考えることが痛みに変わる瞬間
このタイトルに“ビビッ”ときた方なら、きっと次の一文にも共鳴すると思います。
一つには精神の発達、思春期の動揺が、事物に対する客観的な目をますます育てることである。対象が対象として自我からつき離され、覚めた目で観察されるに伴い、それをそれらしく表現することの難しさを痛切に感ずる様になる。加えて第二にこの時期は対象が客観的に見えるばかりではない。自己自身に対しても同じである。それはくり返し自己への批判、不満をひき起こして止まるところがない。これまでの様に素朴な疑いをもたず、自分の言葉、自分の形式で対象を割り切ってとらえることにためらいを感ずる。そして対象を客観的に把握しようとすればするほど、手はそれに伴わず、ついにはそのことに絶望し描くことをやめるのだ。
「お勉強」と「学問」って、似ているようで全く違うものですよね。
前者は“覚える”行為、後者は“考える”行為。僕はどちらかというと、後者に惹かれるタイプです。いや、惹かれるというより、逃げられなかったという方が正しいのかもしれません。
中学生の終わりごろから、急に世界が遠くに見えるようになりました。
それまで見えていたものが、少し冷たく、抽象的に見えるようになってきた。
同時に、テストの点数は下がっていきました。思考が深くなるほど、ペンが動かなくなる。これ、笑い話みたいだけど本当です。😅
何で上手く行かないんだろう。今振り返ると、その時期って「創造性が自分に牙をむく」瞬間だったんですよね。
何かを表現したい。でも、表現する自分を見つめすぎて、手が止まる。
それは、自己批判が思考を超えて“自己嫌悪”に転化するタイミングでもあります。
僕はその頃、中井正一『脱出と回帰』(青空文庫にあります)を読みました。
そして町田宗鳳『〈狂い〉と信仰』にも出会いました。
……うん、タイトルからして厨二病っぽいですよね(笑)。でも、あの頃の僕には、世界の意味がわからなくなることこそ「真剣に考える」ということだったのです。
さらに拍車をかけたのが、ゲーデルの不完全性定理。もちろん、啓蒙書レベルの理解ですが、
「どんな体系も自分自身を完全には証明できない」という一文に撃ち抜かれました。(注意:この一文は学術的には不完全です。当時の帯についていたキャッチコピーです)
──人間も同じじゃないか?
考えれば考えるほど、沈黙の方が雄弁になる。そんなパラドックスに気づいてしまったのです。ちょうど、考えすぎてしまって飛べなくなったキキのように(魔女の宅急便)。
今でも僕は書きながら、自分の中の“沈黙”と闘っています。創造するということは、結局、思考と感情の綱引き。ときに自分に牙をむかれても、それでも書く。
なぜなら、書くことこそが僕にとって「生きて考える」ということだからです。
皆さんはどうでしょうか。
どんなきっかけで「書く」という創造の沼にハマりましたか?
コメントでも、スキでも、教えてくれたら嬉しいです。
