人間はイワシの名前がわからない——個性は外部から識別可能になって初めて個性となる理由
イワシのおいしい季節になってきました。
わたしたちから見るとどれも皆同じイワシですが、生き物である以上個性が存在します。
一匹一匹のイワシたちそれぞれが世界に一つだけの花。
オンリーワンの存在なのです。
イワシたちはよく見ると顔も違う。
泳ぎ方も違う。
気性も違う。
餌への反応も違う。
群れの中での位置取りも違う。
もしかしたら、イワシ同士には「あいつ最近ちょっと尖ってるよね」みたいな認識すらあるのかもしれません。
ですが、その素晴らしい個性は人間にはわかりません。
人間が海の中のイワシを見たとき、人はそこに何をみるのでしょうか。
イワシの群れです。
銀色にきらめく大量の魚。
一斉に向きを変える影。
水の中でひとつの生き物のように動く集団。
もちろん、一匹ずつは違う。
でも、人間の認識上では、まとめて「イワシ」です。
これはかなり残酷な話です。
なぜなら、発信者も同じだからです。
群れの中にいる限り、個体差は見えない
noteにはたくさんの人がいます。
ライター。
コンサル。
副業家。
経営者。
AI活用者。
文章術の人。
自己理解の人。
創作を応援する人。
本人たちは、それぞれ違うつもりです。
自分には自分の人生がある。
自分には自分の経験がある。
自分には自分の言葉がある。
自分には自分の思いがある。
それはたぶん、本当です。
でも、外から見るとどうでしょうか。
「素敵です!」
「勉強になります!」
「読みに行きます!」
「応援しています!」
「一緒に頑張りましょう!」
こういう言葉が並んだとき、読者には一人一人の違いが見えるでしょうか。
かなり難しいと思います。
本人にとっては、それぞれ本心かもしれません。
でも外部から見ると、似た言葉、似た温度、似たアイコン、似た肩書、似たコメントが、同じ方向へ泳いでいるように見える。
つまり、イワシの群れです。
ここで大事なのは、イワシに個性がないと言っているのではありません。
個性はある。
ただし、人間には見えない。
これが問題なのです。
「私は私です」では足りない
多くの人は、個性を内側のものだと思っています。
私はこういう人間です。
私はこういう経験をしました。
私はこういう思いで書いています。
私はこういう価値観を持っています。
もちろん、それは大切です。
でも、それだけでは読者には届きません。
なぜなら読者は、あなたの内面を最初から丁寧に読んでくれるわけではないからです。
読者は忙しい。
タイムラインはすぐに流れる。
通知も来る。
動画もある。
仕事もある。
眠い。
お腹も減る。
そんな中で、読者はあなたの内面を最初から深く見てくれません。
まず外側を見ます。
そこで「また同じ感じの人か」と処理されたら、もう終わりです。
どれだけ内側に個性があっても、それが外部から識別できる形になっていなければ、読者には存在しないのと同じです。
個性とは、外部から識別可能になって初めて個性である
ここで、ひとつ定義してみます。
個性とは、内側にある違いではありません。
外部から識別可能になった違いです。
自分では違うと思っている。
自分では特別だと思っている。
自分では唯一だと思っている。
それだけでは、まだ個性ではありません。
少なくとも発信の世界では、外から見て識別できなければ、個性として機能しません。
読者が、
「あの人だ」
「あの言葉を使う人だ」
「あの文体の人だ」
「あの視点の人だ」
と思えるようになって、初めて個性になります。
つまり、個性とは「内面の真実」ではなく、「観測可能な差異」です。
ここを間違えると、発信はかなり苦しくなります。
イワシの群れで「私は違う」と叫んでも届かない
イワシの群れの中で、一匹のイワシが叫んだとします。
「私は他のイワシとは違います!」
たぶん、人間には聞こえません。
いや、仮に聞こえたとしても、どのイワシが言ったのかわかりません。
これが発信でも起きます。
「私は自分らしく書いています」
「私は本気で発信しています」
「私は読者のために書いています」
「私は他の人とは違う視点を持っています」
そう書いても、見え方が他の人と同じなら、読者には同じに見えます。
個性は、宣言ではありません。
言葉選びです。
切り口です。
反応の仕方です。
タイトルです。
見出しです。
文体です。
比喩です。
読後に残る引っかかりです。
つまり、個性は「私は違う」と言うことではなく、読者が「違う」と認識してしまう状態を作ることです。
外部から識別される個性を作る
では、イワシにならないためにはどうすればいいのでしょうか。
必要なのは、識別可能な異物性です。
群れの認識から外れる存在になることです。
個性を外部から識別可能にするには、いくつか方法があります。
まず、言葉を持つこと。
たとえば、よくある不快感に名前をつけるです。
「似たアカウントばかりで覚えられない」ではなく、「タケノコアカウント」と呼ぶ。
「みんな同じに見える」ではなく、「人間にはイワシの個体性がわからない」と呼ぶ。
名前がつくと、読者の頭の片隅に残ります。
次に、比喩を持つこと。
比喩は、ただ面白い飾りではありません。
認識の取っ手です。
読者が「ああ、それか」と掴める。
掴めるから覚える。
覚えるから、次に似た現象を見たときに思い出す。
その瞬間、あなたの言葉は読者の認知に入り込みます。
最後に、反応の仕方を持つこと。
同じ出来事を見ても、何に反応するかで個性は出ます。
多くの人が「素敵ですね」と言う場所で、構造を見る。
多くの人が「感動しました」と言う場所で、回収の仕組みを見る。
多くの人が「AIすごい」と言う場所で、人間の意味体系の揺らぎを見る。
何を見るか。
何に引っかかるか。
どこまで潜るか。
それが積み重なると、読者は「あの人ならこう見るのでは?」と認識し始めます。
そこまで来ると、個性はかなり強くなります。
まとめ:イワシから抜けるには、見える形を変えるしかない
イワシにも個体性はあります。
でも、人間にはわかりません。
同じように、発信者にもそれぞれ個性はあります。
人生もある。思いもある。努力もある。違いもある。
しかし、それが外部から識別可能な形になっていなければ、読者には群れに見えます。
これはかなり残酷です。
でも、発信とはそういう場所です。
個性は、内側にあるだけでは足りません。
外部から識別可能になって初めて、個性として機能します。
だから、イワシの群れの中で「私は違う」と叫ぶだけでは足りないです。
群れの中で泳ぎ続けるなら、群れとして扱われる覚悟がいる。
群れとして扱われたくないなら、外から見える形を変えるしかない。
イワシに罪はありません。
ただ、人間にはイワシの個体性がわからない。
だから、覚えられたいなら、まずイワシとして処理されることをやめなければならないのです。
