武甕槌を追う──記紀が沈黙した90年
はじめに
国譲り神話で活躍する武甕槌神。「常陸国 鹿島の神」として広く知られ、今日では鹿島神宮の主祭神として疑いようのない存在感を持つ。
しかし、ふと問いが浮かぶ。この神が「鹿島神宮の祭神」として文献に明記されるのは、いつのことか。
答えは、多くの人の予想より遅い。
現存文献において「武甕槌神=鹿島神」と明示的に確認できる最古の記述は、『古語拾遺』(807年成立)における「武甕槌神云々、今常陸国鹿島神是也」である。
古事記は712年、日本書紀は720年の成立である。武甕槌はいずれにも登場するが、「鹿島の神である」とは書かれていない。記紀成立から約90年後、ようやく一本の文献がその対応関係を明記する。
この空白は何を意味するのか。本稿では三つの事実から、この問いに迫りたい。
文献事実の確認
まず論拠となる文献事実を整理しておく。
古事記・日本書紀への武甕槌の登場
古事記の国譲り神話において、武甕槌は高天原から遣わされた神として出雲に赴き、大国主命との交渉を行う。これは712年成立の一次資料として確認できる事実である。日本書紀(720年)にも同様の場面が描かれる。
ただし、どちらの文献も「武甕槌=常陸国鹿島の神」とは明記していない。
常陸国風土記721年の記述
ところが、鹿島の地で編まれた地誌『常陸国風土記』(721年成立)にも、武甕槌の名は現れない。同書には次のようにある。
其処に有る天の大神社・坂戸社・沼尾社、三処を合せて、惣べて香島之天之大神と称す
鹿島の神は「香島之天之大神」という抽象的な表記にとどまる。記紀が「鹿島」を書かなかっただけでなく、鹿島の地元の地誌もまた「武甕槌」とは書かなかった。
古語拾遺807年の記録
807年成立の『古語拾遺』に「武甕槌神云々、今常陸国鹿島神是也」とある。これが「武甕槌=鹿島神宮の祭神」と明記する文献の初出である。
記紀・風土記から807年まで、約90年の空白がある。もしこの対応関係が記紀成立時点ですでに確定していたなら、地方神名の比定を積極的に行う日本書紀が沈黙している理由を説明しにくい。
この空白を埋める手がかりが、鹿島市の隣の潮来市にある。
大生神社
鹿島神宮の北西、北浦を挟んだ位置に大生神社が鎮座する。「鹿島の本宮」「元鹿島の宮」と呼ばれ、古くから鹿島神宮との深い関係が指摘されてきた社である。
多氏との関係
大生神社の祭祀氏族は、飯富族、すなわち多氏とされる。社伝によれば、大和に居住していた多氏が常陸へ移住した際、氏神として奉遷したのが同社の起源とされる。境内周辺に広がる大生古墳群(古墳時代中期・5世紀、110余基)は多氏一族の墳墓とされており、多氏の常陸における根拠地であったことを示している。
また「勧請元」とされる南都大生邑大明神が、多氏の総氏神である多神社(奈良県磯城郡田原本町)とされている点も注目される。つまり大生神社は、大和の多氏の氏神が常陸へと移された社という位置づけを持つ。
遷座の記録
大生神社には以下のような遷座の記録が残されている(中世〜近世の社伝・棟札類による伝承であり、同時代史料ではない点に注意が必要である)。
多神社(大和・多氏の総氏神)
↓
大生神社(常陸・多氏の氏神)
↓ 767年(神護景雲元年)
春日大社へ遷幸
↓ 806年(大同元年)
大生へ遷還
↓ 807年(大同二年)
鹿島へ遷幸
複数の異なる伝承(明治7年棟札・羽入氏書留由緒・ものいみ書留・鹿嶋大明神御斎宮神系代々)がそれぞれ細部で異なりつつも、「大生→春日→大生→鹿島」という大筋を共有している。社伝は同時代史料ではないため、そのまま歴史事実とは断定できないが、少なくとも後世の神社側が「鹿島との関係」をこの年代に結びつけて理解していたことは示している。
ここで注目すべきは、「807年に鹿島へ遷幸」という年代が、古語拾遺における「武甕槌=鹿島神」という記述の成立年と一致することである。
社伝の伝承と文献初出が同じ年を指している。因果関係を断定することはできないが、この一致は無視できない。
春日大社成立の再検討
春日大社の成立については、二説が並存している。
710年説と768年説
一説によれば、平城京遷都の和銅3年(710年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を御蓋山に遷して祀り、春日神と称したのが始まりとされる。社伝では、神護景雲2年(768年)に藤原永手が称徳天皇の勅命により四殿を造営したことをもって創祀としている。
春日大社以前の御蓋山
春日大社の本殿廻廊西南隅には摂社・榎本神社がある。この神は「当地の地主神」「当地に基盤のあった春日氏の氏神」とされ、江戸時代以前は「巨勢姫明神あるいは巨勢祝」という神が祀られていたとされる。
不比等あるいは藤原永手が武甕槌を遷座する以前から、御蓋山には別の祭祀が存在した。
多氏・春日氏と「仲臣」
