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#10 認識汚染領域〜シンクロスフィア〜

第4章 教授の式(後編)

その日の講義が全部終わったあと、俺は一人で図書館へ向かった。理音はバイトがあるとのことだった。
塾講師で、本人曰く、下手な正規講師より人気があるらしい。
自慢げに語っていたが、おそらく本当だろう。
あいつは教え方がうまい。
俺が理音と同じ大学にいるのは、3割くらいあいつのおかげである。
……半分かも。
元々理音はルックスもあいまって中学の頃から人気がある。
特に後輩女子から。
男子からはそれほどでもないのは、あまり愛想が良くないせいだろう。
九条恒一との面談時に見せたあの感じは業務用である。
基本男には塩対応。
俺は数少ない例外というわけだ。
あいつが好きになるのは一体どんな男なんだろうか。
その時が来たらぜひ見てみたいものだ。

図書館に入ると、蔵書検索用の端末の前に立つ。
まず真壁教授の名前を入れる。
本はいくつか出てきた。
共同認知、社会的自我、意思決定補助等々。
講義で出た単語と近いものばかりだった。
書架から集めて、机に並べる。
目次を追い、索引を引き、必要そうなところだけ拾っていく。
教授の本から改めて知る共同認知モデルは、思っていたより穏当だった。
人は一人で考えているように見えて、実際には周囲の言葉、環境、道具、集団の前提に支えられて判断している。だから認識は個人だけのものではなく、接続の中で成立する。
そこまではわかる。そして共同認知モデルはそこまでの範囲を精密に理論化したもののようだった。

でも、CLOVERで起きていることは、その先へ行っている。
支えるだけじゃない。先に整える。負荷を減らす。言い方を提示する。迷いを滑らかにする。
小春がCLOVERに書いてた言葉を思いだす。

前よりちゃんとしていて、前よりやさしくて、前より小春らしいのに、前よりわたしじゃない。

「……同じじゃないな、これ」

教授の本は、人間が環境の影響によってどう変わるを説明しているだけ。
九条恒一のCLOVERの設計思想は、よくいうと思考の補助によってコミュニケーションを円滑にして、齟齬を減らす。
参考にはしているだろうが、実装という点で一段進んでいる。
教授の理論が公開情報である以上、教授が知らないうちに使われていることはあり得る話だ。
やはり教授がCLOVERと直接関係がないというのは本当の可能性が高い。
しかし、だとするとこの先どうすればいいのか……。

手詰まりを感じて調査を打ち切り、図書館を出たところで、陽芽と鉢合わせた。
片手には、妙に折れたチラシが一枚ある。

「あ、先輩。ちょうどいいところに」
「陽芽か」
「はいこれ、ゴミです」
「俺はゴミ箱じゃない」

俺は自分で捨てろと脇にあるゴミ箱に視線を送る。

「知ってますよ。先輩はゴミ箱というより、萌えにくい不燃ごみです」
「字面が最悪すぎる」

文句を言いかけたところで、チラシの見出しが目に入った。

――AI対話支援と共同認知モデル。
――登壇:九条道隆。
――協力:Locus Works。

俺は、息を止めた。

「……それ、どこで」
「学生課の前で配ってましたよ。これが最後の一枚だから、もらってくれたら終われるって言われまして」
「なんで捨てようとしてんだよ」
「興味ないですし。講演会とか、意識高い人が行くやつじゃないですか」

