、まあ少しは」
「1人でCLOVERは開いてない?」
「開いてない」
「ほんとに?」
「そこまで疑う?」
「だって暴走してそうだし」
その言い方が昨日の夜とほとんど同じで、少しだけ気が楽になった。
理音とともに講義室に入る。
数分後、俺たちのゼミの担当教授でもある真壁教授が、いつも通りの顔で講義室にやってきて革鞄を置いた。
「では、前回の続きからやります」
授業が始まる。
専門課程なので少人数の講義だ。
だから大学なのに突然当てられたりする。気が抜けない。
今日の講義は共同認知モデルと観測者依存の意味形成。そしてインターフェースと意思決定補助。
初めて聞く話ばかりだった。
「高科」
不意に名前を呼ばれて、背筋が跳ねる。
「……はい」
「今の箇所、要約して」
終わった、と思った。頭の中で言葉が散らばる。そのときだった。
「自我や判断は個体の内側だけのものと見がちですが、自然界には複数の個体が認識や意思決定を共有している事例がある、って話です」
横から理音が、淡々と補足した。真壁教授は理音の方を一度見て、それから俺へ視線を戻す。
「概ねそうだが、今聞いたのは高科だ」
「……すみません」
俺は頭を下げて席に座った。
厳しい教授である。
そこから教授の話は実際の自然界における意識共有の具体例に移った。
俺たち人間は隣にいる人間が何を考えているかなんでまるでわからない。
なのにそれをしているかもしれない生き物がいるという話は、頭では理解できるけど、まるで実感が伴わなかった。
・続き
・前回
