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男なら名君、女だから悪女——中国史唯一の女帝武則天

中国史上、皇帝となった女性は一人しかいません。

武則天。

唐の皇帝・高宗の皇后となり、夫の死後は息子たちを皇帝の座から退け、ついには自ら即位。国号を唐から周へ変え、中国史上唯一の女帝となった人物です。
そして彼女の名前には、いつも決まった言葉がついて回ります。

残虐。
冷酷。
淫乱。
権力欲の怪物。

自分の娘を殺して皇后に罪を着せた。
邪魔になった息子を殺した。
政敵を次々と処刑した。
密告を奨励し、酷吏を使って恐怖政治を敷いた。
老いてからは若い男たちを寵愛し、政治を乱した。

まさに悪女。
中国史を代表する悪女。
——ということらしいのですが、ニャルはそれらを見ると疑問が湧きます。

それ、皇帝ならよくあるやつでは?

武則天の経歴のおかしさ

武則天は唐の皇帝・高宗の皇后となったことは先ほどのべました。

容姿の整っていた彼女はまず、太宗の後宮に入ります。

えっ? 高宗の后って言った側から何を言ってるの? ですか?

大切なことなのでもう一度言います。
彼女はまず太宗の後宮に入りました。
太宗とはつまり李世民です。
中国史上名君トーナメントを開催したら優勝候補筆頭のあの李世民です。
李世民について語るとそれだけで終わってしまうので割愛しますが、リアルチート野郎とだけ覚えておいてください。

その後色々あって、武則天は太宗の息子・李治、のちの高宗に見初められます
後代の史書によれば、李治がまだ皇太子だったころ、太宗に仕える武則天を見て心を引かれたとされています。 
この時まだ太宗は生きています。

唐の皇帝には親や子の女を好きになる性癖があるようで、珍しいことではありません。

年齢は4歳差くらいで武則天の方が年上です。

そして太宗の死後、子の生まれなかった武則天はいったん尼寺へ送られました。
普通なら、ここで彼女の人生は終わります。
先帝の子を産まなかった後宮女性として寺で余生を送り、歴史に名前すら残らない。
それが通常の経路です。
しかし武則天は、太宗の息子である高宗の後宮へ戻りました。
そして皇后となります。

二聖——皇后から共同統治者へ


武則天が皇后となり、高宗が病んだのちは彼女も政務を裁決するようになりました。
新唐書には二人が「二聖」と呼ばれたことが記されています。
やがて彼女は自身の権力を強化していきます。
政敵を排除し、密告を利用し、酷吏と呼ばれる官僚たちに反対派を摘発させました。
唐の皇族や旧来の重臣を粛清し、自分の権力を脅かす者には容赦しませんでした。
現代の政治家として見れば、間違いなく独裁者と言えましょう。 

ですが、武則天が生きたのは七世紀の中国です。
権力闘争に負ければ、一族ごと処刑される時代です。
唐の名君として知られる太宗・李世民も、玄武門の変で兄弟を殺し、父を事実上退位へ追い込んで皇帝となりました。

ところが李世民は「非常な手段で天下を取ったが、即位後には優れた政治を行った名君」と評価されます。
なのに武則天は「家族を犠牲にして権力を奪った恐ろしい女」と評価されます。

皇帝という同じ立場で評価しているはずなのに、一方は統治能力を見てもらえる。
もう一方は、権力を手に入れるまでの家庭内トラブルを千年以上再放送される。
どうやら女性だけは、皇帝になる前に良い妻と良い母親でなければならないようです。 

皇帝は善人コンテストではない 

皇帝の仕事とは何でしょうか。

家族を大切にすること。
異性関係が清潔であること。

ではありません。
国を維持することです。
官僚機構を動かし、税を集め、経済を安定させ、反乱を抑え、外敵に備え、次の時代へ統治機構を引き渡すことです。 

武則天は高宗の皇后となり、高宗が病に倒れた六六〇年ごろから国政への関与を強め、六九〇年に自ら皇帝へ即位、七〇五年に退位するまで巨大な帝国の中枢に立ち続けました。 

陰謀だけで中国は統治できません。巨大な官僚機構と軍隊と地方行政を、数十年にわたって動かすことは、色仕掛けでは不可能です。武則天を「男を惑わせて権力を奪った女」として説明する歴史観は、帝国統治という仕事そのものを、あまりにも簡単に考えています。 

彼女が奪ったのは、腐った王朝ではない 

李世民の時代に、唐の王朝としての体制は完成を迎えます。
貞観の治です。
国政がもっとも安定した時代です。
一般的に帝位の簒奪は中央政府が弱体化し、乱世に突入した時に起こるものです。