俺はチラシへ手を伸ばした。

「じゃあ、それくれ」
「え? これ要るんですか? こういうの興味あったんです?」
「今の俺には必要なんだ」
「ほほう。就活の絡みとかですかな」

陽芽は、すっとチラシを胸元へ引っ込めた。

「先輩、一昔前と違って、今のご時世情報にはお金がかかるんですよ」
「――わかった。今度おごってやるから」

俺がチラシをひったくろうとすると、陽芽はすっと一歩下がった。

「今度って言う人は、だいたい忘れるんです」
「忘れないって」
「本当ですか? 小学生の頃から借りた消しゴム返してなさそうな顔してますけど」
「どんな顔だよ」

――鋭い。昔、それで理音に一度切れられたことがある。
陽芽はにこっと笑った。

「ちなみに、わたし今日の夜空いてるんですよねー」
「……は?」
「先輩は?」

逃げ道を探すより先に、陽芽の指がチラシの端をひらひら揺らした。

「焼肉でいいですよ。この前のことと合わせたらお買い得でしょ」
「まだ暴利だよ!」
「これが最後の一枚なんです」
「……足元見やがって」
「足元しか見るところないじゃないですか。先輩、顔面死んでますし」
「それ違う意味にとれるだろ……」

俺は、深いため息をついた。

「……わかった。行くよ」
「はい、契約成立です」
「チェーン店しかだめだからな」

俺はカバンから財布を取り出すと、中身を見てがっくりと肩を落とした。
1枚数千円のチラシ。
必要経費と割り切るしかないか……。

じゅーじゅーと音を立てて焼ける肉の匂いが鼻腔をくすぐる。
陽芽は牛タンをご飯にのせておいしそうに食べていた。
焼肉といっても年頃の女子だからそこまで激しい出費にならないのでは、という俺の予測は甘かったと言わざるをえない。
しかしこの店の肉よりグラム単価の高い最高級チラシには、俺の知らない情報が掲載されていた。
講演の登壇者は九条道隆。
協賛はLocus Works。代表は道隆の息子である九条恒一。
キョウが言っていた通り、親子は別の分野にいるが、協力して活動していることは確かなようだ。
そしてもう一つ。共同認知モデルの名前。
あれから焼肉代の追加要求として、もう一度図書館で陽芽と再度文献を調べ直した。
しかし、真壁教授の論文や文章に道隆の名前は出てこなかった。
その過程で九条道隆の研究分野についてもわかったが、心理学方向からの認知や自我の発達についての研究が主で、本人の書いたものに共同認知モデルというワードは出てこなかった。
隣接分野である以上、もちろん知っていてもおかしくないのだが、なぜ登壇で自分の理論でなく教授の理論をもとにした話を行うのか。
教授はそれを知っているのか。
そのあたりが判然としない。

「ほれにしてもせんぴゃいってひよんなにふぇんきゅーとかにきょうみふぁったんえすね」
「食ってからしゃべれよ」

陽芽がもぐもぐと最後の牛タンを飲み込む。
くそ、俺1枚しか食べてないぞ。

「ええと、つまり先輩が学術的テーマに興味があるとは思いませんでした。ガクチカのネタ作りですか?」
「……まあそんなところかな」

あまり詳しく話せる話題でもない。適当な相槌を打つ。

「先輩、特に何もしてなさそうだから、面接とか苦労しそうですよね。エントリーシートとか1行くらいしか書けなさそう」
「うるさいな。俺だって色々経験してるよ」
「例えば?」
「シンガポールに行ったことある」

旅行の手配は小春が全部してくれて、俺は自分の分の金だけ出してついていっただけだけど。

「他には?」

キョウと一緒にオンゲでシーズン1位になったことあるけど、これいうと馬鹿にされそうだな……。

「……まあ色々と?」
「ほら、やっぱり何もないじゃないですかー」
「そうじゃない。お前のようなお子様には高度すぎて説明しがたいだけだ」
「おととしにもう成人してるんですけど」
「――そういえばお前酒飲んでいいの?」

焼き肉といえばビールですよねと、頼んだジョッキが陽芽のテーブルの端においてある。
俺は梅酒のロック。ビールは苦いから苦手だった。

「わたし誕生日4月なんで。もう二十歳でーす」
「二十歳とは思えねー」
「JKでもいけるってことです?」
「厚かましすぎる。心がおじさんってこと!」
「はぁ? 先輩はこんな若い女子と無料でご飯食べられるありがたみをもう少し理解すべきです」
「これ有料だけど!?」
「その年でパパ活なんてヤバいですね。はっ? わたしそういえば港区女子でした!」
「お台場のない港区は港区に入らねーよ。水族館しかないだろ」
「でも水族館にはシャチが――小さい頃はいたんですよ……」

