忘れたり失くしたり
「あーこのときオレ、アイス落として泣くんだよね」
そう言って我が子が見ているのは、彼が二歳のときの動画である。
その姿を見て思うのだが、自分が二歳のころの記憶などそんなにあるものだろうか。私はない。
私がもはや三十過ぎだからというのは大前提として、子どもだから二歳のころも覚えているのは当然、というのは違う気がする。
おそらく彼が二歳の頃のほんのささいな日常を覚えているのは、動画があるおかげだ。
写真も私自身の幼少期とは比べ物にならないほどある。
そういう目に見える『証拠』のおかげで、彼の記憶には二歳の日々が残っている。
これは、いいことだろうか?
私はこの年になって思う。
人間は「忘れたり失くしたりして」生きていくものなんじゃないかと。
私は、いわゆる毒親育ちというやつだ。
毒親の定義をはっきりと認識しているわけじゃないが、私にとっては毒でしかなかったからそうだと思う。
私は、母の言う通りにしか、生きてはいけなかった。
母は流されやすくのめりこみやすい人だった。
テレビでどこかの教育ママの子育て法を見れば鵜呑みにして私に実践するし、知り合いの誰それが言っていたいいかんじのことも、すぐに取り入れる。そしてそれらは日々変化した。
私は小さいころ絵を描くのが好きだったが、母はそうではなかった。
それでも「子のやりたいことを伸ばす」という方針にのめりこんでいるときは好きにさせてくれた。が、機嫌が悪ければ一瞬でスイッチが切り替わる。
「目が悪くなるからやめなさい」
と紙と鉛筆を取り上げられたことがある。その日の母は帰るなり大きなため息をついてドサッと鞄を放ったから、嫌な予感はしたのだ。
勉強しているときはそんなこと言わないのに、なぜだろう。
と言えるわけなかった。そういうとき、私は絵を描くのをしばらくやめた。
やがてほとぼりが冷めるのを見計らって絵を描きはじめる。母に「子のやりたいことを伸ばす」という仮面が戻っているのを確認しながら。
母と過ごすということは、一事が万事そういう調子だった。
前に言っていたことと違う。
どうして急に、そんなことを言い出すの?
そういう連続だった。
しかし、変化する言動に一貫性がないことは、おそらく他人から見たら気づかない範囲だったと思う。もしかしたら父や、弟ですら気づかなかったのかもしれない。
母と、娘だから。
そんな透明な縄でがんじがらめになる。
私はぼんやりした子供で、いま思うとなにか発達障害の一部だったのではないかと思うのだが、とにかく毎日忘れ物をした。
教科書とかお弁当とか手紙とか図工に必要な空き箱とか、いつも忘れた。
勉強自体はできたほうなので、そんな自分がどうしてこうもなさけなく日々忘れ物を繰り返すのか、自分でもわからなかった。いつもクラスでバカやってる男子のほうが、よっぽどしっかりと持ち物を把握している。
手の平に書いても、次は忘れないようにしようと思っても、ダメだった。
工夫も反省もしている。でもそんな言い訳を母が許すはずがなかった。
忘れ物が発覚するたびに母は強烈に怒った。だからあんたはダメなんだと言われた。なんでちゃんと覚えておかないのと言われた。「でも、」と泣いたら、余計に怒られた。
そして母は私にナンバリング制を課した。これもきっと何かで見たんだろう。
忘れやすいものの順で番号を振り、それを私は毎日復唱することになった。
1番:お弁当
2番:上履き
3番:おたより
4番:ペットボトル
母が「1番は?」と言ったら私が「お弁当」と答える。それを4番まで繰り返す。
4番に唐突に「ペットボトル」が入るのは、私の小学校ではなぜか図工で頻繁にペットボトルを使ったからだ。頻繁とはいえイレギュラーである「ペットボトル」を私は忘れずに持って行けた試しがない。
この復唱に意味があったのかなかったのかはわからないが、少なくとも私はこれによって毎日少しずつ追い詰められた。
ここまでして、もし、忘れてしまったら。
そのときの母の怒りを想像するだけで恐ろしかった。そしてたぶん実際に私はそれでもなお忘れ物をしたと思う。そのへんは、もう覚えていないけど。
いまとなっては、そんな昔の記憶も、朧げになっている。
時間が経つというのはそういうことなのか、私がいろんなものを手放して失ったからなのかはわからない。
でもだから私は、いま、まぁまぁ幸せに暮らせているんだと思う。
そう思うと、我が子の過去をつぶさに残してしまうことが果たして本当にいいことなのか、私には疑問に思うときがある。
忘れるのはたぶん、そう悪いことではないんだ。
ただ、このごろ思う。
忘れようとしたもの、手放したもの、失ったものは、私の目に見えないだけで存在している。
そしてひとつだけきちんと伝えたい。
それらのなかには、忘れたくなかったもの、手放したくなかったもの、失いたくなかったものもあるんだということを。
どうかあなたに気づいてほしい。
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