しかしこの時代は李世民が築いた皇帝権力があり、李氏の皇族がおり、建国以来の功臣と名門貴族がいました。中国史上最高峰の皇帝が整えた、同時代屈指の強固な秩序がありました。

一方武則天の父は後宮に入る前に亡くなっており、彼女に実家の後ろ楯は一切ありません。
身一つで後宮に入り、皇后となり、外戚を倒し、重臣を倒し、息子を皇帝に据え、最後には自ら皇帝となったのです。

普通は途中のどこかで殺されます。
武則天は乱世の空白へ座ったのではなく、最も強固な秩序の内部から、その頂点まで登ったのです。 

国家を壊さず、頂点だけを入れ替える 

国を外から奪うだけなら、軍隊を集めて首都へ攻め込めばよいです。
地方軍が軍閥化し、中央へ攻め込むのは中華史のお約束です。

しかし国家を内側から奪うには、別種の能力が必要です。
皇族を抑える。官僚を従わせる。軍を掌握する。財政を止めない。地方行政を維持する。
そして何より、「天下を統治するのは李氏の男でなければならない」という常識を剥がさなければなりませんでした。 

反対派を全員殺すことはできません。
全員殺せば、国家を動かす人間がいなくなるからです。だから武則天は、敵を粛清すると同時に、使える人間を見つけ、引き上げ、仕事を任せました。
既存の門閥に属していなくても、能力を示せば国家の中枢へ進める。
そう信じさせることで、巨大な官僚組織は動かしたのです。

武則天の才能は、誰を殺し、誰を残し、誰を引き上げれば国家が動くのかを判断できたことです。
これは陰謀家の能力ではなく、政治家の能力です。 

武則天は科挙を作ってはいないが……

科挙を始めたのは武則天ではありません。
彼女の時代より前から存在していました。
しかし彼女は試験を通じた官僚登用を積極的に利用し、既存の名門貴族以外から人材を吸い上げました。
彼女の時代以降、唐の官僚登用において試験合格の意味が次第に大きくなっていったことは、墓誌を使った近年の社会移動研究でも確認されています。 

もちろん純粋な平等思想からだけではないでしょう。
しかし自身が下級貴族出身で、貧困に喘いでいたことを鑑みると、何かしら思うところはあったのかもしれません。

いずれにせよ、旧来の有力貴族は唐の皇室である李氏と結びついています。
唐を倒して周を建てようとする武則天にとって、彼らは潜在的な敵です。
だから既存の門閥とは別の場所から人材を集め、自分を中心とする新しい官僚層を作ったのです。

仮に動機が完全に自己保身であっても、制度として有益なら、それは統治上の功績です。
人間はなぜか、善意から始まった失敗を褒め、私欲から始まった成功を認めたがりません。
国家運営で重要なのは、為政者の心が美しかったかではなく、実際に何が残ったかです。 

武則天を皇帝にした男たち

 既存の門閥から見れば、武則天が引き上げた人材は成り上がり者です。
しかし引き上げられた本人から見れば話は違います。家柄が足りず、能力を示す機会すら与えられなかった人間にとって、武則天は自分の人生を国家へ接続してくれる皇帝です。
金や地位をくれる皇帝よりも、「お前には能力がある」と見つけてくれる皇帝のほうが、人間を強く縛ります。 

武則天は、一人で天下を奪ったのではありません。
彼女を支持し、彼女のために文書を書き、政策を作り、地方を統治した大量の男たちがいました。
旧秩序では上へ行けなかった男たちです。
言い換えれば、武則天を中国史唯一の女帝にしたのは、彼女に人生を引き上げられた無数の男たちだったのです。 

恐怖だけで数十年は支配できない 

恐怖政治には即効性があります。
しかし恐怖しかなければ、支配者が少し弱った瞬間に体制は崩れます。
無能な独裁者の周囲には、命令されたことしかできない人間、責任を取らない人間だけが残ります。 

武則天の末期には官僚たちによる政変が起こり、彼女は退位させられ、唐が復活しました。
これは彼女個人にとっては敗北です。
しかし彼女の高い政治能力からすると、妙な話でもあります。
情勢を判断し、女帝を退位させ、王朝を切り替え、それでも行政を維持できる人間を彼女は権力の座に残していたのです。

武則天への求心力は、彼女個人への盲目的な崇拝だけではなく、「自分の能力を国家へ届かせることができる」という政治参加への期待だったのでしょう。
だから彼女が倒れても、彼女が引き上げた人材と、拡張した登用経路は残った。