陽芽が少し遠い目をしてつぶやく。

「過去形なのが切ないな……」
「代わりにペンギンはたくさんいますから」
「そういえばいたな。たくさん」

その水族館には都合3回くらいは行っている。
最初は家族。次は理音と小春と3人で。
直近は小春と二人で。
陽芽としょうもない話をしながら、俺は来てよかったなと思っていた。
久しぶりに素に戻れた気がする。
小春のことがあってからは、普通に話すことにどこか罪悪感があった。
理音とも、事件の前はもう少し軽口を叩き合っていたけど、最近はできていなかった。

「ところで先輩」

陽芽が2杯目のジョッキを空にしたところで、にやりと唇の端を吊り上げた。

「先輩と理音さんって本当のところどうなんです?」
「またそれか。だからなんでもないって」
「いやいやいや。ほら、理音さんってあの感じだから目立つじゃないですか。なのにわりとしょっちゅう変なのと一緒にいるから、わたしたちの間でもたまに話題にあがるんですよね」
「変なのって誰?」

俺と行動するか、女友達といるか、一人かだろ?
そう思っていると陽芽が黙って俺を指さした。

「――俺かよ」
「他に誰がいると……」
「知りたくなかったそんなん」
「ま、まあほら、先輩も悪くはないですが……。さすがに理音さんとはどっからどう見ても釣り合ってないですし」
「知らねーよそんなの!」
「あの理音さんの距離感みてると、ありえないけどまさかって。常識的に考えたらありえないけど」
「ひどい言われようだ」

言われようが少し癪に障ったのもあり、俺は陽芽に言った。

「俺と理音は小学校からの付き合いなんだよ。高学年くらいからの。付き合い長いから仲いいのは間違いないけど。そもそも俺彼女いるから」
「――あはは、またまた御冗談を」

俺はだまって陽芽の顔を見つめた。
陽芽の顔からにやにや笑いが消えていく。
本当のことだと感じとったらしい。

「え、ええ!? まじですか! いやだってそれじゃああの時のアレは……」

陽芽が何やらぶつぶつ言い始める。
アルコールが入っていたからだろう。
陽芽の軽口に乗せられて、少しだけ普段の自分に戻っていたせいもある。
俺は後から考えると明らかに軽い判断をしてしまった。

「ほら証拠。これ写真」

俺はスマホに入っていた小春の写真を陽芽に見せる。
陽芽は写真をみて顔をひきつらせた。

「う、嘘だ! 先輩、こんなかわいらしい人がほんとに先輩の彼女なんですか!? 隠し撮りとかじゃなくて」
「ほんとだよ! どうやったらこんな正面から隠し撮りできるんだ!」
「ああー、ええー」

陽芽は腕を組んでうんうんうなった後、俺の顔を見て言った。

「彼女ってことは、今も続いてるってことですよね?」

そこで俺は自分のやらかしに気づいた。
小春の写真なんて、このタイミングで人に見せてはいけなかった。
なぜこんな軽率なことを……。

「いや、そのなんというか……」

陽芽が言い淀む俺の様子をみて首を傾げる。

「見栄張って言った、とかじゃないですよね。何かあったんです?」

俺は腹をくくった。ごまかしきれないと思っただけではない。
多分俺は本当は誰かに聞いてほしかったのだ。
理音には話せないことがある。
小春のことを知っている理音に話すと、どうしても俺たちは三人の過去の中に戻ってしまう。
でも陽芽は違う。小春を知らない。
だからこそ、初めてただの出来事として聞いてもらえる気がした。
聞かされる方はたまったもんじゃないだろうけど、踏み込んできた陽芽にも責任がある。
俺は小春にまつわる一連の事件のことについて陽芽に話した。
話が進むに連れて、陽芽の表情が真剣なものに変わっていく。

