質点はどこにあるのか――理論が対象を決める瞬間
皆さん、こんにちは。
HSP×アンチ東大主義の、@おはようございますです。
どの学問でも、分かりやすさを重視するならば、
まず「もっとも基本的で単純なもの」から話を始めるのが定石である。
力学において、その役割を担うのが質点という概念だ。
質点とは、物体の大きさを限りなく小さくした極限として考えられる存在である。
しかし、現実の世界にそのようなものが存在するわけではない。
日常物体にせよ、あらゆる物体は必ず大きさをもつ。
したがって質点とは、きわめて抽象的な概念である。
それでもなお、力学では質点を用いることが許されている。
それは、問題設定において物体の大きさを無視してよい限りにおいて、
質点という抽象化が現実を十分よく記述するからである。
たとえば地球は、直径およそ $${10^7}$$ メートルという、
私たちの日常的な感覚からすれば巨大な物体である。
しかし、太陽のまわりを公転する運動を論じる際には、
その大きさを無視して質点として扱っても、現象の本質はほとんど失われない。(ここまでは『新・物理入門』の記述に依った。一部の表現を改めた)
一方で、地球の自転を論じる場合には事情が異なる。
このとき地球はもはや質点ではなく、
大きさと形状をもつ剛体として扱われなければならない。
同じことはミクロな世界でも言える。
ヘリウム原子はおよそ $${10^{-10}}$$ メートルという極めて小さな存在である。
気体分子が容器の壁に及ぼす圧力を論じる際には、
ヘリウム原子を質点とみなして差し支えない。
しかし、発光現象や内部構造を扱う場合には、
その大きさや構造を無視することはできなくなる。
このように、同一の物体であっても、何を問題にするかによって、
質点とみなすことができたり、できなかったりするのである。
ここで一つの疑問が浮かぶ。
この判断には、ある種の恣意性が含まれているのではないだろうか。
すなわち、「どの状況なら質点とみなせるか」という選択は、
私たちがすでに採用している理論や、
導きたい結論をあらかじめ含み込んでいるのではないか。
同一の物体に対しても、何を問題にするかによって質点とみなせたり、みなせなかったりする。
しかしその判断は、単なるスケール感覚の問題ではない。
私たちは「何を説明したいのか」「どの量を変数として立てたいのか」という理論的枠組みをすでに背負ったうえで、その物体を見ている。
言い換えれば、
質点として「見える」かどうか自体が、理論によって規定されている。
地球を太陽の周りの運動として扱うとき、地球は自然に質点として立ち現れる。
一方、自転や潮汐、内部構造を問題にした瞬間、同じ地球はもはや質点ではありえない。
ここで起きているのは、対象が変わったのではなく、
問いと理論が変わったということだ。
この意味で、
「質点とみなす/みなさない」という判断は、理論負荷的である。
私たちは中立的な世界をまず眺め、その後で便宜的に質点化しているのではない。
むしろ、あらかじめ採用した理論が、
「この対象を質点として扱うことに意味があるかどうか」を決めている。
だから質点とは、
世界に最初から与えられている単純な存在ではなく、
理論が要請したときにのみ浮かび上がる存在なのだと思う