無能な独裁者は自分が死ぬと国家まで壊れます。
武則天は唐を一度滅ぼしましたが、唐を動かす能力までは滅ぼしませんでした。 

男の後宮は制度、女の後宮は淫乱 

武則天は晩年、張易之と張昌宗という若い兄弟を寵愛しました。この話は、彼女の淫蕩さを示す逸話として何度も語られます。 

男の皇帝が若い女性を何十人、何百人と集めても「後宮制度」と呼ばれます。
女帝が若い男性を二人寵愛すると「淫乱」と呼ばれます。
もちろん、寵愛した相手に政治的権力を与え国政を混乱させれば批判されるべきですが、それは寵臣政治の問題であって性欲の問題ではありません。
男性皇帝が愛妾や宦官の一族を重用した場合と同じ基準で評価すればよいだけです。 

悪女としての武則天は、後世に完成した 

武則天が生きていた時代にも彼女への激しい悪口はありました。
反乱側の檄文では邪悪な女として罵倒されています。
ですが檄文は人物評ではなく、敵を倒すための政治宣伝です。 

同時代の武則天は、李氏一族にとっては簒奪者、旧来の門閥にとっては恐怖の皇帝、仏教勢力にとっては大きな庇護者、新興官僚にとっては能力を認めてくれる君主でした。

現在のような「嫉妬に狂い、男を惑わせた怪物」という平板な悪女像は、後世の儒教的価値観や物語によって強調され、完成していった面があります。
彼女の決断力は野心として、彼女の粛清は女性特有の残忍さとして描かれ、統治能力だけが物語から抜け落ちたのです。 

李世民と武則天は、思ったより似ている 

どちらも肉親を排除した。
どちらも正統な継承者ではなかった。
どちらも人材を見る目を持っていた。
一方は果断な名君、もう一方は嫉妬深い悪女。
材料はそれほど変わりません。語り方が違うだけです。 

李世民は中国史上最高峰の皇帝です。
だからこそ、その直後の政治世界で武則天が頂点へ立ったことが恐ろしい。
弱い皇帝しかいない時代に偶然天下を取ったのではなく、最高峰の皇帝が築いた秩序を生き抜き、その秩序を自分のものへ作り替えた。
武則天の能力を考えるなら、悪女伝説より先に、この事実を見るべきでしょう。 

武則天は名君と言えるのか

武則天が高い能力を持っていたのは間違いありません。
しかし無条件の名君とは言えないでしょう。
酷吏政治によって多くの人間を犠牲にし、皇族と旧来の官僚を苛烈に粛清しました。
武周という王朝も彼女一代で終わっています。 

しかし暗君でもありません。
政治能力があり、人材を見る目があり、官僚登用の幅を広げ、巨大な帝国を長期間維持しました。
皇帝として採点すれば、残酷だが有能な統治者。
少なくとも、この評価になります。 

そして彼女が男性だったなら、おそらく歴史書にはこう書かれていたのではないでしょうか。

既成の門閥勢力を打倒し、能力本位で人材を登用し、反対派を容赦なく粛清し、李世民が築いた帝国を内部から掌握した、苛烈にして英明な皇帝。
材料は同じです。語り方を変えただけです。 

 悪女という言葉は、評価を停止させる 

悪女。
とても便利な言葉です。一度そう呼んでしまえば、その人物が何を考え、どんな制度を作り、誰を登用し、どのように国家を運営したのかを調べる必要がなくなります。 

ですが武則天は悪女だから皇帝になったのではありません。
知性があり、決断力があり、人間の欲望と権力構造を理解し、人材と制度を動かす能力があったから皇帝になれたのです。

女性でありながら皇帝になったのではありません。皇帝になれる能力を持った人間が、たまたま女性だったのです。 

男なら名君。女だから悪女。歴史が彼女に下した判決は、本当に公平だったのでしょうか。人間は公平なつもりで、自分たちの常識に都合のいい物語を作る生き物です。 

 李世民の後宮にいた下級妃が、李世民の息子の皇后となり、李世民の孫たちを皇帝の座から退け、最後には李世民が築いた唐という王朝そのものを一度消した。
そして唐を一度消したにも関わらず、諡号が贈られている。

創作なら、さすがに主人公の経歴を盛りすぎだと止められるでしょう。
元祖悪役令嬢とでもいうべき存在。
それが則天大聖皇帝、武照なのです。


補遺:

ちなみに退位直後、中宗は武則天へ「則天大聖皇帝」の号を奉りました。

死後は皇后号へ戻されましたが、その称号は天后、大聖天后、天后聖帝、聖后、則天皇后と、政権が代わるたびに何度も書き換えられています。
そして玄宗期、最終的に「則天順聖皇后」と追号されました。

諡をあとから変えても「天」も「聖」も入る。
ここに歴史の余白があるのではないでしょうか。

さてこの玄宗。開元の治をもたらした名君であり、楊貴妃とのラブロマンスでも有名な人物ですが、ニャルはその評価にいささか疑問があります。
それについてはまた次の機会に。


 


 


 


 

 

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