「じゃああの時のSNSは……」
「そう。俺と理音以外の誰かの感想を聞きたかった」
「めっちゃ重い奴じゃないですか。チェーン店じゃなくてもう1ランク上でもいいくらいですよ」
「――いわれてみればそうかもな」

確かに普通に使われているアプリとはいえ、関係ない人間に触らせるには重すぎたかもしれない。

「すまん、その通りだ」
「いえ――わたしこそ軽く冷やかしすぎました。ごめんなさいです」

陽芽がぺこりと頭を下げる。
それから二人ともしばらく黙り込んだ。
気まずくなった俺がグラスの残りの酒を煽ると、陽芽もジョッキのビールを一気に飲み干す。
グラスを置くと、神妙な顔で俺を見つめた。

「わたしは先輩と理音さんのこと、昔から知っているわけじゃないですけど――」

「先輩の見ているものと理音さんの見ているものは、ズレているかもしれませんよ。気をつけてくださいね」
「わかった。気を付けるよ」

見ているものがズレている。
陽芽が真剣な顔で言うから受け止めたものの、その真意が正直俺にはよくわからなかった。

店を出ると陽芽とともに駅へ向かう。
寒くなった俺の懐とは対照的に、6月の夜はかなり暖かかった。

「――誠司?」

突然耳に届いた声に足を止めて振り向くと、そこには理音がいた。
アルバイトからの帰りだろう。
理音の顔にはどこか影が差しているように見えた。
――バイトで疲れてたのかな。

「理音さん!?」

陽芽が上ずった声を上げる。
どこか焦りを感じさせる声だった。
いつもなら理音と会うと喜んでいるのにどうしたんだ、一体。
ああ、理音に焼肉臭いの知られたくないんだな、きっと。

「あー、えーとですね。色々あってちょっとだけ先輩お借りしてました。それじゃあここでお返ししますね。それでは!」

陽芽はそう言うと、逃げるように地下鉄の入口に向かっていく。

「陽芽、またなー」

足早に歩き去る陽芽の背に声をかける。

「……いいの?」

理音が小声でつぶやく。

「いいだろ。地下鉄で帰れるし大丈夫だろ」
「いいならいいけど……」

理音はどことなく元気ない。
あんな事件があったのに大学行ってアルバイトまでしているんだ。
疲れがたまって当然かもしれない。

「帰ろうぜ。送ってくよ」
「――ありがと」

二人で電車に乗る。
週末だからか時間のわりに混んでいるのもあって、特に会話することなくスマホを眺める。
CLOVERのアイコンが目に入った。
今日はまだ、一度も開いていない。

――共同認知モデル、か。
ヨツハは小春の応答パターンをフィードバックして自分の出力に反映させている気配がある。
それは俺にとって腹立たしい行為だ。

しかし、言ってしまえばそれだけである。
それが小春の、そして他の人たちの死につながるとは考えにくい。
――本当は何も関係ないのか。
俺が自分に責任はないと、ありもしない因果を見つけて現実逃避しようとしているだけなんじゃないだろうか。
スマホから顔を上げて理音の方を見る。
理音は真剣な顔でスマホを操作していた。
画面をスクロールする指が、いつもの理音にしては少し速い。
何度か同じところを行き来して、短く息を吐く。
あいつがあんな真剣にスマホを触るのも珍しい。
誰かに連絡でもしているんだろうか。それこそ好きな相手とか。
そう考えたとき、少しだけ胸が痛んだ。
勝手なものだ。理音が誰を好きになろうと自由なのに。

――見ているものがズレている。

これだけ昔からの付き合いで、しかもこうして近くにいるのに、俺は理音が今何を見ているのかわからない。
遠くにいた小春のことは、なおさらわかっていなかったのだろう。
俺は大きく息を吐くと、軽く目を瞑った。


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