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群像新人賞受賞作を解体する~傾向と対策②~ 

 近年の群像新人賞は、社会的題材そのものよりも、「社会をどう知覚するか」という形式を競っている。最近の受賞作『アザミ』もその典型例である。『アザミ』を読み解くと、いま群像が求める“現実の見方”が見えてくる。まずは箇条書きに列挙し、いずれは完成稿としたい。随時更新中なので、気楽にご参加ください。
 さて、冒頭近くにこんな場面がある──

……なかなか本格的なカメラを抱えた男と、タウンレポートか何かを任されたニュースキャスターのような格好の女二人が数メートル先の歩道をふさいでいる。……十数メートル後ろから聞こえる「募金へのご協力お願いします!」の声が車のタイヤに轢き潰されていく。攪拌されてドロドロになったその音の残骸から私は逃れようもなく取り囲まれる。……
 と、そのユーチューバーらしき集団の真横の店から……

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1.文体的強度


「引き潰される」「攪拌」「ドロドロ」「残骸」という単語が持つイメージがぶつかり合って、1つの場面描写として立ち上がらない。「倫理がノイズ化していく時代における言語の混乱」を描きたいという、詩的・社会批評的には成功しているが、可読性が落ちている。まあ、こういう瑕疵は気にならないというのが群像の姿勢なのか。それでも群像はこの“危うさ”を評価するのだろう。

2.意図的なのか

「ニュースキャスター」は番組の司会・進行を任される人を指すのだがら、ここでは「レポーター」と言うべきである。意図があるのなら、取材クルーをみて「編集された番組」を視聴しているような感覚で捉えたのではないか。つまり、我々はナマの現実そのものを見るのではなく、テレビ的な構図でみていることを暗喩しているのだろうか。

3.なぜ取材陣を誤認したのか。

 数名の取材クルーを見て、はじめは「ニュースキャスター」と捉えたものが、いつの間にか「そのユーチューバーらしき集団」という認識の更新が行われている。ここにはメルロ=ポンティやフーコー的な「知覚の制度化」が潜んでいるように思われる。

現代の知覚は、もはや身体的ではなく、社会的にコード化されている。わたしたちは”見る”前に”ラベル化してしまう”。

 知覚の政治化と言うべきもので、現実を体験しているのではなく、現実を分類しているからこそ、彼女(主人公:アザミ)の社会的批評的射程内に収まるのだろう。

4.ここにきて分かったこと

 冒頭から社会の断片的な描写が進む。「活動家」「小児がん」「募金」「震災」「戦争」「反戦パフォーマンス」と言うのは、全て彼女が新聞校閲に関わっているからの切り取り方だ。別の職業に当たる人は、違うことを描写するかもしれない。小説家志望であれば、教科書的な情景描写に季節感を感じさせる描写となるかもしれない。
 やはり、他人は自分の関心のあることしか観えないのだ。見えているようで観えていない。「見えているようで観えていない」──それはアザミだけでなく、私たち全員の知覚のかたちかもしれない。
 だからこそ、文学はその盲点を言葉にする装置であり続けるのだ。

5. いったん区切ります。         

 千文字くらいがストレスなく読みやすいですから、続きは皆さまの中で、たったお一人でも「スキ」して下されば、続けます。ありがとうございました。応援よろしくお願いします。😊


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