大和岩雄『神社と古代王権祭祀』(白水社)によれば、多氏と春日氏はともに「仲臣」であった。「仲」は「神と人の間」、「臣」は「大忌」すなわち神の意思を大王に伝える審神者の意であるという。そして藤原氏の前身である中臣氏が「神事の細部に与る小忌」であったのに対し、多氏・春日氏は「神と大王の間を取り持つ仲臣」として鹿島神宮・春日神社の祭祀を担っていたとされる。
さらに大和説では、春日大社創建を契機として鹿島神宮の祭祀権が多氏系氏族(那賀国造)から中臣氏へ移動したと論じている。
この論点を傍証するのが、続日本紀の次の記事である。
天平18年(746年)3月24日、常陸国鹿嶋郡の中臣部20戸と占部5戸の者たちに「中臣鹿嶋連」の氏姓を賜った。
746年の時点で鹿島の祭祀に関わっていた集団は「中臣部」という部民レベルであり、この年にはじめて正式な氏姓を与えられた。それ以前の鹿島における主体的祭祀氏族が中臣氏ではなかった可能性が高いことを示唆している。
構造的解釈
以上の事実を並べると、次のような構造が浮かび上がる。
多氏の氏神(大和・多神社)
↓ 多氏の常陸移住
大生神社(常陸・多氏の氏神)
↓ 藤原氏による春日大社創建
春日大社(710年 or 768年)
↓ 鹿島の祭祀権が中臣氏へ移動
鹿島神宮(807年に「武甕槌=鹿島の神」として確立)
「鹿島の神=武甕槌」という構造は、最初から定義されたものではなかった可能性がある。それは藤原氏による春日大社創建という宗教的・政治的プロセスを経て、段階的に形成されたものだったかもしれない。
民話が伝える記憶
こうした祭祀権の移動は、後世の民衆の記憶にも痕跡を残している。
茨城県笠間市大渕に、式内社の論社とされる大井神社がある。祭神は神八井耳命—多氏の祖神である。この神社には、かつて鳥居がなかった。その理由として、『笠間市の昔ばなし』に次のような伝承が採録されている。
大むかし、常陸で第一の宮の鹿島神社には鳥居がなかった。そこで鹿島の神様は、大渕にある大井神社の大きな鳥居を貸してほしいと申し出た。そこで大井の神様は、しぶしぶ貸すことにした。何年たっても返してくれなかった。……とうとう今日まで、そのままになってしまった。
「しぶしぶ」という言葉と「返ってこなかった」という結末は、神話的語り口の中に明確な非対称性を刻んでいる。民話は歴史事実を直接伝えるものではないが、地域社会がどのように過去を理解してきたかを示す資料として読むことができる。多氏の祖神を祀る神社から「鳥居」——祭祀の象徴——が鹿島へ移り、戻らなかったという構造は、本稿が論じてきた祭祀権の移動と重なる。
この見方に従えば、古事記・日本書紀における武甕槌の国譲り神話での活躍も、別の文脈で読める。記紀の編纂が不比等の時代と重なることはよく指摘されるが、「多氏の神を借用して藤原氏の軍神として再編集した」という読みは多くの歴史家が唱えるところだが、この可能性は論理的には排除できない。
少なくとも、「武甕槌=鹿島神宮の祭神」という対応関係が文献に初めて明記されるのは、記紀成立から約90年後の807年のことであるから、その沈黙の約90年の間に、鹿島の神は「香島之天之大神」から「武甕槌」へと名を得た。何かが起きたのである。
結びに
本稿で検討した三点をまとめる。
第一に、「武甕槌=鹿島神宮の祭神」の文献初出は807年(古語拾遺)であり、記紀には明記がない。
第二に、大生神社の社伝によれば、鹿島への遷幸は807年のことであり、文献初出と年代が一致する。この社は多氏の氏神を起点とする祭祀の場であった。
第三に、746年の続日本紀記事は、それ以前の鹿島における主体的祭祀氏族が中臣氏ではなかったことを示唆している。大和岩雄説では那賀国造(多氏系)がその担い手だったとされる。
最後に、一つの問いを置く。
古事記の崇神天皇段において、天皇に「そなたは誰の子だ」と聞かれた太田田根子はこう答える
私は、大物主が、陶津耳命の娘である活玉依毘売を妻としてお生みになった子の、名は櫛御方命という方の子の、飯肩巣見命の子の建甕槌命の子が、この私、意富多々泥古です
「建甕槌命」という神名が現れる。
大和国三輪山の大田田根子の系譜に現れる建甕槌命と、出雲の国譲りで活躍する武甕槌命——場所も時系列も全く異なる文脈に、なぜほぼ同名の神が現れるのか。この問いは別稿で検討したい。
(了)
参考文献・史料
『古事記』(岩波文庫、倉野憲司校注)
『日本書紀』(岩波文庫、坂本太郎他校注)
『古語拾遺』(岩波文庫、西宮一民校注)
『風土記』(角川ソフィア文庫、中村啓信監修)
『続日本紀』(講談社学術文庫、宇治谷孟)
大和岩雄『神社と古代王権祭祀』白水社
宝賀寿男『中臣氏 卜占を担った古代占部の後裔』青垣出版
宝賀寿男『三輪氏 大物主神の祭祀者』青垣出版
大生神社棟札(明治7年)・羽入氏書留由緒・ものいみ書留(いずれも中世〜近世の社伝文書)
『笠間市の昔ばなし』(大渕・大井神社の鳥居伝承)
