ずれていた家庭教師の言葉 |教育|人間関係|自己分析|承認欲求|エッセイ|家庭教師|学び|
皆さん、こんにちは。
HSP×アンチ東大主義の、
@おはようございますです。
大人になってから、
勉強でわからないところを
教えてもらうために
家庭教師を頼んだことがある。
私は、自分で使っている教材を持ち込み、
わからない箇所を質問するつもりだった。
必要だったのは、ただ目の前の疑問を
「悩んで当然だ」と
肯定付けてくれる時間にしたかった。
けれど、その家庭教師は違った。
授業が始まると、自分の経歴を語り始めた。
どこの中高一貫校に通っていたか、
どれほど成績が良かったか、
どんな偏差値の高い大学に進んだか、
仕事でもどれだけ認められてきたか
――そんな話が延々と続いた。
私は教材を開いて待っていたのに、
話題はなかなか勉強に移らない。
気づけば、その時間の中心にあったのは、
私の学びではなく、その人の「自分史」だった。
そのとき、私は静かな違和感を覚えた。
なぜ、この人はこんなにも
自分の実績を語るのだろう。
本当に自信があるなら、
わざわざ語らなくてもいいはずだ。
実力があるなら、言葉よりも教え方に現れるはずだ。
にもかかわらず、過去の実績を繰り返し並べるのは、
そこに「わかってほしい」という承認欲求が
あるからではないかと思った。
そして、その承認欲求の奥には、不安がある。
自信があるように見える人が、
なぜ何度も自分の価値を
説明しようとするのか。
それは、
自分自身がまだその価値を
確信しきれていないからかもしれない。
本当に自分の歩みに誇りを持っているなら、
それはわざわざ人に聞かせるものではない。
誇りとは、
他人に「すごい」と言わせるための材料ではなく、
自分の中に静かにあるものだからだ。
人に認めてもらうことで保とうとする自信は、
裏返せば不安の表れでもある。
あの家庭教師の言葉に感じた違和感は、
まさにそこにあったのだと思う。
私が求めていたのは、
知識を教えてくれる人だった。
けれどその人が求めていたのは、
自分の価値を認めてくれる聞き手だった。
そこには、はっきりとした「ずれ」があった。
教えるという行為は、本来、相手に向かうものだ。
相手が何につまずき、
何を知りたいのかに心を向けることが大切だ。
けれど、自分を語ることが中心になると、
その視線は相手ではなく自分に向いてしまう。
あのとき感じた違和感は、
単なる相性の問題ではなかった。
それは、「教える」という場にありながら、
その人の関心が私ではなく、
自分自身に向いていたことへの違和感だったのだ。
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@おはようございますでした。
