スコア最適化としての学び |序列が方向を決めてしまうとき|大学受験|社会問題|評価社会|偏差値|競争社会
皆さん、こんにちは。
HSP×アンチ東大主義の、@おはようございますです。
ある指標が設定される。
その指標で測られる。
スコアが出る。
序列がつく。
それが公表される。
この流れは、私たちにとってあまりにも当たり前になっています。
しかし、その当たり前の構造の中で、学びは静かに形を変えているのではないでしょうか。
指標があると、人は最適化する
模試の点数。
偏差値。
順位。
それらが評価基準であると明示された瞬間、人は自然にそこへ適応します。
・頻出問題を解く
・出題傾向を研究する
・点になる部分を優先する
・点にならない部分を後回しにする
これは怠けではありません。合理的な行動です。
問題は、その合理性が繰り返されることです。
やがて学びは、「理解すること」よりも「得点すること」に向かっていく。
測定可能なものだけが残る
スコア化できる能力は強調されます。
速く正確に読む力
選択肢を消去する力
パターンを見抜く力
一方で、測りにくいものは目立たなくなる。
納得できない違和感
答えが出ない問い
寄り道の思考
役に立つかわからない好奇心
これらはスコアに直結しにくい。
だから削られていく。
学びは徐々に、「測定可能なもの」に収斂していく。私の独断ではないです。あの鉄緑会でも、「非常に専門的で、本質的に難しいテーマ」に「労力を注ぐのは賢明な試験勉強法とは言えません」と苦言を呈している(『物理攻略のヒント』ⅰ-ⅱ頁)
序列の公表が方向を固定する
スコアが個人の中にとどまるだけなら、影響は限定的かもしれません。
しかしそれが公表されるとどうなるか。
上位者が可視化される。
数字が社会的価値になる。
その数値が「優秀さ」の象徴になる。
すると、
「あの順位を取ること」が目標になる。
その順位を生み出した学習法が模倣される。
他の学び方は見えなくなる。
こうして学びは、ひとつの方向へと強く引き寄せられていく。
学びは本来、多方向的だったはずだ
本来、学びはもっと曖昧で、回り道が多く、効率が悪いものだったはずです。
理解できないまま悩む時間。
関係ない本を読む寄り道。
答えが出ない問いを抱え続けること。
しかしスコア中心の世界では、それらは「非効率」とされる。
やがて私たちは無意識のうちに考え始めます。
「点にならないなら、やらなくていいのではないか」
この発想が広がるとき、学びは豊かさを失う可能性があります。
それでも指標は必要だ
もちろん、現実問題として指標は必要です。
大学は選抜をしなければならない。
組織は評価を行わなければならない。
社会は何らかの基準を持たざるを得ない。
問題は、指標の存在ではない。
指標を唯一の価値にしてしまうことです。
問いはここにある
学びがスコア最適化の装置になってしまっていいのか。
測定できる能力だけが価値を持つ社会でいいのか。
そして何より、
測定できない学びを、私たちは守れているのか。
スコアは便利です。
公平にも見えます。
努力の結果を可視化します。
しかし、学びが一方向に収斂していくとき、
私たちは何を失っているのか。
その問いを、忘れないでいたいと思います。
皆さんはどう思われたでしょうか? コメントでお知らせください。🍀
